続「水源をめぐるある集落の物語:東京−吉祥寺・井の頭AD2017~BC15000」−資料編−について
はじめに
吉祥寺での展覧会の後、地元仙台で、あらためて、このフィールドワークと作品を振り返る展覧会を行なった。単なる資料展ではなく、フィールドワークを行なった武蔵野市と、開催地の仙台を重ね合わせながら、より一層掘り下げていく機会とすべく、新しく総合的なインスタレーションを組織することになった。
この二つの場所をつなぐのは、自分の母親の人生と戦争・空襲なのであり、吉祥寺の展示以上に、戦争へ焦点が当てられて行くことになった。
スペースの中央には、既に吉祥寺展の制作時に必要に迫られて作成した出品作―メイン部分の「5分の1・模型」を配置した。
東京吉祥寺での展示(模型)―内側。 東京−仙台の歴史と今―母、父、祖父、自分、自分の子供、、、、の記録(写真、オブジェ、実物など)―外側。という二重ドーナッツ構造。
この二重のドーナッツ状の構造において、内と外の二つの「地層」におけるそれぞれのポイントが、お互いに対置させられ、比較、対比、融合、連鎖できうる様になっている(それはつまるところ、この二重ドーナッツ空間そのものが、この1年間のフィールドワーク、そして自作を振り返りつつ、東京圏/宮城―日本/自分の関係性を考察するための一つの装置となっているわけである)。そうして全体として循環し混ざりながら(実際にそれらは繋がり混ざり影響し合って人の生を形作っている)一つの空間を形成していくというもの(参照)。
以下、それぞれのポイントに関して簡単に記述していくこととする。
とはいえ、この作者における「解説」は、あくまでも制作時の記録を兼ね、目安にすぎないものであることをお断りしておきたいと思う。
精細コメント
武蔵野市と仙台市は戦中、戦後、現在、似たような部分があり、後述するように、それがまさに、日本的な戦後民主主義的市民空間を形成してきたのが見てとれる。
武蔵野市の地図―縁の重層(参照)
現在の武蔵野市の地図の上で、水源の井の頭の池の周りをぐるぐると何重にもペンを走らせる。
これをずうと繰り返すことにより、井の頭の池を中心とした様々な色、線による円が生まれてくる。同時に、井の頭の池の形が浮き上がって行く。
歴史的に蓄積されつくられていった周囲の街や道。それぞれの名前や役割。すべてをペンの軌跡は塗りつぶしていく。
人間世界―情報網を突き破る自然―水源。
原始から現在まで変わることなくつながるかけがえの無い水源―池の形―根源の形。
井の頭の池(不法投棄)/太平洋(東日本大震災)(参照)
ワニガメ/ウミガメの死体(参照)
2重ドーナツ構造では、想定として、中央展示台+吉祥寺作品模型が吉祥寺の街であることと、日本列島であることが重ねられる。
中央内部―井の頭の池と、模型が配された展示台の周囲の大海・外海―太平洋や日本海が対置される。
ギャラリースペースの4つ壁―壁面にとっては、この大海・外海が内部の池ともなり反転して重ねられる。いわばねじれた2重ドーナッツ構造になっている。
井の頭の池(水源)の不法投棄の廃棄物は、外海(母なる海)の漂流物のイメージと重ねられる。
災害移民の歴史である井の頭エリアの歴史は、特に東日本大震災の津波のイメージに繋がっても行く。
井の頭の池で巨大化した外来生物―ワニガメと、震災前から目立っていた宮城県浜辺のウミガメの死骸の記憶が繋がる。
「日常」をゆるがす外部としての「水、生物たち」
みどり
武蔵野市と仙台市は、日本の多くの都市がそうであったように、第二次大戦中爆撃をうけて甚大な被害を被った。
爆撃された武蔵野市のゼロ戦工場跡は、アメリカ軍に接収され、一時野球場などがつくられ、さらには、「グリンパーク」という公園となり、「緑町」となった。
まる焼けになった戦後の仙台でも、組織的に植林され、杜の都のシンボルとなる「青葉通り」がつくられた。この中心エリアは現在「青葉区」と名付けられている。
