<仕方>・ニュートラル/非ニュートラル、平面/レリーフ/立体/インスタレーション 、丁寧/乱雑、フラット/継ぎ剥ぎ、フラット/筆触、不透明/半透明、マット/光沢、非物質/物質感、、、、

 「ニュートラル/非ニュートラル(ノイズ)」と、「修復」の「仕方」においても、様々な違いがあり得る。
 通常では、あくまでも、もとになる断片に合わせながら、極端にズレないように、断片と新規修復部との関係が崩れないように、「仕方」を選択している。例えば新規修復部の「筆触」が極端に強かったり、艶やかだったりしてはいけない。同様に新規修復部の「物質感」が強く出過ぎたりしても関係が崩れ、断片の存在感が消える。さらにいえば、新規修復部が作為的に、創作的に表れてはいけず、逆にあまりにも「断片」に対し従属的になって、模造のための模造に落ち入るのも関係性を壊す原因になる。あくまでも断片と新規修復部は、対等で平行しながら各々自立し、しかも同時に、新/旧相互で引き立てあう、一つの緊密な関係が成立しなければならない。  そういうわけであるので、「修復」は、なるべく飾らず、普段通りに、日常生活の延長線上の感覚で、余計なこと、無駄なことはせず、ある種の合理性と必然性を持って遂行される。身の竹にあった普段の技術、素材、手間、素材で行われる場合がほとんどである。なるべく手間のかからない、特別ではない、最短距離にある、特殊な技術、加工をつかわない「仕方」が選ばれる。そのような身近な「仕方」による「修復」が 「他者」である断片を「いま、ここ」という血の通った存在に変えて行く。
 ここで注目すべきは、例えば工業製品/普段の手作業、という対比の中で、素材、加工技術、精度、成り立ち、、等の差異が浮上し、かつそれらが複合的に融合されることなどである。
 また、「修復」が平面としての形態を取るのか、レリーフか、立体か、いわゆるインスタレーションとなるのか、「作品」形式に関わる大きな問題がある。しかし、この「修復」においては、やはり、もとになる断片の形状的特質が最優先される。断片が「平面的」ならば通常、修復も「平面」の形式において行われ、あるまとまりに帰結される。同様に断片が「立体的」ならば、修復も「立体」の形式の上で進められる。中間型として「レリーフ的」なもの、あるいは展開型として地面や壁、なにか大きな構築物、空間へ関わって行く「インスタレーション」的なものへ導かれる可能性もある。これら各々の形式は先天的に選択されるのではなく、あくまでも後天的に「断片」に即して導かれる。それゆえ形式が「仕方」の先にあるのではない。「仕方」の結果としてある。最低限の存在様式としてのある「まとまり」が、何らかの形式を、後天的に形成するのである。


<媒材>・ハイ/同等/ロウ、身近なもの/同等/距離のあるもの

 通常美術では未だ価値の定まらない、あるいは身近な対象を、より価値の高い、高貴な媒体に置き換えるという手法を常套手段としてきた。これは美術に先立つ、宗教表現の普遍的な方法に由来する。黄金、大理石、ブロンズ、良質の木材、そして高貴なスタイル(古典形式、教会の形式等)、さらには「美術」そのもの形式(タブロー、彫刻など)、制度(美術館、ギャラリー)。  昨今くだらない造形をブロンズや石で半永久化し、強制的に一種の「神話作用」をおこそうとする作品が日常化している。しかしこの「なおす」いとなみではまったく様相を異にする。最初のきっかけである「断片」の素材感を尊重しようとするので、新規修復部の素材感は常に抑制的でなければならない。例えばプラスチックの断片を大理石で修復してしまうと、関係が崩れ、断片の素材感は死ぬ。同様な理由で例えば鉄屑を同じ程度の金属で修復すると、多くの場合、もとの断片の存在感が相対的に消えて行くことになる。  多くの場合、修復の「媒体」として選択される素材は、合板、石膏、コンクリート、紙、アクリル系絵の具、色鉛筆等の極めて身近なものである。例えば着彩で油絵の具などを使用すると、絵の具自体の独特で不必要な質が生じ、「修復」よりは「創作」、「創作的再現」と言ったニュアンスに帰結する。
 そもそも実際世界での修復でも、身近な有り合わせのもの、素材で代用され、穴埋めされる場合が多い。「新規修復部」の素材が、より高価で、重厚であると言うケースは少ない。例外としては茶わんを金で修繕するという特殊なものはあるが。
 そこで注目すべきは、「拾われたもの、他者、工業製品、硬質な素材、過去、、」に対する、「自らの手作業、身近な素材、現在、、」という対比が浮上し、さらにそれが複合的に融合されるところである。自らに「遠いもの」と、自らに「近いもの」が相互に引き立てあいながら共存する。



 <対象>・社会的意味合い/もの自体、単一/複数、共生/競合、等

 価値の高い「対象」を「悲劇」・芸術にしたてるという古典的なスタイルは19世紀のロマン主義、リアリズム、近代美術の登場で一新され、反対に価値の低いもの、さらにはより身近なもの、ありふれたものが芸術の対象となる。またその後のモダニズム芸術の展開では、単に「対象」の高低ではなく、「対象」の深さ、普遍性、そして純粋性・妥当性が問われて行く。
 「なおす」でも、大きく観て、「特別で意味深いもの」の復元と、「どこにでもあるもの」の復元という二つの方向がある。
 「特別で意味深いもの」にはさらに二種類あって、はじめからそうであるものと、わざわざ「なおされる」ことによって、そのような特別なものとして認識されるものがある。前者は例えば広島の原爆ドームを復元するといったもので、社会性、政治性、その他様々な意味、アウラを放つ。後者は例えば仙台で切られた切株を復元して、昔このような大木があり、それが切断されたという、一つの事実を特殊にクローズアップし、新たに認知させ、刻印する。
 前者は言ってみれば「普通以上」のもののミメーシス、後者は「普通以下」のもののミメーシスと言えるかもしれない。つまり前者はプッサンで、後者はクールベとなる。
 一方、「どこにでもあるもの」の復元はどうなるだろうか?。そこでは、破棄されたもろもろの日常製品の断片があてはまる。この「どこにでもあるもの」を「対象化」する行為は、「普通のものをミメーシスする」ことで、悲劇でも喜劇でもなく、より近代的態度だと言えよう。それは、貧しき人々を描いたドーミエやクールベではなく、マネや印象派に例えられるかも知れない。
 そこで「対象」とされるものは、「どこにでもあるもの」でありながら同時に「どこにでもない」もの、一回性の、固有なもの、うつりゆく現象世界でもあった。年期の積んだ断片も、同様に、どこにでもあり得るようで、一つとして同じものがない、固有な存在である。
 ゆえに、冒頭の「特別で意味深いもの」も「どこにでもあるもの」も、どちらも固有な存在であることにはかわりがないのである。ただしその固有な表れ方が異なるので、前者が社会的な意味合いで、後者がもの自体のレベルでそれぞれ固有性をより強く放つのであろう。
 さらに先に述べたように、「対象」は見る角度、視点によっていくつものあらわれを示す。一つの断片のどこを、どの方角を、どのレベルを、ミメーシスの「対象」とするのかで、それぞれ違う様相を示す。その点に関しては「基底面」以下で触れて行く。