フレームの生成とフレームによる去勢    ~あえて既成のフレームに立脚する理由~  



 フレームの始源  

 ここで使用する「フレーム」という言葉は、概念的かつ実際的なものとして想定している。  そもそも「概念」化そのものが広い意味での「フレーム」化を意味しており、例えば「水」という概念、言葉は、川や海や池、あるいはコップやポリ容器という、実際的で固有の様々な水の有り様を形付ける具体的な「フレーム」とつながっている。渾沌とした世界になんらかの概念や名前を与える(というか分節する)ことと、具体的にフレームを与え、枠付けし、しかるべき位置に整理すること、何らかの目に見え手で触れる、物質としての器-「かたち」を与え盛り込んだりすることは、基本的に同じことである。なにごとも「フレーム」なしにはあやふやでとらえどころがなく不便であるばかりか何よりも不安で未知数で驚異である。それゆえ「フレーム」づくりは、人類文化の原初のレベルに発しており、今日のいつでもどこでもフレームの拡大、修正、改編がめまぐるしく無意識かつ意識的に行われ続けている。様々なサイズと用途の箪笥や棚や容器に、それに応じたものを片付け整理整頓する日々の部屋そうじも、概念上のフレーム化とその位置付けの作業に呼応している。
 今日の人間世界はありとあらゆる、見えるもの見えないものをふくめ無数のフレームで被われている。フレームはものごとを取りまとめ扱いやすいもの、とらえやすい固まりにすることでもあり、人々は通常「フレーム」という「ワク」だけを記号的に認知し処理して、その中身にいちいち触れることはない。それゆえにものごとの「フレーム」化とは、常にものごとの一面化、つまり去勢をも意味している。


 フレームづくりとしてのアート

 日常を形成し被い尽くすフレーム化の行き過ぎは、人々に機械的一面的功利的な体験のみを強いる。それは原初的な広がりと自由を封じ込めてしまう。そもそもアートとしてのいとなみは、そのようなフレーム化以前に広がる世界へ人々を回帰せしめ、あるいはそういった日常のフレーム形成の起源をほりさげ、とらえなおすはたらきにあると思われる。つまりフレームの逸脱と再編成として。つまり絵を描くとは、普通の定型化された「外観」というフレーム、実用的なレベルも含め、、そういフレームを御破算にして、初めて人間がそれを観たような地点に立ち返りつつ、その生命力や謎に反応し、見い出し、調和や美や構造や疑問をひきだすような、日常とは異なるフレームへ、等のフレームの起源を問いながら再編成させるはたらきにある。例えばルネッサンス期の遠近法等も、新しい世界像のフレームとして、人間のものの見方、とらえ方を根底から変えてしまうきっかけをつくったと言える。
 未知なる体験、感動、存在になんらかのフレームをつける、、、形をつくることは、先述のようにそのような体験の「去勢」をともない危険なことでもある。例えば様々な信仰、宗教の原初的段階では神の姿を形にすることを嫌がってきた。それは超越的存在を限定し卑しめかねない行為だからである。しかしそのようなマイナスを凌駕しうるだけの意義と価値が、原初のフレーム化には認められてきたのも事実である。見えないものを見えるように。近づけないものに近づく。手に触れないものに触る。一つところに共にいられないものをいられるように。複雑で多面的なものをひとつに。流れ変転していくものに形を与え。消え行くかりそめのものを永続的に。解らないものを解るように、、、。このような衝動は普遍的なものであり、「かたち」というフレームづくりとしての「ものづくり」、アートの原点に我々をいざない続けてきた当のものである。
 その一方で、そういった原初的なレベルにおけるフレームとは別に、アートの組織化、制度化にともないながら、「アート」というフレームが、もう一つのフレームとして後天的に形成されてもくる。  かつてはそれは神話化、聖化、美化、、、、、つまり「芸術化」を象徴するフレームとして、、つまりそういう意味と価値の記号として作動してきた。実用的な壷や食器がアートのフレームに(カンバスに描かれ、額装され、飾られるべきところに飾られるとすれば)おさまると、甲乙は別として、美的なものとして解され経験される。
 「アート・フレーム」の他にも人間社会では様々なフレームが形成されている。例えば宗教性のフレームとしての神棚や仏壇、祭壇などの「器」がある。実利的な現世からはずれる「棚上げ」的フレームとして、アート・フレームと聖性・フレームは微妙に気密を通じ合わせているとも言えよう(逆に「棚上げ」の祭り上げ記号として、実利的に社会に組み込まれてもいる)。


