なおすこと・二次創作  



 1、二次創作と二次「的」創作  


 はじめに

 「二次創作」と呼ばれてきたいとなみは、日本のサブカルチャー・オタク系文化を特徴づける主要な特質の一つであるにちがいない。
 古くは大塚英志が「物語消費」の一環として分析し、消費の新しい形態としてとらえてきた。そこでは、視聴者自身が、作品を模倣すること、味付けすること、付け加え、補完し、ズラし、変容させ、つくることで、作品−設定−物語を消費していき(例えば同人誌やビックリマンチョコなど)、作り手と受け手の垣根をあいまいにしていく現象が指摘された。
 その後東浩紀は、それを「データベース」型消費として、今日のポストモダン社会の最も先鋭化したかたちとしてとらえ分析する。そこで前提とされ参照されるのは、もはや個々のオリジナル作品ではなく、その作品設定ですらない。細切れにされデータ化されたもろもろのデータベースそのものであると彼は分析する。オリジナルと模倣、作者と受け手といった差も、より流動的にそして複雑に循環的様相を示す。

 ところで、自分は以前から「なおす」といういとなみに興味を持ってきたのだが、「二次創作」と大変通じ合う部分があるように感じる。欠落している「断片」を継ぎ足しながらある「まとまり」に導いていく作業である「なおす」いとなみでは、「もと」の姿が類推され参照されるのだが、既に形をかえ、失われたものもあり、もとには戻れない場合が多い。あくまでも「もと」が参照されるのだが、結果的にはズレながら変容していくことになる。これは言ってみれば継続ー変容を繰り返す「現実世界」そのものの有り様でもある。「もと」はけっして定まっているものではなく、現在未来のはたらきかけによっていくらでも変わりうるものであり、ゆえにそれは完全な「模倣」ではなく(完全な模倣、完全な復元は後述するように絶対あり得ないし、それ自体そもそもナンセンスである。完全な模倣が万が一あり得たとすれば、それを模倣や復元とは認識できないからだ)、無からの「創造」でもない。むしろこの「二次創作」に近いと感じざるをえない。もちろん「二次創作」が「二次」と言っても、あくまで意識された「創作」であるのに比べ、通常の現実世界の継続−変容(そこにともなう「なおす」作業)では、やむにやまれぬ必要性から生じるいとなみであり、創作活動とは一線を画するものではある。しかし何らかの現状に不足を感じ、後天的に後付けする、せざるをえないという意識は、何か気になる特定の物語(作品)に飽き足りず、自ら身にまとうように手を加え後付けしていく「二次創作」の意識と大変近いものがあるように感じる。この文章では、今日の「二次創作」と普段の「なおす」いとなみ(およびそこに立脚する自分自身の現在の作品づくり)が、どのように共通し、どのように異なるものなのか順をおって考察していこうとするものだ。


 前近代的模倣  

 そもそも「二次創作」における「二次的」な性質自体は、ものづくりの歴史においてそれほど珍しいものではない。創造と模倣の関係はそれほど単純なものではなく、完全な創造もなければ、完全な模倣も成り立たない。そのためにも「無からのオリジナルな創造が唯一正当なものである」とする、近代的幻想からある程度距離をとらなければならない。行き過ぎた誤解は今日の「二次創作」を不当に歪め、問題の所在や本当の価値を見失わせてしまうだろう。
 前近代の長い歴史を通じて、一般的に「ものづくり」ー「創造」は膨大な「模倣」の上に成り立ってきたことは衆目の一致するところである。そこでは作品づくりの形態、造形的形式、美意識、主題、技法、動機、、、あらゆるものが、背景の「神話」につながっていた。「神話」とはキリスト教だったり、ギリシャ神話だったり、古代ローマの理想世界だったりする。神話とのつながりも非常に緊密に揺るぎない時もあれば、動揺する時もあった。いずれにせよ基本的にはそういった「神話」・「大きなものがたり」に支えられながら、それを参照し、引用し、模倣しつつ、作品はつくられてきた。揺るぎない結びつきの時代では、そもそも「原典」の「模倣」行為は、恥ずべきことであるどころか、もっとも賞揚され尊敬されるべきものであり、時には「模倣」という認識すら生じなかったと考えられる。例えば「隣人を愛す」とする行為が聖書の(そしてイエス・キリストの)「模倣」であるという意識は生まれにくく、社会一般の通念として当然の倫理になっていたのであろうことと同様である。「模倣」という認識がないのと同様に「二次的」という認識もあり得なかっただろう。それゆえに前近代的ものづくりは、近代を経た今日から見て、二次「的」創作的色合いが強いものではあるが、今日の「二次創作」と比べると、まったく文脈を異にしているのが解る。


