産婆術


 あらゆるものは、つねに不完全な断片にすぎず、それはいずこヘか向かう途中にある。私のやることは、そのみちすじをよく理解し、ひとつの結論をつける行いといえる。

 各々の存在に、自らに固有な性質を自ら自身に実現させることを手助けする。あらゆるものは、よりそれらしく光り出す。その光は、学ばれるものでもなければ、何ものか(神や作者)によって付与されるものでもない。各々の内には、各々固有な光り方をする光源がある。私がやることは、各々の光源から発する道筋をすっきりとさせて、光が外に出られるように手助けするようなものなのだ。
                        2002、2、17、青野文昭


 作品というものは、それがどういう作品であるかという前に、まず、いきいきとしていてほしいというのが、いつもの私の願いです。その意味で作品は、たとえ作品であっても作者の思惑をどこかで凌駕していくものだと思います。
 それは作者や当事者にとっての「他者」(時間的、空間的、意味的)を宿しながら、相互に起立し合って現れでてくるものであるという、自分が今まで生きてきた上での、確信めいた現実感でもあるわけです。
 そのような現実感が、ものづくりの本性と、つねに相反してしまうということが、自分の問題として横たわっています(「つくる」といういとなみの醍醐味は、「他者」を一元的に圧殺する時のパワーのようなところがあるからです)。
 そういうことで、ものづくりとは異なる現在のような作業(様々なレベルで、作者にとって「他者」であるところの落ちてるものを拾い上げ、「復元」する)に到っているわけです。

 その「復元」ですが、今までいろいろと誤解を受けてきました。「ちゃんとした復元でではないではないか」、「復元、変型のしかたが、好き勝手に恣意的に行われているのではないか」といったあたりのものが多かったと記憶しています。ことばの呪縛はとても強くて、作品体験を蝕んでしまいます。いままで、「無縁/有縁」とか「後天的に」とか、少々含みを持った言葉を使ってきたのも、「復元」の意味をもっと深く考えてもらい、それがけっして奇をてらった行いではなく、ものづくりのエッセンスをその根底で、もう一度人間の手に取り戻そうとする、ひとつの方便として理解してもらうためでした。今回「産婆術」ということばをソクラテスからもってきたのも、あらためて自分のやっていることをより深く理解してもらうためです。





 私は哲学の門外漢なのでもとより語る資格が無いわけですが、ソクラテスの面白いところは、自らは何も主張せず、教えず、「空とぼけ」しながらただねちねちと質問をくり返していくことで、相手をしだいに追い詰めていく、そのソクラテスの姿勢そのものです。

 人間にとっての真理は、知識、能力、経験に関係なく、正しいプロセスを踏めば誰でも正しい答えにたどりつくはずであり、なぜならば、真理は後天的に知識として学ばれたり、経験で獲得されるものではなく、能力のある一部の者だけが先天的に持っているものでもない。先天的に誰でもその本人自身の内にあるとされ、それを導き出すプロセスは、産婆がお産を助けるごとく、道理ーロゴスにただ従うことで全うされる。

 ソクラテスの質問は、単に道理の筋道をつけていくことにほかならず、自分の意見を主張することとは全く異なる次元のものです(実際はかなり無理があるようにも思いますが)。
 このような態度は、「ものづくり」を回避して、ただたんに各々のいきいきした存在を導き出そうとする私の態度と、なにか接点があるのではと思うようになりました。
 私の作業では、作者である私の意志とかイメージとか願望を目的とする「ものづくり」ではなく、あくまで偶然拾った断片を最初の起点とします。そして作業の最終目標もその断片の内からえられることになります。答えは作者や他のどこかにあるのではなくひとつひとつの断片自身の内にあるといえます。
 そこで私のやることと言えば、なるべく「邪念」を捨て筋道、道理に、各々の断片をある種「まとまった」、「完結」したものへ結論付けることにすぎません。このプロセスさえ間違わなければ、たいがいのものはなんでも「ものになる」のです。
 ソクラテスは、「それではやってみようではないか」といったかんじで、重要な議題を討論にのせるわけですが、それがさながら当時では、鬼神にお伺いをたてることや、いまで言えばコンピューターにかけることに似ていて面白く思います。問答式の対話そのものが小さな個我や経験を超えた、精巧で神聖な装置のようなニュアンスがあり、まさにロゴスの船にのせられ、それに身をまかしていくようなものに思います。
 私が拾った断片をあるまとまりに結論付ける場合、それはどのような道理に支えられていると言えるのでしょうか。それをあえて言うなら「先天的な認識の構造」にのっとってとしかいいようがありません。
 おおまかにいって認識には、二通りの相があるように思います。それは、後天的に経験や知識でえたものと、先天的にもっているものです。例えば車というものを考えてみれば
、人間社会の「車」という観念、個人が各々持っている経験、知識などでかたちずくられていくものが後天的な像であって、先天的なものは、「車」という言葉、概念、はたらき以前のそうしたそのもの自体の形態、大きさ、広がりをさします。
 私が「復元」する場合、基本的には後天的な像によらず、先天的なもの自体の像を完結させようとします。ゆえにホンダの車種がホンダのその車種そのものではなく、車でさえなく、「車」という概念を逸脱する違ったものになることもあるわけです。経験的には、サニーの断片であるが、断片各々それ自体は、サニーや車という人間界の名前や意味合いとは無関係に、それ自体の固有性を各々が持っているわけです。それは未だ(もはや)人間界に捕らえられていない何かなのです。