被災作品修復記



はじめに

 東日本大震災では、当然のことながら多くの文化財被災があった。
 仙台では青葉城の石垣が崩れ、青葉城址に歴史的モニュメントとしてあった鋳造の鷹が落ちた。石巻では、市の文化財を集めた文化センターが水没し多くの収蔵品を痛めたという。個人的にかなりショックだったのは、茨城県五浦の六角堂が津波にのまれ消滅したことである。しかし、多くの町が壊滅しながら意外に公立美術館の被害例は限られていた(たまたま津波被害のエリアに美術館が少なかったことによる)。唯一大きな被害があった公立美術館は気仙沼市にあるリアスアーク美術館である。ここにしても高台にあったために津波被害は免れており、建築物に深刻な被害はでたものの、収蔵品が一部損傷しただけで済んだのは不幸中の幸いというものであろうか(とはいえ後述するように、周囲の町という町が壊滅してしまっており、その修復復旧の見通しはまだ立っていないのだが)。

 ところで、問題はそのリアスアーク美術館の収蔵品一部損傷の一部である。
 つまるところその一部とは、美術館に委託していた自分自身の作品をほぼ指す。
 もちろん自作以外にも破損した作品がいくつかあったようではあるが、おそらく決定的に壊れたのは自分の2作品においてほかはないだろう。二つとも縦長の形状で石膏など割れやすい素材だったこともあり、地震の揺れに耐えられず倒れ粉砕してしまったのであった。おそらく全国的に観てもこの2作品は、今回の震災で決定的に壊れた唯一の公立美術館展示作品だったのではないか(特にコンテンポラルなものとしては)。ということでよく考えてみれば自分の立場は、今回、実際的な意味において、被災作家そのものなのであった(もっともアトリエを丸ごと流されてしまった、もっと深刻な作家もいるわけなのだが―例えばリアスアーク美術館学芸員の山内さん自身がそうなのだが)。

*(美術館ではないが、陸前高田にあった市博物館では壊滅的ダメージがあり、職員の方も多く犠牲になられた。冥福を祈りたい。
また公立美術館展示作品の被害としては、宮城県美術館や水戸芸術センターなどの企画展・展示作品に被害がでていることをここで補足しておきたい)。



 震災後しばらく冷遇されていた文化面だったが、さすがに数カ月経過して、しだいに関心を集め、様々な支援、チャリティー展による募金など、とりわけ石巻市文化センターへの文化財レスキュー派遣などのニュースを耳にしてきた。
 が、そういう中にあっても、リアスアーク美術館での自作被災に関しては、ほとんど関心をしめされることなく、何ら同情されることなく(これは自分の日ごろの行ないが悪いのかもしれないけれども)あっという間に半年がすぎてしまった(自分の知る限りでは唯一何かに写真入り記事がでたのみで、その写真も軽度被害の別な作家の作品を中心にして写されており、倒れ半壊している自作は後方にちょっと見えるだけというものだった・写真参照・手前の大きな黒い作品は別な作家の作品)。この無反応は、門外漢の人々ならいざしれず、同じ美術関係者であってもほとんど変わらず、美術館の建物自体が壊れたんだからしかたがないとか、街そのものが壊滅したんだからしょうがないとか、家や車じゃないんだからよかったねという感じで、しだいに腹が立ってくる。作家にとって作品というのは自分の命そのものではなかったのか?第二次世界大戦での欧州では、美術作品を子供達同様に空爆から守るために街の外に疎開させたりするわけだが、この国ではまず大切なのは建物であって、中身は二の次の様である。一皮むいてしまえば文化果つる地の野蛮人ばかりが跋扈している。まあ別な観点から言ってしまえば自分の作品にそれだけの価値が認められていないということになってしまうのかもしれないが、それはそれで、自分達の美術館の見識や意義そのものを否定していることに気がついていない。
 ということで今回の被災はよい経験となった。普段のたてまえが消滅し、地が露出してしまった時、いかに暗黒世界がぱっくり口をひろげていることか、、。国も政府も役所も他人もあてになるものではない、、。
 そもそも自分が11月までリアスアーク美術館へ修復に行けなかった主たる理由には、今年巡ってきてしまった「教員免許更新講習制度」の存在がある。私費で30時間講習(手続きや交通の手間を顧慮すると100時間ぐらい費やされる)を受けないと教員免許を取り上げられてしまう(というか、10年ごとに全教員の免許を一度取り上げ、規定の講習を受け試験に受かったもののみにその免許の更新を許可するという)恐ろしく強圧的国家的暴力制度なのである。 非常勤講師で細々となりわいを立ててきた弱い立場の自分をこれでもかといじめ抜く、恐ろしく理不尽、無意味、迷惑千万な悪法。まあ話がずれるのでここでその精細を述べるのは控えたい。いずれにせよ震災後の切羽詰まったこの状況下で、膨大な神経と労力、時間をこのよくわからない講習へ費やさざるを得なかった。
 思えば国家の祝日たる旗日をずらして連休をつくる景気対策が簡単に国会を通過してしまったころから、この国は阿呆かと思える失態を演じ続けてきた。今回の大震災でのあらゆるインフラのマヒ、原発問題、マスコミ(特にNHK)、政治家、学者の欺瞞ぶり、、、そしてこの教員免許更新制の続行、、、。国家や政府やマスコミがいかにいい加減なもので、信用できないものであるか、よくよく骨の髄まで理解することとなった。だから民主党がマニフェストを180度転回し、ウソどころか、公約と真逆な豹変を遂げようと、さらにはそれを国民やマスコミが許容してしまうのを目にしようと、あるいは許容せざるをえない、、でたらめで行くしかない現在の危機的状況を認識しようとも、特に驚くにはいたらないのである。