 近代的創造概念

 近代はよく言われるように「大きな物語」が動揺する時代だ。時には揺らぐだけではなく見失われることにもなる。が、「大きな物語」が完全に消え失せ必要とされなくなるわけではない。むしろ「大きな物語」が当然のように世界を被い尽くしていた前近代と異なり、つねに「大きな物語」の内容と存在が意識される、されざるをえない時代だったということができる。恒久的で安定した「神話」がなくなり、動揺し見失われていった時、そこを源とし、そこに支えられてきた「ものづくり」も変化をよぎなくされる。
 そこでは、理想とされ、見本となってきた伝統形式をいつまでも有り難がるわけにはいかなくなる。普遍的に、不変的前提が見えにくくなった時、それはもっと別なところへ、誰も未だ知らない、生み出していない領域へ、探究、発見、発明、革新していかなければならないものへと様変わりしていかざるをえない。「原典」は最初に神から与えられたものではなく、自分達人類ひとりひとりが、異界に、原初に、未来に探し求めるもの、あるいは新しくつくりだすものへと180度変貌する。
 「一人の作者が無から有を創造する」という今日まで続く、一般的な創造概念・価値観の原形は、このときはじめて自覚的に浸透していったと想像できる。これはあくまでも長い歴史の流れの中の、ある特殊な近代という動揺期に広まったと言える。このような近代的価値観では、なんらかの見本を見本として「模倣」することは、あまり価値がないことになる。「創造」という高貴で神聖ないとなみに対する、空虚な形式主義的、権威主義的行為として貶められていくことになる。近代的「創造」概念の確立と「模倣」の凋落は表裏一体である。作者−アーチスト−才能が推賞され、職人−労働者−労働、技術が軽んじられる。新しさ、オリジナル性が「創造」性と同義になり、二次性、共通性はその反対とされる。今日の「二次創作」というある種ねじれた用語は、そのような歴史を無意識にしろ前提とした上で、成り立っている感がある。つまりそれは「二次」的だけど「創造」。「創造」だけど「二次的」だと主張している。
 そのような近代的創造も実際によく考察してみれば、様々なレベルで二次「的」要素が垣間見える。どころかそのような二次「的」レベルを巧妙に土台にすることにより、はじめて自身の新しさ、創造性を浮き上がらせることを可能にしているのがわかる。その意味でもゼロからの創造などというものは実際には有り難いのである。
 いわゆる近代をもっとも象徴している、アバンギャルド−前衛的創作は、やみくもに「自由」を謳歌していたわけではない。かならず「前提」が、、つまり乗り越えられるべき古い支配階級とも言うべきハードルが設定されてきた。それは主題であったり、形式であったり、もっと極小化して先攻するライバルの近作、あるいは自分自身の前作であったりした。「前提」はつねに乗り越えられるべきものとして設定されなおし、つねに前進とともに前方へ移動する。だから近代的探究とは言っても、前近代同様「前提」は存在し、片足はつねにその「前提」を足場にしていた。既成の「前提」を自身に取り込み踏まえようとした。例えばマネの有名な作品の多くは、既成の約束事(構図、主題など)を巧妙に作品内に取り込み、なぞったところで、逆に約束事からの逸脱、ズレを湧出させようとする構造になっていた。
 そうやってみていくとオリジナルであることと二次「的」であること、創造的であることと模倣的であることは、それほど簡単に二極分離できるものではないことがわかってくる。たえず自身が自身であるために、創造性は模倣性を必要とし、オリジナル性は二次性を必要としている。二次「的」要素は、「創造」の内側深くしっかりと組み込まれている。



  2、二次「的」創造のバリエーション

   今日の「二次創作」の特質をより鮮明に浮き上がらせるためにも、あるいは単純な創造/模倣の対立に陥らないためにも、様々なレベルに垣間見えてきた「二次的」要素、つまりもろもろの二次「的」創造全体を考察していく必要があるように思われる。以下二次「的」創造はどのようなバリエーションがありえるのか、具体的な例から書き並べてみたい。

 ア、原創造−始源回帰
 創造力の根源的動機には、なんらかの理想状態への回帰願望が秘められている場合が多い。理想状態が実際の過去にあったものであるのか、頭の中で構築されたものなのか、いろいろありうるが、すでにあった、あるうるべきものの模倣、再現、再生、完成というある種の「二次的創作」としての側面を持っているとも言えよう。孔子は周の時代を模範とし、共産主義革命は原始共同体につながる。ルネッサンスは古代ギリシャ、ローマ文明へ、、、。

 イ、自然主義芸術における模倣  
 古代ギリシャ特有の「自然主義」美術は、自然という現象世界の背後にあるはずの完全なる世界−イデアを模範としている。イデアをとおしてみられた自然はすべからく不完全なものであり、欠落している二次的うつしでしかない。そういう自然を模倣する芸術は、二重の模倣でイデアから遠ざかると、プラトン一派には否定される。「二次性」(三次性)、再現、模倣という意識は、ある種の負い目としてその後いつまでも、美術につきまとうことになった。

 ウ、前近代的模倣
 不完全な現象世界の模倣よりも、完全なイデアや神の国の直接的な反映である、比例や伝統的な型そのものを取り入れ、あるいは模倣し、あるいは立脚していくことが、長い歴史における「創作」の常態でもあった。後述する。

 エ、近代的創造
 近代では、既にある不完全な既成の伝統や型、認識などを乗り越えて、それに変わりうるものを、新しく見い出しつくり出していこうとする。そこでは二次的模倣、後付けを排除しようとするが、新しく乗り越えられるべきものとして、つねに意識され様々なレベルで踏まえられる。

 オ、ローカルな表現、民衆的表現、キッチュ
 確立された理想像、伝統的な型や比例が、各地に伝播し、あるいは長年繰り返され、あるいは異なる民族、異なるジャンル、異なる社会層の人々に伝わりながら、しだいに形を変質させていく。繰り返されながら、多くのデフォルメ、簡略化、分岐、バリエーション、発展が生み出されていく。

 カ、神話、叙事詩、説話的表現
上記の「オ」と重複する。

 キ、建築物、都市等における継続と変質
 多くの人々のかかわり、長い時間の中ではじめてつくられてくる「大建築」や「都市」そのものでは、当初のプランや造形は、後付け、改編されながら引き継がれていく。完結することがなく、メンテナンスと改編の繰り返しの中しだいに変容していく。後述する

 ク、リメイク、シリーズもの、続編について
 ゼロからの創作とは別に、前作を踏まえる形であえて別に、新しく再解釈、改編していったり、共通認識を土台に別なバリエーションをつくったり、完結後に後付けしていったりする。常に前作との比較が重要な要素になっていく。

