秘められた来歴の発動   ~異界結合のゆくえ~  



合体-共通点/異質点    

 異なるもの同士の「ナマ」な結合は大変興味深い。  
潜在していた双方の特質を顕在化させていく。
 共通点はひとつにつながりはじめ、いまだ一体化しえない二つの別ものにまたがりながら、同時にその二つのものに共有されることにより、その特徴を露出させ「強化」していく。
 一方異質点も各々相互に反応を起こし、自身の特徴を際立たせていく。ひとつになりながらも一体化しきれない、別々なものへ分離していくベクトルと、つながろうとするベクトルの双方に、たえず揺すぶられながらに、異質点もやはり「強化」される。
 いわば共通点と異質点の双方が、新しい関係の中で各々突出してくるのである。
 この「共通点」と「異質点」は、あくまでも何と何が配合されるかによって左右される。出会う相手が無限にありえるように、配合で生じてくる反応も無限にありえる。そうして反応が無限にありえるように、そこで引き出されてくる自身の内なる特性も無尽蔵にちかい。それは、ある種偶然的な出合いのようではあるが、そこで引き起こされてくる「一期一会」の反応には、深い必然性と筋道がはっきりと刻まれている。
 背後の隠されていた文脈が活性化され、隠れていた特質が露出し、新たな対比と連関を生み出し、以前にはありえなかった多面的なつながりと広がりを獲得していくのである。それはさながら去勢されていた物体が突然覚醒し、自らを物語りはじめるかのようでもある。秘められた来歴が発動されるのである。
 異質なものとの結合は、「もの・ごと」に潜在している無限の豊かさと深さを我々に垣間見せてくれる。


  フレーム、形、容器、箪笥、木、石油  

 ここで具体的に自作を例に出しながら、異なるもの同士の「ナマ」な配合・「異界結合」がどのようなもので、かつそれがどのように「作品」を形成していくのかということについて考察していきたいと思う。
 例えば『なおす・代用・合体・融合・2008(森と石油の思い出に)樹を焼く炎が森を照らすとき』という長い題名がつけられた立体作品について考えてみたい。
 この作品では、拾われてきた「灯油用ポリ容器」の断片と中古の「箪笥」が配合されている。要素はそれ以上でも以下でもない。きっかけとなったのは拾われてきた「灯油用ポリ容器」の断片の方で、その「欠落」を埋めるべく、とある箪笥が選択され、「代用」されながら、破片が補われ「まとまり」を回復していく。灯油ポリ容器の「もと」の姿を想起するなら、それが文字どおりの復元ではなく、別物の代用に乗じた拡張、変容になっているのが解るだろう。そのへんの経緯を示しているのが、題名の前半部分「なおす・代用・合体・融合・2008」の部分である。この部分は具体的な行為のありましをポイントごと機械的に列ねていく形式がとられている(この作業行程は、異なる他者との「ナマ」な結合を実現するために、いわゆる「作家的制作」から距離を置くためにあえてとっている行程である。そのへんのことは別な文章で詳しく説明しているのでここでは触れない)。
 そのような具体的な行為のあらましに続く「(森と石油の思い出に)樹を焼く炎が森を照らすとき」の部分が、作業行為の結果生じてくる様々な活性化と反応-「背後の隠されていた文脈が活性化され、隠れていた特質が露出し、新たな対比と連関を生み出し、以前にはありえなかった多面的なつながりと広がりを獲得していく」次元を示している。それは冒頭述べたようにまず双方の共通点、異質点が突出してくることにはじまるのだが、それは具体的にどういうことだろうか?以下実際の作品に照らして述べていこう。

  まず双方の物質的特徴を観察してみれば明らかなように、共に自立した矩形状の形態を持っている(それゆえに「代用」に選択されたのであるが)という共通点が浮上してくるだろう。そうしてその矩形状の形態は、どちらも何らかの「容器」としての機能を持っているところが重要である。「容器」は、空間を任意に囲い込みながら内部空間を形成し、内を何かで満たそうとする形式と機能を持つ。一方は灯油を入れるためのポリ容器であり、もう一方は衣類等日常生活の様々なものを整理、保管する典型的な日本の箪笥としての容器である。同じ「容器」でありながらも中に入れるものが違っていて、従って形状、大きさ、材質、、、等が異なっている。一方は「灯油-火」、あるいは「プラスチック-石油-火」を象徴するかのような「赤」系の色が使用されている。もう一方は、雑多な日常に対応するように大小様々な引き出しで仕切られており、備え置かれるものとしてのスケールと重量を持っている。材質に木材が使用されており、これみよがしに「木目」が人工的に表面を包んでいて、その「木」である性質を過度に演出してさえいる(もしくはそういう演出されてきた日本の伝統文化の、戦後高度成長期における安っぽいイミテーションとしてそれはある)。
 独立した矩形の形態、容器という共通点。形状-材質、色彩など(想定される中身や意味合いの違いからくるところの)の異質点。このような特質がこの新しい相互関係の中で「突出」し浮上してくるのである。


