転生・連鎖する物語          ~はじまりの欠落と転じ続ける生~   


   我々は常になんらかの意味で欠落している。  
そうして常にその欠落を埋めようと欲し、「完全」な状態を希求し続けてもいる。  
そういった「完全」なる状態に逆照射されることによって、欠落感(つまりは「現実」というもの)が培われていくのだが、そうした「完全」は、常に不鮮明であいまいなものでしかない。人の「生」とは言ってみれば欠落を補完しようとする一遍の物語のようなものであり、あるいはそういった物語が無数に折り込まれた集積体のようでもある。自分が10年以上前から試行してきている「なおす」と称する一連のこころみも、ひとつにはそういった背景と繋がっている。  ところで「なおす」仕方には様々なタイプがある。近年自分が興味を持っているのは、「完全なる」補完というよりは、身近に手に入りうる「代用」品による「とりあえず」の補完である。こういった「あり合わせ」的補完は、様々な次元で頻繁に観られるものであり、より実際的日常的な補完でもある。多くの場合我々は「完全」なるもののかわりに完全「らしい」もの、完全に「近い」もの、手っ取り早く手に入れることができる「代用品」で、とりあえず満足していかなければならない。近作の『なおす・代用・合体、、、』とタイトルの付される作品は、そういった「代用的補完」を核としている。  ところで、このような「代用的補完」は、別種の問題を浮上させていくことになる。タイトルで「合体」と続けられるように、異質なもの同士のドッキング、融合関係としての側面が新たにクローズアップされはじめる。欠落した断片は、補完のために「代用」されるもう一つの「別物」との間で、新しい多層的関係を生み出し、「もと」の状態にただ復帰する以上の複雑な様相を示していくことになる。結果として他者同士のかかわり、せめぎ合い相殺し合う原初的な組成、多層的な共存関係等々、本来ものごとの生成に内在しているはずの、あるいはこの世界や人生というものをより複雑なものにしてしまう、根源的な問題を露出させていくのである。  そもそも人の生は、「代用品」など用いる必要がないならば、どれほどシンプルなものですむだろう?しかし実際には、与えられた所与の条件が限られており、生き続けるためのまったなしの選択に常に迫られ続けている。選り好みをしていては生き残れない。使えるものを使い、食べれるものを食べるしかないのであり、不満が残ったり、当てが外れたり、余計なことをしたりするのは常のことなのだ。空想世界や修道院に住んでいるのではない限りにおいて、つねに身近でナマの現実に対峙するほかなく、それは常にあらゆるレベルで想定外をふくむという意味での雑多性に全身を浸していなくてはすまない。それゆえに本来「補完」は容易に成し遂げられ完成するものではあり得ない。欠落は常に別な欠落、複数の新しい欠落を生み続けるしかなく、「補完」への道筋は限り無く分岐していくのである。    そのようなわけで「代用的補完」という復元から連想されるのは、例えば「転生」というものが一番しっくりとくる様に思える。それは単なる「よみがえり」とも少し違う。あるものが別なものへ生まれ変わってくる「生まれ変わり」の様なニュアンス、、、。一度死んだ命が、ただたんに以前と同じ姿に再生され生き返るのではなくて、別な肉体を借りて、別な環境、別な時間という新たな時空へ、過去(前世)を引きづりつつ、多層構造を形成しながら「転生」してくる様子にとてもよく似ている。    現在(「転生/連鎖する物語」)の試は、このような「代用的補完」で鮮明になってくる「異質なもの同士の多層的な共存関係」といったものに焦点を当て、それをよりひらたく展開してみようするものである。  それは一点の作品で完結させるのではなくて、複数作品の連続、併置によって試行される。ひとつの単体作品内で縦軸状に織り込められている因果関係の連鎖を、あえて横軸におきなおし広げてみようとしている。各々の段階(補完-合体)が最新最終の「今」の立場から逆算的に類推されるのにとどまるものではなく、各々横軸上にも広げられながら、同時に各々を比べることができるように意図されている。  そこでは「異質なもの同士の多層的な共存関係」が縦軸はもとより横軸上にも展開され、より具体的に視覚化されようとしている。

