<「なおす」についての分類および考察> 青野文昭
~作品の体系化とその展開~
美術作品と日常世界の構成物はその存在の仕方がまったく異っている。
現実世界のあらゆるものは常に「外部」の力の影響下に置かれている。
止まることのない時間の流れ、自然の力、様々なアクシデント、風化、磨耗、破損、消滅。
さらにそれを食い止めるための修復、修正、際限のない後付け。
それは複雑に入り組みながら当初の思惑、計算、意味を越え、変容をくり返す。
そのような現実世界の在り方は「外部」が幾重にも折り込まれていることで、
「異界結合」の広大な海と呼ぶことができるだろう。
美術は長い間、この様な「外部」を拒絶し、猥雑な「異界結合」の現実から遠ざかろうとして来た。
一方で人類の始源的創造力は常にこの「外部」との交流を源としてきた。
「創造」は「異種」である「外部」を一元的に内に取り込み、同時に排除し、
生臭い「異界結合」の現場から離脱することで「美術」を形成、保持してきた。
そこで失われたものは「外部」の広がり、「交わり」のダイナミズムである。
「外部」と「交わり」続ける現実世界を、新たな目で眺めるならば、
一元的に囲い込まれた美術的創造とは異なる、あらたな創造の可能性を指し示してくれる。
とりわけ、私はこれまで「なおす」といういとなみに注目して来た。
それは「異界結合の海」として生き続けるしかない現実世界の根幹を担う重要ないとなみである。
「なおす・再生」は究極的な異界間の対比である、構築と破壊、コスモスとカオス、
つまり「内部」と「外部」を仲立ちし循環的にそれらを結び付けていく。
その亀裂から絶えず始源的記憶を生起させ、「今」を根拠付ける。
さらに別種の「外部」(各々異なる文脈、主体、趣向、素材、、)が後天的に入り込んで、
切れながらつながり、過去であり現在、他者であり自己でもあるものへと変わって行く。
現実世界とは裏腹に美術作品では無視される「なおす」いとなみを、
いったいどの様に分類し意義付けていくべきなのか?
それはそこに立脚する自分の仕事への問いでもあり、
現実世界に孕むナマな生命力を、新たな創造性として抽出する実践でもある。