 
作品再会

 というわけで、ようやく11月になり時間が取れる様になったので、2時間半かけて、とぼとぼと一人でリアスアーク美術館へおもむくことになった。
 前回訪れたのは昨年の11月だったので、ちょうど1年ぶりとなる。その折には帰路通った志津川の町がとても美しく、今度ゆっくりこの町に来てみようと思ったのだったが、いまやその町もあらかた壊滅してしまった。今回は被災証明のおかげで高速道路が無料になるので、岩手県一関市から気仙沼に入って行った。気仙沼市中の一部をかすめて高台にあるリアスアーク美術館へ。途中にあった気仙沼駅周辺や以前宿泊したホテルや民宿が無事なのでちょっとうれしくなる。美術館への山道は、予想外にぐにゃぐにゃと陥没しており、マンホールが約40センチほどせり出している状態で危険であった。この分ではそうとうな揺れが、この高台一帯にあったことが推測される。事実学芸員の山内さんの話では、公には震度6弱だったのだが、以前、6強でも大丈夫なように補強された箇所が、今回破損しているので、おそらくこの界隈ではそれ以上の揺れがあったのではないかということだ。
 美術館につくとワークショップの部屋に通され、学芸員の山内さん、岡野さんとまずはコーヒーで一服。
 山内さんとは震災後仙台で会っているのだが、こうやって気仙沼で会うとまた全然様子が違って見える。岡野さんは相変わらずという感じ(この相変わらずというのもこの状況下においてはなかなか得難いものである)。ワークショップの床には無数の亀裂がはしり、さながら荒川修作の作品のよう。自分の務める仙台の学校にも同様の亀裂がはしるが、これほど集中的にはしっていない。ワークショップの部屋で一か月以上寝泊まりしてきたということもあり、以前にもまして生活感があり雑然とした様子。
 しばらく気仙沼の様子など伺ったのち、いよいよ破損した自作を観に展示場へ行くことに。途中の通路にはところせましと民俗資料の収蔵品が床置きしてある。入口正面のメイン階段は歪んでしまったようでグラグラと揺れる。
 展示会場は思いのほか綺麗に片付いていた。体育館の様な広い空間はほぼ空っぽになっており、ただ奥の壁際にポツンと自作が二つ横たえられているばかり、、。一つは石膏がぐしゃぐしゃに割れ、無数のヒビが入り、きしんで曲がっていた。もう一方は上部が重かったためか、もとの石材と後付けの下方部の接合箇所から真っ二つに割れていた。ただし下方部に目立った破損が見受けられなかったのにひと安堵した。予想と異なる破損状態で、うまくいけば明日までには修復可能であると見込みを立てることができた。この展示場では、暖房も水も無いし不便とのことで、作品をワークショップの部屋まで運ぶことになった。3人で長い脚立に布団をのせ、石膏作品をのせて運ぶことにする。さながら怪我人を担架で運ぶようなものである。
 