 ケ、ゲーム的性質
 ゲーム構造そのものが二次的、多次的な繰り返しによっている。リセットするとはじめからやりなおしができ、繰り返しの中で、前回よりも「上達」し、「先へ」、「高次へ」、「別な道へ」と展開して行くことができる。

 コ、オタク的二次創作
 例えば既にある作品、設定、キャラクター等を二次的に流用、模倣しながら、別な改編を加えていく。後述する。



  3、「原典」のスケールの差

 様々な「二次的」創造・くりかえしのあり方を見渡した上で、あらためて今日的な「二次創作」を比較しているといくつかの決定的な違いが見えてくる。例えば一つに、その「模倣」され「前提」とされるもののスケール感のギャップに気付かされる。なんらかの「神話」・「大きな物語」と、サブカルチャーの例えば「ガンダム」の虚構的世界観の間には大きな開きがある。当事者の意識にも前者が普遍的真理につながるものだったのに対し、後者では数あるうちのひとつの虚構作品でしかないことが自覚されている。まずこのような大きいギャップのあるもの同士を同列に比較してしまって良いのかという問題があるかも知れない。
 なぜことさらその虚構を虚構と知りつつ模倣し、引き合いに出しながら、さらに「二次創作」とわざわざその二次性を自ら示そうとするのだろうか?
 そこではまず普遍的な大きな物語がもはや不可能になってしまったことに自覚的である。その上でそういった前提−見本を完全に放棄する道を選ばずに、あるいは近代的前衛のように、未だ見ぬ大いなる物語を新しく見い出そうとすることはせず(それ自体が近代特有の大きな物語そのものでもある)、身近な矮小化された物語(虚構と自覚しつつ)をあえて下敷きにしようとしている。矮小な物語を信奉するものは小規模でマイナーな村落共同体を形成する(『ガンダム』はけっして小さくもマイナーでもないようではあるが)。彼等の「創作」は、その前提が通じるその小さな村落共同体でのみ流通し得る。そこでしか通じないことにまた自覚的でもあり、その限定性自体がある種の転倒した自己主張ともなり、同時につかの間の共同体意識をも手にいれることができる。そうするとこの「二次創作」は、「大きな物語」が衰退した現代特有のある種のリアリティーに基づきながらも、へたをすると自虐的、自閉的な戯れに落ち込んでしまいかねないものであることがよく解る。



 4、「原典」の質

 次に「二次的」にくり返される「前提」となる「媒体」の違いに関して考えてみたい。  それは大きく以下の三種類が考えられるように思う。この三種類の質は、同時にひとつの作品に重複して(二種類、あるいは三種類同時に)現れることもある。三種類のこの媒体のあり方は、この「二次性」がいかに複雑で多層的なものであるかをよくあらわしている。


   暗喩  

 作品の中に具体的にその「前提」とするものが持ち込まれることはなく、あくまでも外側に間接的に想定される構造になっているもの。例えば「自然主義」的作品では、常に作品の外側にあるべき、あるはず、現実世界の体験が下敷きになっている。作品世界の質やリアリティーは、作品の外側に広がる現実世界に関する共通認識をベースとして判断される場合が多い。また、先述の「近代的前衛主義」では、その時々でのある種限定的とは言え、共通の前提、問題意識が暗黙の内に設定されており、その暗黙の前提を、見る側も作る側も事前にふまえることで、当の作品の質が判断される。個々の作品は常に他の作品や歴史につながっており、切り離されて単独に存在しているわけでも存在できるわけでもない。


  言語  

 作品の内側に「前提」が、ある種「作品内言語」として変換されながら、具体的に持ち込まれ、引用され、模倣される。例えばまず、その作品形式そのものや、そこから派生する諸々の約束事、主題、主題に応じた構図、ポーズ、衣装、表情、、、あるいはある種の様式、技法など。作品を構成するもろもろの事象は、無自覚であろうが意図されようが、多くの場合、無色透明ではあり得ず、何がしかの歴史や意味、記号をあらかじめ担っている。「タブロー」はただの平面支持体ではありえず、そこへいたる長い歴史と風土、世界観が色濃く反映している。「タブロー」を前提とするということは、そういったもろもろの背景としてある伝統や精神を前提とすることに他ならない。ひとつの作品内にはそういった「言語」が具体的な作品要素となって、様々なレベルで、同時多層的にちりばめられている。


 事物

 作品の内側に「前提」なるものが、結果的に具体的な「事物」として持ち込まれている。実物の断片と後付け継ぎ足し部が同時並列的に同居する。例えば未完成作品の後付け補完とか、破損品の修復改編変容などが考えられる。ここで重要なのは、一次的な原典と二次的な模倣部分が一つのものとなることだ。上記の「言語」としての「前提」の場合、ある種の「記号」としてくり返し流用され、模倣されながら、作品内へとりこまれ形作られていくのに比べ、「事物」としての「前提」は、まぎれもない唯一無二の「本物」−「原典」そのものとして内包されるという特質がある。基本的に二次的な「前提」のもとに一次的なオリジナルをつくり出そうとする前者に対し、一次的オリジナルを「前提」に二次的な模倣を付け加えていく後者は、逆転した構造を持っていると言えるだろう。ただ実際にはそのように単純なものではあり得ない(例えば一次的な物質としてのオリジナルも、既に別なレベルでは多くの二次性、模倣的要素を孕んでいるし、後付けの模倣も、けっして模倣に終わることはないし、そういう両者が結びついた全体はさらに形容のしがたい、オリジナル/コピーの対比を超えた存在と「なって」いく。後述したい)。