 連関・突出・覚醒・物語る

 突出してくる特徴(共通点、異質点)は、相互に反応しながら思わぬ反発と連関を生み、それまで顕在化してこなかった潜在的な文脈をあらためて浮上させていく。
 独立した矩形の「形態」、「容器」という共通点は、それまで潜在していた、いわゆる「フレーム」としての本質的なあり方を浮上させる。「フレーム」づくりとは一種の「概念化」であり、「分節」と「囲い込み」であり、何かをまとめあげたり、形作ったりすることともつながっており、いわば原初的な文化のルーツとして、かつ現在でもありとあらゆるレベルで繰り返されてきている活動の総称として考えていただきたい。
 したがって、容器の破損、囲いの欠損、修復、修正という具体的な物質上の有り様は、「フレーム」という象徴的次元での分節の解除、分節以前への回帰、去勢からの覚醒、分節の再定義、再編成に結びついていく。
 そのような共通項としての「フレーム」的次元での意識を浮上させながら、もう一方で、相互の異質点が新たな対比と連係を紡いでいくことになる。まず「灯油-石油」と「木-森」という双方の異なる性質が対比される。対比されながら連関して、「太古の森」という潜在的イメージを掘り下げていく。それは今日の石油の起源でもあり、木材の起源でもある源としてのイメージである。同時に現在のプラスチックや木目化粧板等という加工と複製の成れの果てである現在、現物にもつなげられる。異質点から浮上してきたこの「太古の森」というイメージは、あくまでも両者の新しい結合から浮上してきた連関によっている。
 その後、異質点の掘りさげによる「太古の森」という共通イメージは、共通点の掘り下げから浮上してきた「フレーム」という観念と新しい関係を取結んでいく。「太古の森」の分節、囲い込み、消滅としての「フレーム」。あるいは「フレーム」からの逸脱、破たん、分節の解除、「フレーム」の「外部」、「以前」への回帰としての「太古の森」。という連関、循環する物語がここで発動し紡ぎだされていく。
 その物語は、「灯油」という液体状の危険物を、囲い込みまとめあげる「フレーム」としてのポリ容器。および、日常の現実世界の雑多なものごとを、まとめあげ、整理整頓する「フレーム」としての箪笥という、いわば世界の「去勢」としての既成品化された今の有り様を再認識させもするだろう。同時に「去勢」以前への回帰、「去勢」からの脱却、再編成としての今後の新しい配合を指し示しても行く。
 以上の経緯、突出、新しい連関、物語る自動運動ともいうべき、異種結合の反応の進展は、作品題名でしるされているように、「森と石油の思い出に」へ観るものを誘う。  森は霊長類・人間のルーツであり、材木は文字どおり人間世界の材料となり、骨格となってきた。同じく森から生み出された石油は近現代文明の最も重要なエネルギー源としてあり、戦争を引き起こし歴史を大きく動かしてきた元凶でもあった。石油は発火をうながし、炎となって森を焼き、爆発によって大地を揺り動かし目覚めさせる。「おこされた」文明とひきかえに共に消費される。石油が森を共食いし続けることで文明は維持される。
 作品題名の後半部「樹を焼く炎が森を照らすとき」では、そのようなアンビバレントな文化の有り様を反映している。焼くことによって光が生まれ、闇を照らし出す。深い森が、自身を焼くことで、はじめて自身を表わす(それは石油タンクの「浸透」によって、箪笥としてのフレームが壊され、材質(木目など)があらわになっていくという具体的事象に投影されているのだが)。そこでは「フレーム化」や「かたち」や「ものづくり」等の我々人類文化の起源と未来が語られようとしているのである。