 修復作業

 まず修復作業は、真っ二つに割れた石の作品の接着作業からはじめられた。
 石と木をくっつけるボンドをワークショップからもらい、接合部分に大量に塗りたくる。その上で重い石材をいっきに嵌めこむ。予想以上にぴたりとくっついた。あとは間の隙間、破損した部分やひび割れ部を同様の素材で埋め込んで行くだけである。
 石材作品のボンドや石膏プラスタ―が乾く間、石膏作品の方にとりかかる。こちらはいくつもの個所が割れ、立たせると自身の重みでかしいて曲がってしまう。それを山内さんや岡野さんがいっしょになって脚立に縛り付け、垂直に矯正してくれる。割れた個所やヒビへ、新たに石膏直付けで穴埋めをほどこす。山内さんも石膏をスポイル状の容器から隙間という隙間に流し込んでくれた。この作業までで深夜になってしまう。
 この日は美術館に泊めてもらうことになっていたので、山内さんとコンビニに行って夕食の弁当を購入する。被災地の夜中、コンビニの光には無数の霊が群がってくるという話を各方面から聞いていたのだが、この時は特に何も見えなかった。自分の宿泊に山内さんも付き合ってくれるとのことで、夕食を食べながらいろいろと震災をめぐる話を伺うことができた。どうしても自分は自作の修復に神経がとられ、話を切り上げざるを得ないのが残念であったが。

 震災時、美術館で仕事をしていた山内さんは、津波の直接的被害を免れることができた。しかし自宅は津波にのまれ跡かたも無く流されてしまったという(正確には階段が3段残っていたそうだが)。教員である奥さんも学校にいて大丈夫だった。その後ずうと其々別々の公的な職場で寝泊まりしながら其々の建物を守り続けてきた(山内さんのほかにも家をなくした職員が何人もここに身を寄せ合っていたという)。震災後食料が無くなりとても大変だったそうだ。ある時外で缶詰が複数落ちているのを見つけ、拾ってきて雪でヘドロ(気仙沼のヘドロは重油と魚油が混ざっている)を落として食べることができとてもうれしかったという。しばらくたって青森から作家の首籐さんが食べ物を持ってきてくれやっと一息つけたとのこと。それまではなんら救援物資がとどかなかったとか(この建物自体が救援物資保管所に指定されたくさんの物資が運び込まれたというが、彼ら自身の食べ物はいっさい手に入らなかったという)。
 確かに仙台でも震災後は奇妙な状態が続いた。たくさんのヘリコプターが空を駆け巡る一方で、その下にある住宅地は閑散とし、全てのライフラインが止まり、店は閉まり、ガソリンは無く、水と食料が底をついた。救援物資は全て津波地帯の避難所へ集められており、住宅地には一切まわってこなかった。特に山の上を切り開いて造営された住宅団地にある自分の家には、ほとんど備蓄や用意がなく、小さな子供達をかかえ非常に危機感をつのらせた。大人は我慢すればいいのだが、子供にはなにか喰わせなければならない。かといって何処で食べ物が手にはいるやらわからない。自分の足で歩くほかないのだが、子供を長時間ほっておくわけにはいかないし、つれまわしたり行列に並んだりは無理である。原発からまき散らされたというセシウムも気になる。
 このような日が「はてしない」と思えるほど続き、特になんらかのアナウンスとかお知らせのチラシとか見回りの人が訪ねに来るということもなにもなく、ただただほっておかれたのであった。自分の場合、一応親戚の家が近くにあったので事なきを得たのだが、そういう頼れる存在の無い、例えば一人暮らしの老人などは本当に大変だっただろうと思う。
 こういう事態になってみると、日ごろの建前も消えうせ、弱い立場の人間は省みられない。子供がいても世間や社会から何も助けはこない。ひたすら親が守るしかないのである。戦時中のようでもあるが、町内会や隣近所の相互扶助がなくなっているので、それ以上に過酷な部分がある。いかに現在の日本社会が実体の薄い危ういものであるかということを身を持って知ることができた。
 おそらくリアスアーク美術館でも、この状況下で美術館とか、美術作品とか、美術館職員とかになにひとつ配慮がなされず、ただ見捨てられたようにほっておかれることとなり、ひたすら自分達で守り続けるほかない状況にさらされてきたのではないだろうか(職員各人の家庭をなおざりにしつつも)。そう思うとあらためて彼らに感謝したくなる。震災後まず公的に美術館に通達されてきた知らせが、学芸員などをのぞく全ての職員の解雇命令だったとか。そういえばいつもここにいるはずの顔がない。戦争真っただ中では、敵捕虜をどさくさに殺したり、条約も何もあったものではない。子供や老人は無視され、美術作品の破損などは当然省みられることは無く、盗賊も不当解雇もなんでもありうる。街そのものが壊滅するとはそういうことなのかもしれない。