「作品解説」・2009
 以下具体的に作品の成り立ちに関して述べておきたい。    「代用的補完」では、多くの場合、はじめの「欠落」が新しい別の「欠落」を産み落としていく。  そのつど産み落される「欠落」がそのつどの「物語」を決定していく。 1、  はじめの欠落-「6つの発泡ケース断片」を集積し「補完」-箱状のまとまりを再生させようとする。  その時「クリーム色の棚」が代用品に用いられる。理由は同じ様な「箱型」であるということ意外ほとんど偶然に選択される。  「6つの発泡ケース断片」は、代用されたクリーム色棚をある種の媒体としながら、あるまとまり(箱型)を回復していく。発泡ケースとクリーム色棚の混合体としての「箱」が生まれれくる。  補完作業で、「6つの発泡ケース断片」と同じ数、同じ形、同じ大きさの「6つのクリーム色棚断片」が切り捨てられる。 2、  切り捨てられた「6つのクリーム色棚断片」は新たに「補完」を求める。  「6つのクリーム色棚断片」は新たに「こげ茶クローゼット」を代用として「補完」をはたそうとする。  「こげ茶クローゼット」を代用品に選択した理由は、同じ箱型だったこと以外ほとんど偶然である。  「6つのクリーム色棚断片」は「こげ茶クローゼット」を媒体として代用し、箱型のまとまりを回復する。  その場合「こげ茶クローゼット」に応じてもともとのスケールが「拡張」される。  結果的にクリーム色棚とこげ茶クローゼットの混合体ができあがる。  補完作業で、「6つのクリーム棚断片」と同じ数、同じ形、同じ大きさの「6つのこげ茶クローゼット断片」が切り捨てられる。さらに無数の「こげ茶クローゼット」の表面が削り捨てられる。 3、  「6つのこげ茶クローゼット断片」および「削り落とされた表面」は新たに「補完」を求める。  補完作業では三たび別な箱状の代用品を用いることも可能ではあるが、新規のベニヤ板で補完される。  ほぼ同型同スケールのこげ茶クローゼットが復元される。    最初の6つの欠落-断片は、どこまでもなくならない。各々の各段階(補完のつど)新しい同数、同型の断片を自身の分身のように産み落としていく。同質の断片は同質の補完、同質な「ものがたり」を連鎖させながら、同時に、そのつどの別な環境(現実、身体、時間、代用品)を媒体する、各々一回限りの固有な物語を発生させていく。
                                 2009、秋、青野文昭


「作品解説」・2008
 今回出品される5点の作品は、形態や大きさ等様々ではあるが、一つ一つ順を追って組織され、各々一筋の因果関係で繋がっている。 1、  発端としての「欠落-断片」は、昨年宮城県の浜辺で拾ってきたサッポロビール・ケースの断片である。この断片の補完に中古の箪笥が「代用」された(1・「なおす・代用・合体・侵入2008-シャクシャインの戦い」)。この最初の代用補完の結合時に発生してきた二つ目の断片が次のステージをつくりだす。最初のビールケースの断片をはめ込む余地をつくるために、それに応ずる形状で箪笥が切り取られ摘出されている。摘出された新たな断片は、発端となったビールケースの身替わりとしてこの世に産み落とされたわけである。それは最初のビールケースと異なる材質と文脈でありながらほぼ同型の断片になっている。 2、  この新たに生まれた箪笥・断片の代用的補完では、身近にあった中古テーブルが「代用」される(2・「なおす・代用・合体・侵入2008-四つ足の森」)。そこでもまったく同じように別な三つ目の新しい断片(テーブルの断片)が発生する。 3、  今度はプラスティック容器の「ふた」が補完に代用される(3・「なおす・代用・合体・融合2008-食卓のユニオンジャック」)。 4、  「ふた」の断片は次に古い木製の茶箱によって代用補完される(4・「なおす・代用・合体・侵入2008-森の塊」)。 5、  茶箱の断片は次に浴室マットによって補完代用される(5・「なおす・代用・合体・融合2008-水まき」)。 6、  このようにして5度ステージを代え「転生」を繰り返した後、摘出された一片の浴室マット・断片が残される(もちろんここからさらに続けることもでき、理屈上ほぼ無限に「転生」しうることが示唆される)。  発端になった「欠落-断片」の存在とその特質は、形を代えていつまでも受け継がれ、そうした欠落を補完しようとする物語そのものを果てしなく稼動させていく。  補完(特に代用的補完)には「完全」がありえないように終わりもない。欠落(断片)は新たな補完関係を求めて「転生」を続け、新たな物語と同時に新たな欠落をも産み落とし続ける。どこにでもどこまでも転じ続け、身体を代えながら、物質を越えた何ものかを浮上させて、時空や文脈や種を越えた広がりとつながりを獲得していくと考えられる。
                                 2008、秋、青野文昭