代用について

 

 「修復・復元」物は、かならず全て、「もと」の部分と「後付け」の部分で構成されてる。

 通常の「創作・創造」と「修復・復元」の最大の違いはまさにこの点にあると自分は認識している。
 「創作・創造」では、ある作家的主体が何らかのコンセプトを持ちながら一から完成まで構築していくので、そこに「もと」と「後付け」等ということにともなう「亀裂」は生まれない。「創作・創造」では全ての部材が「同質な」(*)部材として―ひとつのピースとして積み上げられるはずである。一方「修復・復元」では、宿命的に「もと」の部分と「後付け」の部分にわかれている。そうして別れながら一つのかたちを形成している。いわば異なるもの同士がひとつの「像」に共存しているわけである。

 *「修復・復元」が宿命的に内部に「亀裂」を内在させているのとは逆に、「創作・創造」では宿命的に内部が「同質」になっている。その「同質」さは、素材や技法やスタイルの差異とは別の次元―もっと本質的な「同質」さである。それゆえそれが「創作・創造」であるかぎりにおいて、どのような斬新な素材、技法、スタイル、コンセプトが取り入れられ様が、複合的に混入されようが、本質的には「同質」的であることにはかわらないのである。

 復元する場合、一般的に言って、「もと」と完全に同じ素材、技法、手間ヒマをかけるということは稀である。
 「もと」の部分とは異なる素材、技法、状況が反映され復元されることになる。
  その違いはそのまま結果の違いにも影響を及ぼすだろう。厳密に言えばそれが生み出された最初の「もと」と、欠落し復元される「今」では、時間や担い手や文脈や諸事情が異ならざるを得ないので、その時の当事者の状況が色濃く反映されざるをえない。
 1000年以上維持されてきている法隆寺でも、時代ごとの修復跡のズレが積層されていて、創建当時とは別物になっている様だ。こうした「復元」を、極限の完全さで遂行しようとしてきているのが、例えば伊勢神宮の式年遷宮である。が、この式年遷宮でさえも時代時代の要請が色濃く反映されてきているという研究報告がある。
 この復元に不可避的に発生する「ズレ」は、「もと」よりもより「良く」なる場合、より問題が改善され「完成型」に近づけられる場合、あるいはより豪華になる場合、より簡素になる場合、より適当に有り合わせのものになる場合などさまさまな現れ方をする(伊勢の場合、より「イセらしく」より「始原的に」とたえなる志向がはたらいてきていて特殊である)。
 身近に見られる多くの修復の場合では、その場所にたずさわる当事者の身近な状況が反映され、より適当に、より簡単に、より身近な物品、技術ですまされるようだ。必要だからなおされる。必要じゃなければ放っておかれる。多くの場合、必要最低限、有り合わせの物品と手間ヒマでとりあえず応急処置されそのままになる。
 それらはある意味「代用」的なものである。「もと」とは違った代用物、代用人による代用的技術でなおされる。「もと」と「代用物」が合わせられ同居し共存しひとつの現実を形成する。

 そもそもこの世界のほとんどすべてはそのような複合的なありようでできているのではないだろうか。
 「もと」―始原―完全―理想と、「後付け」―今―不完全―現実との永遠のギャップ。そのギャップを巡って人の人生があり、世界がまわっている。人は「現実」―「代用物」を受け入れ、なんとか生き続けて行くしかない。
 代用物のおかげで何と複雑怪奇な世の中ができていることだろう。

しかし、その様な「間に合わせ」で、不純な、代用物とその共存を、嘆き否定するのではなく、それを不可避的な一種の「当事者意識」として肯定的に捉えることも可能であろう。現実的対応、複雑な雑多性の肯定、他者との共存、混合。
 ズレやギャップを内に内在させながら現在進行的に生成の真っただ中にあること。
 「もと」とその「代用物」との混合・共存。それはまさに「現実世界」そのものでさえある。
 それに比べ、「創作・創造」による「作品」は、本来的に「同質」なので、「もと」だけか(独善的ともいえる「本物」)、「代用物」そのもの(つまり偽物、模倣物・イミテーション)になるだろう。そこでは、現実世界の様な、「もと」と「代用物」による、終わることのない相互的な「葛藤」が内在していない。