 
 ところで、山内さんは、買ったばかりのパソコンも津波で流してしまったそうだ。
 3月11日は、ちょうど昨年自殺してしまった佐藤健吾エリオさんの遺作を整理することになっており、「まあ使わないか」ということでその日だけなぜか自宅の玄関に置いて来てしまったという。その日、南三陸町に出張することになっていた岡野さんはじめ他の職員達も、じゃあその遺作整理を手伝うかということで、美術館にのこることになったのだそうだ。おかげで南三陸町・志津川を襲った津波をまぬがれることができたのである。その話を聞いて、自分は何よりも、自分と同年代の佐藤健吾エリオさんが亡くなっていたという事実に大きな衝撃を受けたのであった。彼がみんなを守ってくれたのだろうか。
 そこから震災前の異常な出来事に話が及んでくる。今回の東日本大震災ではいろいろな予兆があったことを確かめあう。その晩聞いた話の中で特に印象深かったのは、山内さんが飼っていたウサギの話であった。このウサギは震災前から異常行動をとるようになっていたという。夜中に耳をぴんと立てて、白目をむき後ろ足を何度も蹴りたてる。外敵に対して行なう極度に攻撃的な行動のようだ。ウサギはおそらくこの部屋の中で自分が部屋ごと津波に飲まれることになるのを察知していたのかもしれない。山内さんのノートパソコンのディスクトップには、彼には似つかわしくないと言ったら語弊があるかもしれないが、この可愛らしいウサギの写真が大きく映し出されている。
 そういえば、壁際には、今はなき解雇された職員の嬉しそうな笑顔の写真が無造作に貼られている。ブラックバスかなにかを釣り上げた時の快心の笑みだ。おそらく日々彼は、それら失われてしまった者たちを想い続けているのではないだろうか。

 その後いつしか気仙沼の復興活動に話が及ぶ。
 今までのデータ―からすれば、気仙沼にはまた必ず津波があり、しっかりと時間をかけて抜本的に対策をこうじなければ、また同じ繰り返しになるのに、近視眼的な損得勘定が先走ってのことなのか、手軽な対策ですませてしまおうという動きが強いのだという。経済的な待ったなしの問題と、対・津波の盤石な備えを構築することはなかなかかみ合わない様だ。やはり国などから長期間の保障がないと目先のことに左右されざるを得ないだろう。
 岩手県宮古市の田老の防潮堤が今回ダメだったのも、妙な私惑がはたらいたせいではないかという。過去の田老町壊滅の経験を生かして構築された、当初の防潮堤は非常によく考えられており、海側に向かって突き刺さるように三角型にはりだしていたそうである。事実それはチリ地震津波を防ぎ切り役割を果たした。しかし、その後どういうわけなのか、さらにその外側にもう一層新しく防潮堤を付け加えてしまった。その後付けの防潮堤は、どうしたわけか逆に海側に開いた形をしていたのだという。今回の津波では、その開いた形が命取りになってしまった。中央に波を集めてしまい、中央部分から防潮堤が壊されていく。そもそもどうして後付けで防潮堤を二重にしたのか?よくわからない。使用できる土地をより多く確保しようとしたのか、防潮堤の大義名分で土木建築をしたかったのか、、、。
 そのような話を聞き、なにやら人災的な匂いがしてくる。そういうことってテレビで伝えてるのだろうか?

