・「どくろ杯」について  2012


 「どくろ杯」と言えば、倒した敵の頭蓋骨で杯をつくった織田信長の「どくろ杯」が有名ですが、古今東西様々な文脈でつくられてきています。
 いずれにせよ一種の「代用物」のひとつであるわけです。同時に様々な意味合いが付着させられているわけです。勝利のシンボル。支配のシンボルetc。

 自分はこれを、人間文化―ものづくりのひとつの究極的な姿であると同時に、根源的な姿であると考えています。あらかじめ加工された「材料」を用いることに慣れてしまった現代社会では、忘れ去られた視点です。
 かつてはすべて自然物、森の木や土地を切り開き、他生物の骨や皮を流用して生活必需品をつくりだしてきました。
 何かを殺し、何かを壊して、何かをつくる。生きるしかない人間存在。
 黒歴史を隠蔽する文化創造。しかしあえてその残酷な来歴を保持する戦利品としてのどくろ杯。ある意味それは人間文化のメルクマールだと思います。
 そういうわけで、原始的な物品の多くには、このような「野蛮性」が温存されています。例えば動物の毛皮で防寒具をつくったり、骨の形状を利用して道具をつくったりするのがよい例です。
 こういった素朴な造形、素朴な野蛮性は、とても重要であるように思われます。なんといっても「ものづくり」という「マジック」である人間文化の真相を垣間見せてくれるように思えるからです。
 このような身近なものでの「代用」は、今日では「素人」のとるにたりない手作り品や、日常そこかしこに見ることができるメンテナンス作業の形跡―ある種「ブリコラージュ」的な―にも見ることができるように思います。ありあわせの既製品、流用物をつないで、柵が補修されていたりすると、一見、てきとうでいいかげんな、貧困さや稚拙さを感じ見苦しいのですが、当事者の息遣いを感じさせるまぎれもない唯一無二の状況が生まれているとも言えます。

今回は破損した船を、日常家具を代用素材にして復元していこうとするもので、もともとの家具の形状を反映しつつ、その形跡を残し続けていき、結果的には船でもなく机でもない融合体が形成されています。それは「どくろ」でもあり「杯」でもあるという両義的な「どくろ杯」の在り様とつなげられており、頭部に穴を開け内部を掻き出し「器」状にするのと同様、家具に穴を開け「器」状の空洞をつくりだそうとしております。

復元されるのは震災で被災した地域の瓦礫です。復元のために代用されるのは、被害から免れた同等程度の生活物品が用いられています。欠落したものを同程度の物品で補完しようとすること。別な視点で言えば欠落した自身の片割れを、無事だった自身の片割れで補おうとするもの。血税を復興支援にあてる、、。自身の世界を構成する物品―血肉によって修復させる。自身の持ち物を生贄に供出する。自分自身が材料となる。
 自分自身の物品―どくろ(人間身体)を材料にすることによって、船をつくる―器をつくる。
 だから、それは、宿敵を倒した勝利の象徴である「どくろ杯」とは異なっています。
 逆にある意味での人間の敗北を、、というよりも、、人間の「業」というか、、、、絶えず自らの一部を「素材」にして―「犠牲」にして生きて行くほかない人間という存在、、絶対的な他者性と絶対的な不可避性に取り囲まれ、共存していくほかない我々人間存在の宿命的な立場が暗示されている様に思います。つまり、破壊や死や無や否定とつねに同居していなければならない生き方でしょうか。
 本来、ものづくり―造形もそのような観点を踏まえて試行されなければならない様に思います。
 実用品で瓦礫を復元する。実用品も瓦礫も隠蔽しない。
 「どくろ杯」の様に、その仕組み、成り立ちそのものを示しながら、有用なものを犠牲にし、ほんとど無用なもの―ひとつの象徴をつくる(なおす)。