  5、動機の差

 様々な「二次性」のあり方を考察していく中で、「二次性」は「二次性」なりの動機というか根拠と言えるものがあるのではないかと思えてくる。それは明らかに「創造」の動機とは異なるもののようだ。まず重要なのは、創造に対して模倣を貶めることなく、等価に位置付け、各々独自な動機として解することではないだろうか?そこでとりあえず、大きく以下の三種類の「動機」を想定してみたい。「模倣」の欲望、「創造」の欲望、そうしてその両者を合わせ持つ「ズレ」の欲望といったものが、本来的に各々分かちがたくあるのではないだろうか?「二次性」や「二次創作」そのものの根拠を考えていく上で、その上でいかに創造と模倣が分かちがたく結びつき、重層的に連動し、その過程である特殊な魅力−「ズレ」の欲望を開示していくのか。以下各々に考察を進める。

 模倣  
人間はもともと模倣が大好きで、模倣本能という本能までもが備わっているともいわれ、古代の思想家も注意をはらってきた。イデアの模倣は、所詮模倣に過ぎないが模倣することで学習され、重要なこと、高尚なこと、実際の観察を学び、近づき、陶冶することへつながるとされてきた。そのようなところに派生させて考えてみると、模倣の動機とは、優れたもの、貴いもの、美しいものなどに繋がる、近づく、追体験する、注意を促す、よりよく知る、理解する、所有する、共有する、共同体を形成することへ繋がっていくものだと解することができる。

 創造
 先述してきたとおり、「創造」の基底部には「模倣」が大きく食い込んでいる。目標点の置方で、同様の行為が模倣にも創造にもなりうる。上述の「優れたもの、貴いもの、美しいものなどに繋がる、近付く、追体験する、注意を促す、よりよく知る、理解する、所有する、、」といった動機は、実はそのまま「創造」にもあてはめることができる。ようするに前提とされる目標が既知の安定したものであるのか、未知の流動的なものであるのかによって、同じ行為が模倣にも創造にもなりうる。だから動機としては大変近似していると考えることができる。ただし一点異なる部分があるようだ。それは「模倣」が「前提」をテコに共同体と繋がる欲望が強いのにくらべ、「創造」は「前提」を否定し乗り越えることで、旧来の共同体から逸脱し、時に孤立するところのものであり、いってみれば自由と独立と孤独に代弁されうる点である。それは来るべき未来の新しい共同体を希求することにもつながるが、ゴッホの例を見るまでもなく、なんら客観的な保証はなく常に不安定である。

 ズレ(二次的創造)
 同人誌的創作がつねにあるマイナーな「前提」を必要とし、また希求されることにおいて、所詮模倣行為であり、ある種の小さな村落共同体を望み自閉していくことの批判がなされてきた。ただ彼等の行いはあくまでも「二次創作」と自他共に呼ばれ、単なる「模倣」ではないところが、問題の所在でもある。それは先述のようにあくまでも「二次的」だけど「創作」、「創作」だけども「二次的」なものなのである。
 それは「前提」を踏まえるが、そのままくり返すのではなく、その「前提」から個々人の趣向、技量で変容させていくのである。自らの創意工夫、趣向は、あくまでも「前提」およびそのもろもろのヴァリエーションとの相互比較をとおしながらはじめて際立たせられる。もしも「前提」となる共通の土台がなければ、そういった創意工夫は取り留めなく計りにかけようもなく、したがって反応するすべを失う。創作ー個人の創意工夫は、「前提」を踏まえることにより、共通の基盤につなぎ止められることが保証される。
 このような性質は今日のいわゆる「二次創作」にのみ限られたものではなく、様々な創作、現象に通ずるところであり、本論では、特に二次「的」創作として、既に広範囲に考察を進めてきているところのものである。
 しかしその中にあって、いわゆる今日的「二次創作」では、その特質にとても自覚的であり、また際立って顕著であるという特徴がある。そこでは完全な模倣も、ゼロからの独自なオリジナル創作もどちらもはじめから期待されてはいない。そもそもそういった前近代的な模倣も、近代アバンギャルド的創造も既に不可能であるという地点からその行いが発動している。
 そのような、前提を踏まえつつくり返えし、模倣しつつ創造する、という「二次創作」とは、つまるところ「ズレ」を意図的、自覚的に誘発するいとなみであるかもしれない。「前提」と「後天的産物」はかならず「ズレ」ていて、そうした「ズレ」そのものを浮き上がらせるためにわざわざ「前提」が必要とされているのではないか。ここでは特に「二次創作」に顕著に見い出されるそのようなアンビヴァレントな性質を「ズレの欲望」ととらえてみたい。
 「ズレ」の誘発は、時として「前提」の「虚構性」に自覚的であり、虚構内に安住せず、それを食いやぶるかのような新たなリアリティと、多重可変的な広がりを導きだしていく。場合によっては一次物(オリジナルな前提)と二次物の差は限り無く縮まり、その極点にいたって反転し、あげくにはオリジナルと模倣の区別は無効になっていく。
 模倣が「前提」を軸に共同体を志向するのに対し、「創造」ではそういった既成の「前提」−共同体からの離脱、超越、自由、独立を志向すると先述してきた。一方、「ズレの欲望」はその双方にまたがり、共同体への連帯と連帯の中の差異、独立を同時に志向しているということになる。こういった両義性は多かれ少なかれ、二次創作に限らず、創作物一般にもある程度、あるいは結果として垣間見えるものではある。が、前近代的模倣が「前提」を尊び、近代的創造が「前提」を超越せんとした結果であるのに比べ、「二次創作」では、その特徴はいちじるしく、はじめから予定調和的に、ある種、遊技めいた作法として「前提」の衛星圏に留まり続けていくようでもある。
 連帯しつつ自立するとは、ある意味で理想郷の趣だが、いわゆる「いいとこどり」であり、多くの場合、模倣や創造にともなうべき「リスク」をあらかじめスルーしてしまっており、大きな危険性を孕むものである。本来の「模倣」にともなう一種の倫理的ともいえる制約のハードルがいともたやすく逸脱されることにより、「前提」−オリジナルの尊厳はいちじるしく貶められかねない。また狭い枠内で恣意的に設定される「前提」を共有しての創造は、創造が元来持っていたはずの、孤独とそれにたえる自立自尊の精神、冒険性、爆発力などを去勢してしまいかねない。
 かつて大きな物語の生きていた時代では、前提の「模倣」は「聖なる領域」に到る筋道であった。近代でも、前提の「乗り越え」は、未知なる未来を切り開く、大いなる聖性をおびた英雄的革命であった。前者は主に「自己放棄」をすることで、後者は主に「自己拡大」することで、まがりなりにも共に「外部」を志向するものであった。模倣および創造はそれはまず「外部」へ向かうための至高の回路としてあったのだ。それが、今日の「二次創作」になると、「前提」は私物化され、陵辱されるものとして踏み台にされ、多くの場合、真の「外部」は閉ざされ続け、希求されなくなってしまう。結局ウチワウケの閉息回路に陥いることになる。小市民的な良識と狡さと小賢しさの村落共同体を形成し閉息していく危険性と隣り合わせにある。 このような特質と危険性は同人誌的二次創作に限られたものではなく、先述の「デ−タベース」(東浩紀)に依拠した今日的創作は、すべからく同様の「二次創作」的構造とその危うさを有してさえいる。
 ゆえにそのような二次創作が孕む危険性を回避しつつ、いかにこの「ズレの欲望」は「外部」を志向していくことができるのか?あるいは、その「ズレ」の構造をいかにして村落共同体の外へ、今日ありうべき創造力として抽出すことができるか?という問題意識が今後重要になってくるように思われる。  *(東浩紀の例えば「物語的主題」に対する「構造的主題」の重視、環境分析的読解の主張等、、同質の問題意識に基づくものであるように感じられる)。