 作業は結局深夜2時すぎまで続いた。
 深夜こうやって修復作業に没頭していると、自分も今回の震災被災者なんだなあとしみじみ実感する。自分の住まいや親戚の家なども被災したのだが、やっぱり作品となると切実さが違うようだ。もっと早くここに来るべきだった。何よりも優先して、、、。2時半にソファーのようなものに布団をしいて寝た。深夜の美術館は本当に静かでまったく音がしない。周囲は山に囲まれているということもあるのか、車が通らないということなのか、とても不思議な一夜となった。山内さんが、震災後美術館の襲撃に備えて、警備に廻っていたとき、「これを持って廻ってましたから」と見せられた武器が鋭いピッケルの様なもので、とてもものものしいのもうなずける。こんな静かで人里離れたような場所が襲撃されたとしたら、なかなか救出も望めないだろう。


翌朝

 翌朝八時過ぎに起床。生まれて初めて美術館で迎えた静かな落ち着いた朝。
 シーンと静まり返ったワークショップの部屋は雑然としているがとても趣がある。何に使われたのかよくわからない物品や工作物がところせましと置かれている。窓にはどんよりと曇った冬枯れの山や草原がひろがりどこか現実離れしている。こんな広い建物に、ポツリポツリと数人の人間しかいない。
 まるでタルコススキーの「惑星ソラリス」の宇宙ステーションの様。そういえばこの美術館自体が、三陸の海にちなんで船をモチーフにつくられており、なんとなく半ば遭難しかけた大きな宇宙船を思わせてくれる。そんなことを山内さんに話すと不可解な表情。一夜限りの気楽な訪問者のとるにたらない妄想。この船はどこに向かっているのだろうか?

 ほどなくして岡野さんも出勤。副館長さんがあいさつに来られる。
 副館長さん自身民俗学者で、ご自宅が津波で流され、御家族も失い、フィールドワークにしてきた漁村も根こそぎ消滅し、とても辛い状況にあると聞く。

 朝食後、ふたたび修復作業。穴埋めした部分の着色。13年前の自分の作業をなぞるのはなかなか難しい。現在の感覚とどうしてもずれてきてしまう。13年前の自分は今よりもかなり無造作であり、大胆だったんだなあとあらためて思い知らされる。昼食後、午後2時ころ作業完了。再びこれら2作品をこの部屋から運び出し収蔵庫へ運び入れる。久しぶりのリアスアークの収蔵庫には、他の自分の作品がいくつかあり、まったく10年まえと変化していないことを確認。収蔵庫の中は、ここだけは何事も無かったかのような晴朗な空気と清潔さを保っていた。さながら作品にとっては天国のようなところなのだ。

