<露出>  

「ミメ-シス」、「創造」、「知覚」などを支配する「図式」-「修正」の構造が、「なおす」いとなみへはっきりと露出してくる理由について記しておく。
 そもそも「図式-修正のリズム」とは、はじめに「モデルになるイメージ」が設定されていることから、文字どおり「なおす」いとなみそれ自体として見れる点がまず大きい。
 その上「なおす」いとなみでは具体的な物質としての断片が導入されるので、「図式」、あるいは「補完された状態」との具体的な擦り合わせが行われ、しかもそれが「ズレ」として後付けられる点も重要である。そして、なおされた「もの」よりも、なおす「こと」へ焦点が集まる時、その露出はより顕著になるだろう。それは「なおされたもの」がとるに足りないもの、くり返された見慣れたもの、なおすに価しないもの、「用」のないもの、等の場合で、そこでは「修正」過程を物語る「ズレ」へ焦点が集中して行く。  「つくられたもの」、「知覚されたもの」はその点逆で、当初からの目的でもある「新たな創造物」、「新たな情報」という「価値」の側へ焦点が引き寄せられ、内部構造は隠れて行ってしまう。
 それゆえもっとも価値の少ない「なおす」いとなみこそが、その行為自体の目的を無目的化し、宙づりにすることができる。したがってよりクリアーにその内部構造が露出しそこへ焦点が集められて行く。


 <実と虚>  

よく知られるようにプラトンは現象世界をイデアの模造として一段低く見た。さらに現象世界のミメ-シスである美術を模造の模造として貶めた。実と虚が厳正に別けられ、美術は二重に虚として否定される。
 アリストテレスはそれを踏まえつつも、模倣は学習効果があり、模倣芸術は魂の向上につながるとした。虚は実のための手段として価値付けられる。しかしあいかわらずそれが虚であることには変わりがない。
 一方先に参照したゴンブリッチは以下のように述べる。 「形、線、影、色などを駆使して、いわゆる「絵画」という視覚的現実の不思議なまぼろしをつくり出してしまう人間の能力に対して、もう一度驚異の眼を向けさせる」。
 古代の哲人や近代芸術において否定される再現芸術、イリュージョニズムの芸術-再現行為それ自体の中に、人類の尊い創造力を見い出そうとする。  そしてこの不思議な力の源泉にはかならず「図式」-「修正」の構造があった。イリュージョンの「虚像」性から、重要な力を救出すること。のみならずこの構造は先に触れたように「知覚」をも支配するものだった。つまり「知覚」そのもの、知覚された「現実」そのものが「図式」-「修正」の運動によって「つくられた」ものであるという認識に到る。この時「知覚とイリュージョンとの間には厳正な区別は存在しない」ことになる。「図式」-「修正」の構造に立脚する時、「現実」(実)と再現(虚)の区分けはあいまいになるのである。
 さらに「なおす」いとなみをつぶさに考察するならさらにその認識はより複雑なものになる。上述したとおり通常修復は具体的な現物であるところの「断片」(ミメーシスの「対象」となる一部分)を内部に具体的に抱え込むいとなみである。この点だけ顧慮しても「なおされたもの」が単なるミメ-シス-模造品-「虚」ではありえないのが解る。それでは「実」かと言えばそういうわけでもない。「実」/「虚」の対比自体を超越しているのである。
 そもそも世界(現実)の構成物には完結というものがない。つねに何かが欠落しながら修正が積み重ねられて行く。
 その過程で「なおす」担い手(主体)、技術、材料、文脈が変わっていくことも多い。当初の完全像も少しづつ変質して行かざるをえない。
 そこでは「完全像」と「断片」と「補完されたもの」が相互に関係し影響しあっていく。各々が各々に対して「実」にも「虚」にもなりかわる。
 プラトン的な意味でのイデア-世界の構成物-再現芸術という(模倣の)一方向の流れではすみそうにない。それは欠落した断片から完全像へ逆流し、さらに新しく補完した像へ混ぜ返され、再び断片へ、あるいは完全像へ、流れが各個に渦巻き循環関係の中で相互に成長して行くと観察できる。その循環の中から「現実感」、「存在感」、「実在感」が生成して来る。「なおす」いとなみをくり返し経てきた組織は、より強靱により柔軟によりそれらしく成長して行くものである。
 「なおす」いとなみの考察はそういう認識へ我々を導く。そして私の作品はそれを実践し具現 しようとする。