 6、繰り返し

 「ズレ」は「繰り返し」から生じる。「繰り返し」によってかならず、一次的なものと、二次的なものの間にある種の「ズレ」がうまれてくる。もしも「ズレ」がなく完全に同位であれば、「繰り返し」自体を確認することが不可能になる。だから「繰り返し」は、そもそも「ズレ」をともなうものであると考えることができる。
 「繰り返し」とは、だから本来的に矛盾した両犠牲を孕んでいることになる。つまり一次的なるものと二次的なものの間の同一性と異質性を、ともに同時に発生させていくからである。常に「ズレ」は同一性と異質性の両面を同時に含んでいるのだ。  ところで、ものごとが二重に繰り返されると、ものごとの意義が強められる場合と、全く逆に弱められ無化される場合があるように思える。例えば繰り替えされる同一の言葉は、「強調」を意味し、人々の記憶により深く刻まれるとされる。一方同じことが繰り替えされると、時として当初の意義やニュアンスが失われ無意味化する場合もある。繰り返すことで誘発されるこの一見相反するような二面性はどういうことなのだろうか?なかなか良い解答が見つからないのだが、一つには以下のように考えることができるのではないかと思える。
 一般的に「繰り返し」−「リピート」は強調をあらわし注意をうながすものである。それはまず大切だから、重要だから、必要だから繰り返されるのだという暗黙の了解がある。繰り返される内容がそいういった期待に答えるものであれば、その「強調」はスムーズに発動していく。しかし期待にそぐわない場合、あるいは期待される根拠が不明な場合、その繰り返しは、別なレベルへ向かうことになる。
 例えばその繰り返される内容が、それほど重要ではなく、必要性もない場合、繰り返される行為は、余剰分として宙に浮いてしまう。内容の希薄なただの繰り返しとして、日常的な因果律から逸脱してしまうとも言える。
 その場合、結果的に「繰り返し」によって浮上してくる「ズレ」そのものへ注意が向けられることになる。「ズレ」は、繰り返されるものの背後に別な空間をつくり出していく。そこでしだいに、「繰り返されるもの」(共通の部分)−表層と、「繰り返されなかったもの」(異質な部分)−深層という対比を生み出していく。「深層」は、「表層」が一面的で限定されたもの(まさに「表層」に過ぎないこと)であることを示し、もっと別な可能性へ人々をいざなう。「深層」はそうやって、繰り返されるものを表層化、無化していくのと同時に、別なレベルを開示し、奥行きや広がりを与え、「深層」を付与することで「強化」していくと考えられる。
 別な言い方をすれば、繰り返されることで、当初示されていた意味(日常的な意味、文脈、必要性等)が「無化」され、いままで秘められていた(と感じられるところの)別な意味(非日常的な−例えばより原初的な、霊的な、異界の、より高次の)が発生してくるのではないだろうか。つまり「無化」と「強化」(深化)は時として同時に連関しておこるのである。
 *(例えば「ありがとう」というお礼が繰り返されたとする。二度繰り返されることにより感謝の気持ちが強化されるケース。二度繰り返されて逆に言葉そのものの意味を減じ、むしろその背後の慣習化された社会儀礼的文脈が本人の気持ち以上に強く暗示されるケース。あるいは必要以上の繰り返しにおいて、何か別な意味があるのではないかと思えたり、なんらかの秘められた「たくらみ」を連想してしまうケース。あるいは何らかの宗教的呪術的儀礼的なもの、反復ととして解するケースを想定してみても良い)。
 だから「繰り返す」ことで生じる「強化」は、まず二種類想定されることになる。一つは普通の意味での単純な強調であり、もう一つは普通の意味の無化をともなった上での異次元化・深化である。「繰り返し」の真の重要さは、後者の「深化」に具現されており、それは「メタ化」、「異化」に繋がりうる可能性を持っている。
 繰り返されるもの−「前提」が「大きな物語」に繋がっている場合(あるいは必然性のある繰り返し)、繰り返されるものに、表層/深層の分裂は生まれにくく、そのまま素直に「強調」されていくと考えられる。
 一方「大きな物語」を失った、つながりを欠いている「前提」(あるいはいわゆる必然性のない繰り返しになっている場合)、例えば先述のサブカルチャー作品の虚構世界での「繰り返し」などでは、結果的に「ズレ」に力点が移動集中することになり、表層/深層の分化がすすめられ、虚構世界が動揺し、表層化と深層化、分岐をくりかえし、多層的、多面的に増幅されていくと考えられる。後述していきたい。
 ところで、アニメやマンガや映像という媒体の形式自体がそもそも同一の絵柄の繰り返しとズレに依拠している。そういった形式的次元での繰り返し(それ自体は音楽がそうであるように表現の本質的構造でもある)と、現実世界(物語に反映されているところの)における繰り返し(例えば繰り替えされる一日という単位、一年春夏秋冬という単位、生まれ成長し死ぬという一生の単位など)と、メタ物語としての繰り返しが各々重ねられることもある。今日多く見られる、そこに派生し、夢やタイムスリップや転生などを材料にした「ループ」構造の繰り返しは、言ってみればマンガアニメの形式的次元の繰り返しと、現実世界の繰り返しを上手につなげるところからきているようだ。
 そうして、このような繰り返される−二次的、多次的、ループ的構造は、「ゲーム的」な構造と深くリンクしていることも見逃せない。リセットすると何度もやり直しができ、プレイの仕方や設定如何で様々な筋書きがあり得るその構造は、そのまま今日の二次創作および、その反映でもあるデータベース型の創作につながっている。単に虚構を受容するだけではなく、そこに自ら参加し(あくまでもバーチャルなレベルでなのだが)、虚構(物語)を進行させ、つくりかえて行くことができるゲーム的欲望。そこではいわゆるプレイヤー的立場で、作品がつくられもし、受容されもするリアリティーが反映されていく。