 ワークショップへもどり、最後にみんなで一服。
 予定通り修復作業が進んでひと安堵。

 そういえば、震災後、彼らは、この美術館を守りながら、同時に震災の記録を収集してきたという。
 何万枚という写真を被災地各所で系統的に撮影してきたらしい。当初は周囲の理解が得られず、こんな時に何で写真なんか?と言われてきたそうだが、自ら説得し、現在は市長直々の特務として公的に動いているという。断片的な写真記録は其々なされてきているだろうが、このような系統的、継続的記録収集は、今後大変貴重なものになっていくだろう。彼らは写真以外にも様々な具体的事物―津波被害の刻印された瓦礫をも収集しているとのこと。重機がなく、二人のみになってしまった職員で、かつ法的な規制もあり、なかなか思い通りに収集できないらしい。現在ほしいのが津波でつぶれた自動車だそう。たしかに津波による破壊跡は一種独特で、今まで見たことの無いような壊れ方をしている。
 今後はそのような物品を常設展示するコーナーを構築する予定であるという。いよいよ本格的復興、再開に向けて動き出している様でとてもうれしくなる。
 最後に山内さんが言うには、やっぱり今後重要になるのは、単なる、写真や物による資料提示ではなく、「表現」だという。表現を残さないと、結局人々の心には届かないし、記憶が継続されていかないだろうという。まったく同感である。彼は自身の著作・小説『砂の城』の第二弾を構想しているそうだ。そういう観点からもやはり「ゲルニカ」のような存在は大切なのであり、日本では丸木夫妻の原爆図などはあるものの、「ゲルニカ」に匹敵できる表現性のある作品が残されなかったように思われる。今後東日本大震災を踏まえた優れた美術作品が生みだされるのだろうか?戦争と自然災害は異なるので、なかなか難しい面があるように思われるが、ここから何かを生み出さなければうかばれない様な気がするのも事実である。
 ということで、あわただしい訪問ではあったが目的を遂げることができ、またの再会を期してリアスアーク美術館を後にした。
 本当に、山内さん、岡野さん、そしてこのリアスアーク美術館にはがんばっていただきたいものである。


 
気仙沼

 その後、まだ時間があったので、気仙沼の被災地域を見て行こうと思った。
 おりしも寒々しい雨が降り出し、震災当時の様な空模様。やはり海側の中心部はことごとく壊滅している。それでも当初ニュースで見ていた、陸に乗り上げた巨大な船は既に消えていた。だがまだまだ廃墟や瓦礫が沢山残されている。大きな街であり、建物も大きく、雰囲気が仙台の荒浜付近とまったく異なっている。まるでアフガニスタンあたりの市街戦の後のようだ(もちろんそれ以上ひどいのだが)。車を走らせている道路も、道路に見えるだけで、もともとあった市街地にかさ上げして盛られた急造の砂利道である。仙台でいえばまだまだ震災直後の4月の段階の様な感じで、復興は先の先の先という感じ。雨ということもあり、一様に壊滅しているということもあり、人影も無いので、大変恐縮ながら、いくつかの瓦礫を収集させていただいた(自分の場合は取るに足らないまさにゴミであるが)。かさ上げされた道から降りると、にじみ出て溜まっている海水やヘドロに足を取られる。思いのほかドロドロになってしまった。先述のように気仙沼のヘドロは重油や魚油が混ざり込んでいて、しつこい粘り気があり嫌な匂いがする。街によって其々瓦礫も異なるのだなあと思う。
 帰路、壊滅エリアを抜け出し、コンビニによりトイレを借りる。
 コンビニの床に付いた無数のどす黒い泥の足跡にびっくりする。この汚い足跡が全て自分のものだということに小さなショックを受ける。

 修復作業が思いのほか早く終わったので、翌々日、東京上野の芸大美術館で行われている恩師高山登退官記念展を観に行く。高山先生のアトリエはこの気仙沼のとなり本吉にある。上野の森に忽然と現れた被災地の写真と枕木は、かなりインパクトがあった(被災地に枕木をかついで立つ作家の展覧会ポスター、看板が大きくかかがられていた)。幸い御本人に会うことができた。「結局、宮城県沖地震ってどうなってると思う?」と聞かれ(退官後アトリエを仙台につくる計画があるらしい)、「とりあえず山内くんに聞くのが一番いいと思いますが」と答える。
 その後クリスマスシーズンの装いで華やいだ銀座の街を歩く。帰路地下鉄銀座線に乗り込み吊革をつかんで立っていると、目の前の女性が奇妙なしぐさで足を引っこめる。よく見ると自分の靴はどろどろのヘドロがついたままになっている。なんて汚い足だろう。ちょっと場違いな気恥ずかしさを覚える。
 おそらくこの泥が気仙沼のヘドロであることに誰も気づくまい。


                                                 2011年12月