連結―立ちあげ・拡張について<連関ー2>




続いていく欠落と補完



 欠落は決して完結しない。つねに新たな欠落を発生させその補完を強要し代用物を吸い寄せ続ける。
 欠落を介した果てしの無い因果律の連鎖は多層的に、あるいは横滑り的にただ「流れ」て行く。その「流れ」を、重力に抗し「立ち上げ」、前後左右に空間を「拡張」していく根拠として転じようとするこころみ。
、複数の欠片が其々の特性を発揮しながら相互補完し、連結、寄り添いながら、「立ち上がり」、「拡張」する。
 未だ実現しえない自身の「全貌」を、後天的に、現在進行的に探索しながら、、、。


 この世は「一寸先が闇」というように、未来の予測をつけるのは難しい。
 忙しい毎日では、その時その時の対応に追われ、その先が見えない。そのつどそのつどできうる限りの精一杯と思える選択と行為が永遠と積み重なり繋がって行く。今の選択はその前の選択と繋がり規定されており、その前の選択はさらにそのもうひとつ前の選択に規定されている。規定され繋がってはいても、しかしどの選択もその時の状況下におけるやまむにやまれぬものであり、ひとつとして同じものにはなり様がない。というのも「その時」のコンテクストが其々固有の文脈を持っているため、つねに同じではないからである。それはある種の血縁関係の様でもあり、同じ系譜にありながら一つとして同じではあり得ない。また途中の誰かが抜ければそこで途絶え今の自分は存在できない。途中に「イレギュラー」な因子が入り込めば、その系譜はまったく別方向転じてしまうだろう。
 あとから気がついて振り返ってみると、当初思っていたのとはまったく別な状況に至っているのに唖然とすることもある。しかしどんなに道を外れ、予測から逸脱していたとしても、そこまでの経緯は、すべて何がしかの因果律で繋がっているのである。
 我々の「選択」はつねにまっさらな―完全に自由な―選択はあり得ない。つねにある特定の状況―そこへ至る因果律の果てしの無い連なりを背負っている。そうして今なされた「選択」も次の別な「選択」に繋がっている。けっして完結しえない。
 そのことは、我々の生きざまの見かけが、ただ川の流れにたゆたう流木の様であったとしても、あるいは何らかの「規範」に誠実に対応した意志的なものであったとしても、または火事場でのたうちまわる様な興ざめなものであったとしても、なんらかわることがない。




「補完」の方向性・類別



 今までの「なおす」−「補完」の在り様を簡単に類別してみると以下の様になるだろう。


 1・なおす・延長・復元・合体  ―重層型

 2・連鎖            ―分化・複数型(単線的/複線的)

 3.連結            ―拡張型(単線的/複線的)

 4・連携(今後予定中)     ―拡張・複数型(単線的/複線的)


 以前の「1・なおす・延長・復元・合体」では、単体(ある閉じられたまとまり―予感される何らかの「かた」のようなものをめぐって)という一定の「かたち・かたまり」の生成をめぐって「補完」が企てられた。そえゆえ複数の「選択」がなされたとしても「重層的」になされることとなった。
 
 しかし「2〜4の連鎖、連結、連携」(総称して「連関」と呼ぶ)では、そのような依りつくべき一定の「シマ」は想定されず、複数の「選択」は、つぎつぎと他所へむけてスライドし、結果として、「分化」というかたち、「拡張」というかたちかいずれにせよ、当初の単体から外側へ広がっていくことになる。

 その場合、「単線的」にひとつひとつ次々と繋がって行くものと、無数の軸線が同時多発的に繋がり乱立交差する「複線的」なありようが想定されうる。



重力・自分で―立ちあがろうとする空間


 空間が無重力でないかぎり、「もの」である作品は、中空に浮かんだままではあり得ず、なんらかの着地面を必要とせざるを得ない。
 一定の閉じられた「かたち」−「かたまり」の生成をめぐってなされることのない、拡張型の補完―「連関」では、「着地面」が大変重要な構成要素となってくることになる。
 ある意味で、それぞれの「選択」は、着地面(ある種の基準のようなもの)をめぐって志向され、着地面に沿うように「連関」した姿が形成されていくと考えられる。なんのよるべもな何処へ行くともわからない、ただただ開かれた、スライドを繰り返すかのようなこの「連結・拡張」でも、唯一着地面である「地面」が共通の基準―制約となっている。
 そのつど与えられもたらされる状況としての「欠片」(欠落した現実)は、着地面という一定の基準(ある種の自然原理)とすりあわされるように「補完」(選択)されていく。ただいいかげんに、作者の思惟で「補完」(選択)されるわけにはいかない。「着地面」に重力を踏まえて、自ら立ち上がり自立するように(それは、つまり欠片の固有な特質が十分に実現されるように)「補完」(選択)される。

 この規範としての「着地面」の存在は、「1・なおす・延長・復元・合体」の補完における、おぼろげに想定されてきた「かた」の存在に該当するかもしれない。


 以上まとめると、

 「連結、連携―拡張」に潜在する志向性は、「欠片と『着地面』をめぐって生成してくる『かたち―空間』」、、、ということになるだろう。

 一方で「1・なおす・延長・復元・合体」などの「重層型」補完では、「欠片と『かた』をめぐって生成してくる『かたち―もの』」ということになるであろう。
 
 
 これまでの彫刻・立体的造形の歴史では、地面と重力をめぐって様々な造形が生み出されてきた。
 その地面と重力を意識し踏まえようと、あるいは逆に、なるべくそこから自由に浮遊しようと、その起点はつねに地面であり重力であることにはかわりがなかった。

 偶然の「欠片」と「着地面」をめぐって析出されてくる空間も、やはりその点ではかわりは無いのだけれども、おそらく結果的に、そのどれとも違ってくることだろう。
 
 立たない―ころがって漂流する、、、存在しない―この世から放逐された、、、無縁な広大な「外部」領域を背景とした、「無縁なもの」としての拾われた欠片に導かれた「かたちー空間」であること。
 立つこと、在ることを前提としない。立ってあるのではなく。今、ここで、立ちあがろうとすること。
 生成してくる「かたち―空間」。
 「無縁なるもの」としての欠片が、一定の着地面を形成しつつ、連結・連携して、「立ち・現れる」刹那生じる造形空間とはいかなるものだろうか?
 おそらくそれは、無縁な欠片の在り様に孕まれた「外部」性を、彫刻の伝統に接続するところのものでもある。


 2012、2