 7、「ズレ」と「なおす」


 自然主義美術から近代美術へ−暗喩の繰り返し  

 ここであらためて、上述の「繰り返し」に関する考察を踏まえながら、先述の「暗喩」、「言語」、「実物」各々の二次的媒体の比較検討を行っていきたい。
 例えば「自然主義美術」では、「前提」は作品の外側の現実世界となっている(本当は現実のさらなる先のイデアが前提となっているのだが)。外側の世界、、例えばある一人の女性が、作品内に繰り返され模倣されて、絵や彫刻がつくられる。いわゆる「再現芸術」ではすべからくこのような本物の世界と作品の世界という異次元間にまたがった「繰り返し」(再現)が行われている。この場合、繰り返される(作品化される)モチーフが、芸術という形式に置き換えられることにより価値が高められる場合が一般的である。半永久的な大理石に置き換えられ、あるいは豪華な装飾の額縁で縁取られる。「芸術」という一種の大きな物語が生きていた時代、単純な意味でこの繰り返しは「強化」に向かう。
 しかし近代になると芸術形式が動揺し、例えば「主題」の不明な(自覚的にしろ無自覚的にしろ)作品が増えてくる。普通のとりえのなさそうな市民の肖像であったり、居眠りする人であったり、ただの茶わんが描かれていたりするようになる。そのため繰り返される(わざわざ作品化される)モチーフは、宙づりにされる。観る者の視線は、現実と描かれたものの差、描かれたこと、描かれ方そのものなどへ向けられていくことになる。
 これは先程の「繰り返し」に関する考察に繋がる。
 「繰り返し」は、繰り返される表層(モチーフ)ではなく、より深層の芸術媒体固有の要素、構造そのものへ関心を向かわしむる。つまるところこの繰り返しの構造自体、近代芸術特有のあり方に深く関わっているのが良く解る。主題(モチーフ)の無意味化はモダニズム的探究と深いところで呼応しているのである。
 一方でこういった「暗喩」による繰り返しでは、「前提」と「繰り返されるもの」の差はあまりにも大きい。あくまでも同一性と異質性を同時に共存させたものであったはずの「ズレ」的構造とは、少々性質を異にしていくことが予想される。モチーフと絵の中の林檎の差は「ズレ」ではなく、単に「違い」そのものとしてあらかじめ認識されざるをえない。それゆえに多くの場合、その違いそのものへ関心が移動し、そもそも違うものとしての別な領域が掘りさげられ組織され、現実とは違う、「べつもの」として「芸術」そのものが自立し確立される契機になっていくことが予想される。「ズレ」という差異が結果的に繰り返されるものを宙づりにさせながら「深化、メタ化」させるのにくらべ、「違い」という対比では、「前提」(現実)と「繰り返すもの」(作品)を大きく分かつ。近代芸術は、しだいに「前提」を作品の外側ではなく、内側に、芸術媒体固有領域に見い出していくことになる。そこで見い出された「前提」はそのつど乗り越えられていく。それは芸術内へ深く深く自閉して行き詰まる近代芸術の有り様を指し示してもいる。