どちらも戦後の記憶を、自然・緑・公園・クリーン化という方向で一新しようとしてきた。この方向性は市民意識にも大きく影響し今日に至る。
どちらも中心部に、その街の「起源」となる源―井の頭公園/仙台城址・八木山があり、井の頭の池/青葉城(御濠の池)という源の「水」を有している。それぞれが街の中心でもあり外部への入口でもある両義的なエリアとなっている。そうして、そこには、どちらも、井の頭動物園/八木山動物園がある。
空襲・不発弾と卵(縄文土器)(参照)
東京大空襲では目黒にあった母の家が焼かれた。仙台空襲では仙台一番町にあった父の家が焼かれた。
焼け出されて実家を失った両者は、戦後仙台で出会い結婚する。
多くの犠牲者を出し多くの人々の運命を変えた空襲は、自分の運命をも決定づけていたことになる。戦後世代から今日、未来までその影響は続き計り知れないだろう。
形状、色合いから、爆弾の様な巨大な卵の様な、あるいは発掘された土器の様な(縄文時代は大きな土器に死者を埋葬−母体再生のイメージもあったとも言われる)どれともとれる造形を心がける。
先述の様に、爆撃は今日の様々な状況を生み出した重要な原因でもあり、形状も似ていることもあるが、「卵」のイメージと結びつき、アイロニックな対置・重層が試みられている。
黒い人(参照)
吉祥寺展と同様に、展示されている模型内部の黒い人と重なり合うギャラリー壁面の位置に直接作画。仙台の海辺で拾った帽子をやはり先端部に付けており、そこから下へ伸ばして生まれているとも言える。この人物は、爆撃するB29そのものの様でもあり、爆撃の犠牲者の様でもあり、十字架の様でもあり、この展示スペース全体をシンボライズする。
吉祥寺展同様に、両手(両翼)の下方には、仙台で拾った落ち葉(爆弾のメタファー)を複数張り付ける。
この人物のベースになっている新聞には、東京大空襲や仙台空襲にちなんだ記述をそれぞれ独立させながら紛れ込ませ貼り合わせている。
武蔵野市−ゼロ戦−重慶爆撃―仙台
世界史最悪の無差別爆撃であった東京大空襲の第一の標的にされた、武蔵野市のゼロ戦工場から生まれたゼロ戦は、実は中国での無差別的爆撃と言われる「重慶爆撃」を行なっている。この作戦の指揮を執ったのが、仙台出身の日本海軍最後の大将となった井上成美であったのも妙な縁である。*現在も仙台ニ高の学校パンフレットには偉大な卒業生として紹介されている。
祖父の記録(参照)―満州事変、戦前のアルバム、アルバム表紙レリーフのフロッタ―ジュドローイング、形見の軍の双眼鏡
母の父−祖父は、満州事変後徴兵され満州へ行った。救急兵として勤務。天然痘にかかり帰国。晩年になると「また満洲へ行きたい」と懐かしんでいた。
従軍中趣味の写真をたくさん撮り、軍から「北満派遣記念」としてもらったアルバムが残されておりそのまま展示する。沢山の当時の写真−祖父自ら撮影したもの、何らかの購入した?写真等いろいろ混ざっている。印象深いいくつかの写真(穴のあいた戦友の鉄兜など)をコピーして、壁面新聞紙上にその時空間を無視するようにして、紛れ込ませながら複数張り付ける。 表紙がゲートル・銃剣姿の日本兵のレリーフになっており、フロッタ―ジュして壁面に張る。旧日本兵が今・ここに蘇る(参照)。
*祖父は晩年は糖尿病で失明してしまったが、手を引っ張って八木山動物園に連れていき味噌おでんを美味しそうに食べていたのが最後の良い思い出。死後夢枕で見えない目を剥きだしながら大画面で迫ってくるという恐ろしい夢をみた。今回驚いた事には、上述の戦時中のアルバムの最初のページにその夢とそっくりなドアップの祖父自身(20代時)の顔写真が張ってあった。ただこの写真の祖父は、若々しくとてもうれしそうに笑っている。
銃、飛行機(参照1,2)
戦時中練習用?の木製のライフル(いわゆる「銃剣道」の用具でもある)と、自分の子供が作成した新聞紙や紙の様々なピストルを対置させながら配置する。祖父(息子からみると曾祖父にあたる)とひ孫の時空を超えた血縁コラボレーション。実物・代用物と玩具。