 現実世界のつくられ方−継続と変容−物質混入の繰り返し

 様々な「前提」を踏まえることで生み出される芸術作品の創造。時に前提が模倣され、引用され、繰り返される要素があることから、二次的な部分が分かちがたくある。それは近代芸術でさえ同じであり、逆にそのような二次的な繰り返しを内包することによって、はじめて自身の新しさ、オリジナル性を生成させることが可能となることについて先述してきた。
 しかし、芸術作品−近代的創造概念には、ひとたび成立した作品はそこで完結するという至高の了解がある。近代的創造は二次性を含んでいるけれども、それはあくまでも創造時に一度だけであり、創造「後」は絶対に許されない。新たな繰り返し、後付け、改編等の二次性は、あくまでも次なる作品創造に別個に引き継がれることになる。
 そういった完結型の創造に対して、まったく異なるもののつくられかたがある。先述の建築物、都市などのつくられかたである(それは神話や説話等のつくられ方(生成、組織のされ方とも共通する)。もちろんそこには近代的な意味での独立した制作者は成立しにくい。しかしそれは、いわゆるこの現実世界そのもののつくられかた(美術館に棚上げされ保存される完結した美術作品に対して)でもあり、多くの示唆に富み、今日的な二次創作を考える上でも大変重要なもので、近代的創造概念が終焉した現在、無視することはできないものであるように思える。

 ひとつの大建築(例えば先に例示したように中世のカテドラルでもよい)は、一人の制作者では統御しきれないものであるし、完結しえないものである。それは一人の人間が所有する時間や労働量を凌駕している。なによりもそれはともに育まれ、使われ、受け継がれていくものとしてあり、そもそもからして近代的な統御、完結、棚上げを望んではいない。それはつくられ完成するものであるよりも、つくられ継続し変容するものとしてある。したがって、二次的な繰り返し、後付けが随所に、何度も「繰り返され」ている。最初につくられたもの(それはそれ以前の何がしかの原典を「前提」としていると考えられるが、必ずしも特定できるとは限らない)が、あとからその「前提」とされ、繰り返されズレ、変容したものが新たに「前提」とされ、二次的、三次的と重なりつつ、しかもそれが重層同居してひとかたまりになっている。
 そうしてここで重要なのは、「前提」となっている媒体がしばしば「物質」としての実物の断片であり、そういった実物がその二次的三次的繰り返し部分と同居している点である。「前提」となる見本が、「暗喩」として「外」にあるわけでも、「内」に「言語化」されてあるわけでもなく、実際の「物質」として同居していくというタイプの「繰り返し」なのだ。
 ゆえに、二次的に「繰り返し」、「模倣」がおこなわれながらも、「再現芸術」のような虚構性に落ち込むことはない。その混合性は、一次品(オリジナル)/二次品(コピー)、つくること/模倣することといった伝統的対立を凌駕し、そういった対比を無化してさえいる。  さらに興味深い点は、現実の物質が同居することによって、古いもの、新しいものという時間の流れが内包される(はっきりと具体的に刻印される)ということである。あるいは、そういった時間の幅と呼応しながら、風化や傷といったもろもろの不確定要素・ノイズまでもが内部にそのまま取り込まれていくことである(後付けで生じる新旧のズレ跡そのものが最大のノイズのひとつでもある)。あるいは、一人の作者ではない複数の人間(複数の時間、動機、技術、、、)の所作が同一平面上に同居していくという可能性も見逃せない。つまるところそこでは、近代芸術が排除してきたところのあらゆるものが同居し重なりあいながら関係しているのである。このような「現実世界」を形成していく「継続と変容」は、当の世界に多様な厚みと深さを付与し、ある種のオーラを生じさせていくように思える。つまりコピーや創作を超えた唯一無二の実在性が後天的に湧出してくるの感に打たれるのである。それゆえ、逆に先天的にオリジナルであるはずの作家性の強い、現代の建築、計画都市などでは、造形的な優劣はあっても、そのような後天的なオーラ、、継続と変容から育まれてくる「なる」、「なってくる」といった魅力は乏しい。


 二次創作−的繰り替えし

 多数の作家による非完結的な継続と変容という現実世界組成の特徴は、今日的な「二次創作」の性質と同じである。もちろん「二次創作」の繰り返しは、上述の建築物等と違って、実際の物質ではない。しかしだからといって、暗喩における置き換えでもなく、言語化されたものでもないのは事実である。奇妙なことにそれは「実物」そのものでありえ、しかし「物質」ではないという両義的なも特質を示すものである。
 「原画」としての特異なオリジナル性を別として、基本的に二次元的なイラスト、マンガ描写は、今日簡単にほぼ完璧な複製が可能である。それは「物質」ではないのでノイズは生じない。ほぼ完璧な複製ができ、複製によって広く流通され享受されていく点、むしろ言語的媒体に非常に近い。コンピューターをベースにしながらデータベース型の消費、創作が可能なのもそのせいである。複製可能でありながらそれは実物そのものであり、ゆえに二次的にも三次的にも、いつでもどこでも何度でもその「実物」を用い、内包することができてしまう。なによりもそれは「実物」なので、「模倣」ではない(もっとも同人誌的二次創作では、原作の図柄を巧みに模倣して用いられるのだが、場合によっては原作者よりも上手に、あるいは原作そのものが複製によって転用されうることも事実であり、されないまでもそういった可能性に常に原作は脅かされ、すでにその特権的地位は消えて久しい)。そのオリジナル/二次性の差の少なさ、同一性は、時として、虚構と実在が重なりかつ逆転する特異な効果を容易にしているように思われる。今日の二次創作、データベース型創作は、基本的にこのようなマンガ、アニメ的描写の特異な両犠牲に深く負っていると言えるだろう。
 そもそもそこでは、実物/虚構が同化し、あるいは逆転がおこりやすい。
 そのような特異性からつちかわれる認識は、以下のように先述の「現実世界」の組成が指し示す重要な認識と同一でありさえする。つまり、そもそもが実物に虚構が含まれており、虚構にも実物も含まれていて混じりあっている。「実物」はしょせん実物「らしく」なっていくもののひとつの姿であり、つくられていくものであり、なっていくものであり、はじめから実物としてあるわけでもない。
   ただし、マンガアニメ的領域に展開する「二次創作」は、結局「物質」そのものとは別の領域(二次元的、電波情報的ともいえる次元)におけるものでありつづける。マンガ、アニメ的描写は実物ではあっても、実際の「物質」である必要はない。それは自ずから外界に開かれている実在物としての「物質」とは異なり、基本的に虚構領域内に留まり続けざるをえず(物語−虚構を壊し、そこから脱したとしても、結局虚構であり続けることには変わりがない)、閉鎖細分化し堂々回りを繰り返しかねない危険性にある。  一方「現実物質」を媒介として内包させる「現実世界」の継続と変容は、我々の「現実」(虚構)そのものをかたちづくる接点に位置していて、様々なレベルで「外部」へ連なる契機に満ちている。


   なおす−物質混入の「無意味な」繰り返し  

 ある欠落した断片を後から補正し補完していく「なおす」作業は、上述の「建築・都市などの現実世界の継続と変質」の根幹をなす作業でもある。そしてその構造は、二次性に深く根ざされており、今日的な「二次創作」とも大変近いように思えることは冒頭で触れたとおりである。
 欠落した「断片」とはそもそもある特定の「前提」とみなすことができ、そうした「前提」はつねに欠落していることになり、後天的に(二次的に)「模倣」されながら「補完」され続けることで、くり返され、しかし「ズレ」が発生することで、もととは二度と同じにはなりえず、少しずつ姿を変えていく。それは「二次創作」と同様、終わりがなく、多方向に分岐していく。
 ところで先述した大建築・カテドラル建造等の場合では、その背景に文字どおり「大きな物語」が生きていたのを思い起こす必要がある。その生きられれる大きな物語そのものでもありえる大建築造営では、ひとつひとつの作業、ひとつひとつの形は全てその大きな物語に繋がっていた。逆に言えば、そういったひとつひとつの部分の全てが、様々なレベルで「大きな物語」の因果律に拘束されていたわけである。
 あるいは都市というもの、継続変容する「現実世界」そのもの背景には、意味や価値、経済性、、といったもろもろの必要性に立脚した因果律がはりめぐらされているだろう。屋根が壊れれば雨がもれるので修復し、家族が増えて手狭になれば増築する。不必要な箇所は効率性を考えてとっぱらう。そういった継続変容の終わることのない繰り返し。
 わたしの仕事は、「なおす」と称しながら、そういった現実世界における継続と変容の構造を、普段の因果律から別な領域へ抽出してくるという性質にある。
 現実世界の要請する意味性や役割や象徴性(そして大きな物語)は、ものごとをかえって見えにくくしてしまうように思えるからである。はりめぐらされた因果律の内側にあっては、自身の虚構性を自覚することができず、ただどっぷりと漬かるほかない。そこから脱出するには虚構性から自由になるという以前に、自身が虚構であることに、自覚し、踏まえるということがまず必要であろう。

 そのようなこころみにおいてもっとも有効なのは、先述の「必要性のない繰り返し」という実践であるように思える。  自分の仕事でも「なおす」と称しながらも、必要性の希薄なものを不必要なレベルで「なおす」(繰り返すこと)のに終始する。それはなによりもまず、どこにでもありえ、何ということのない断片、あまり必要性のない、無意味な物品の無意味な後付けとして行われる。
 車の断片の後付けが、もとの車が走るように、つまり実用レベルで修理、復元されるわけではない。あるいは何か貴重な宝物を選びだして補完し復元していくものでもない。常に社会的な必要性の因果律とは異なる別なレベル(同時にいわゆる「美学」的造形レベルとも異なっていることは言うまでもない)、いってみればただの「もの」的レベルで補完、改編が行われる。  意味の希薄な、必要性の無い繰り返しは、その繰り返されるいとなみ自体を過剰なものとし、宙づりにする。「ズレ」を際立たせ、背後の深層へ人々をいざなう。社会的な因果律を宙づりにし、背後の「もの」的因果律を浮き上がらせる。社会的な意味レベルの表層を表層として転化させ、複数の可能性に導く。
 このような繰り返し、必然性のない繰り返しとその結果生じる効果(メタ化、深化)は、先述の「繰り返し」の分析で明らかであり、今日の「二次創作」に大変近いものがある。二次的で無意味な繰り返しの中で、作品世界・虚構世界の因果律を破状させ、キャラクターをときはなとうとしたり、別な虚構へ導いたり重層させたり、、、。「なおす」繰り返しと同様な構造に立脚されているのがよく解る。
 私の「なおす」作業では、それと同時に実際の「物質」である断片が内包されることから、今日的「二次創作」のように「虚構」領域内に拘束されることはない。自ずから「現実らしさ」(というある種の「虚構」)を踏まえることができ、ノイズに取り囲まれながら、さらなる「外部」に開かれてもいるのであるのは、先述の「現実世界」の継続変容と同様である。それはいわばオタク言語データベース「内」での二次創作に対する、現実世界「内」での二次創作といえるのかもしれない。
 「二次創作」というものが、本来的に「繰り返し」と「ズレ」に根ざすマンガやアニメという媒体が有する構造的本質に由来しているように、「なおす」作業も、結局この現実世界が、破壊と再生(繰り返しとズレ)の中から生成維持されているという構造的本質に由来していると考えることができる。ともに自身の内在的次元から、観念的な近代的創造概念とは異なる、実際的な新しい「創造力」を紡ぎ出して見せようとしているのは興味深くまた重要なことではないだろうか?