同様に、プラモデルのゼロ戦と、自分の子供が厚紙で作成した戦闘機を対置させながら天井からつりさげる。さながら空襲の様。
日清戦争土人形(参照)
日清戦争時の花巻人形ものと思われる。辮髪姿のシナ人に馬乗りになって虐待する日本軍人。マジックで塗った安っぽい日の丸と組み合わせて展示する。
祭壇(参照)
会場壁面に台をつくり祭壇とする(吉祥寺展では内側の箪笥をくり抜いて祠を作成)。曾祖母、祖母、母の女系3代が一緒に撮影された写真立てなどを中心に、縁のある様々な写真、自分の娘の絵などを其々額に入れて提示。血縁5代にまたがるコラボレーション。
家系図・地図など、疎開の道程(参照)
既に故人になったおばさんから昔聞いて作成した青野家の系図(とは言え曾祖父ぐらいまでしかさかのぼれないのだが)、戦前の仙台柳町地図。河北新報消防隊記念写真(青野家祖父、伯父等が消防団の一員として写っている)、宮城県地図、東京都目黒区地図、武蔵野市地図、戦前の満州関連地図、等を関連ずけながら配置。
二つの街・二つの歴史をつなぐのは、母の人生であり、東北本線であり、その結束点には戦争があった。
宮城に疎開する時、何度も空襲警報が鳴り、東北本線の汽車は止まり、そのつど汽車の下に避難させられたという。
二つの街をつなぐラインは、その前後、さらに外へ向かって伸び、様々な時空と繋げられていた。母の東京。祖父の満州。父の仙台。
アメリカセンターと抽象表現主義、そして現代美術
戦後仙台にはアメリカ進駐軍が入った。後に「アメリカセンター」をつくってアメリカ文化啓蒙の拠点となった。この施設で働き、戦後アメリカ美術―抽象表現主義研究をスタートさせた人物(三井洸)が、宮城教育大学の教授となり、日本最初期に「ポロック」の論文を書いた(と自分は教えられている)。その後、彼が東京方面にいた現代美術作家・高山登を宮城教育大学に召喚した。学生時、両名とも自分の担当教官となる。そして現在自分はここでこうしている。
井の頭から生まれた長崎の奇妙な銅像。奇妙な表情。戦後日本のひとつの顔。
戦前の仙台で訪れた店を繁盛させたという仙台名物−仙台四朗(参照)。戦後再び人気者になった仙台四朗の奇妙な笑顔。
二つの街の奇妙な表情。
五月人形/新聞兜/自分の子供時代写真
先述(参照)の吉祥寺展での武蔵野市民から譲られた五月人形の武者兜に対し、新聞紙でつくった兜をかぶる幼少期の自分の写真。新聞紙兜の現物。新聞を塗りつぶして描かれた赤富士。「武士」の伝統が、兜の置物―新聞紙の工作―自分の思い出として、辛うじてここに伝えられているかのように。
バラバラ殺人事件、麻丘めぐみその他
オウム真理教の地下鉄サリン事件に先立つこと1年前、1994年バラバラに切断された死体が井の頭の池にあるゴミ入れから発見される。いわゆる「井の頭公園バラバラ殺人事件」である(迷宮入り)。過剰化する街のクリーン運動におけるゴミ収集システム。この管理化された市街の中央部にのこされた井の頭の自然の対比が、この事件の特殊性をより際立たせていると言えるかもしれない。内部が見えない井の頭公園の特殊な郵便ポスト型のゴミ箱ボックスと、都市・市民生活空間の真っただ中にぽっかりと空いた自然空間としての井の頭。超管理空間と無縁空間のせめぎ合いの中にあの井の頭公園の奇妙なポスト型ゴミ箱が生まれ、20p単位での人体切断が生まれたとも言える(ゴミ箱の入口20p×30pに対応していたと考えられている)。
同時に1972年「芽生え」でデビューする麻丘めぐみは、レコードジャケット写真を井の頭公園で撮影している。井の頭公園のイメージとこの初々しく牧歌的な曲、このアイドルイメージが結びつき一つの時代を築いていくとも言える。この20年の時間を挟み、この池を舞台として浮き上がる層反する出来事は、井の頭の池の本質に深く繋がっていると考えられる。その他様々な事象を、壁面紙面上に混ぜ合わせて提示。