 フレームの拡張、抽象化

 近・現代アートは次々とアートのフレームに、それまで未知であったもの、外部の異物を混入していった。労働者、貧しい人、眠る田舎娘、普通の市民、光や煙りや影、ただの景色、新しい機械文明、オリエント趣味、ジャポニズム、アフリカ黒人仮面、純粋な色彩、形態、線、インディアンの砂絵、ゴミ、自然物、無意識、身体、偶然、空間、複製物、既製品、、。フレームは拡張され、ついには絵画や彫刻という旧来のジャンルは相対化され、無化される。定型の形態、ジャンルが越えられ、フレームはなくなる、というか、逆に見えないレベルに抽象化され、制度としてのフレームへ全面化していくとも言える状況をつくり出した。ようするにディシャンがいちはやく提示したように、「それ」が飾られるべきところに置かれ、作品であると作者が定義さえすれば、どんなものでも一応アート作品になってしまうことになった。


 フレームの純化

 また、上記のフレームの拡張、透明化とまったく同時に、フレームの「純化」も押し進められてきた。従来のアート、、造形美術、、、絵画、、、彫刻、、、などの特質に立脚した固有のフレームを掘り下げていこうとするフォーマリズム的流れがそれだ。固有の属性からはみだす要素を不純なものとしてフレームから排除していく。最終的にはフレームそのものが問題視され、フレームが聖化され、フレームそのものとなる(つまり「絵画」そのものへとなる)。フレームがそのつど再定義、再編成されようとするのだが、フレームの性質が特殊すぎるためなのか、試行が近視眼的で微細なものになりがちで、しだいに行き詰まりを見せていく。


 
フレームの二重性  

 そういうわけでアートにはおおよそ二種類のフレームが想定されざるをえない。
 一つは原初的ななんらかの「かたち」-フレームをつくるというレベルのフレーム(絵を描く、彫刻をつくる以前の「像」を描き、「形」をつくるといった方が良いものである)。もう一つは歴史的文化的社会的に形成されてきた「アート」というジャンルそのもののフレーム(つまり制度としてのフレームで、絵画や彫刻や美術館やあらゆる要素が連係している)。前者はこれから、そのつど生み出されるであろう予見としてのフレームであり、後者は既にあるフレームである。この二つのフレームがつねに二重に重層しながら作品がつくり出され享受され価値判断されている。後者の既にあるフレームを前提によりかかるアートは、アートであったとしても創造ではありえないだろう。ひどい作品でもアートというフレームを身にまとうことにより「芸術作品」として流通してしまうし、よい作品でもアート・フレームによって自動的に処理(享受されるという形式に基づく処理)され、中身の体験を疎外してしまう。そういう中で、原初の生成ーフレーム化の力をいかに取り戻せるだろうか?  今日、前者での生成、創造はつねにキャンバスなり、絵画なり、彫刻なりの、、さらにはアート制度のフレームの中での出来事でしかない。連係し幾重にも重層したアート・フレームの中でのフレームづくりは、間接的で予定調和的だ。それは結局現実世界から「棚上げ」された特別な時空にあるからだろう。
 事態は、一見無形式、超ジャンルの抽象化したフレームにおいても同様である。そこに導入される全ての物事、生起するあらゆる出来事は、結果的に抽象的に全面化してしまったアート・フレームに去勢されてしまうだろう。例えばディシャンのレディメイドが示したように、あるいはローシェンバークが何を取り込みいかような形状の作品に結果させるとしても、それは結局新規なアート作品であり続けるのである。
 原初のフレーム生成が結局アート・フレームに去勢されてしまうことから脱するには、一つの方法しかないだろう。すなわち透明なフレームやアートのフレームを排し、もっと別な既にある既成のフレームに立脚すること。つまり無形式、無ジャンル、抽象性を装おうことも、いわゆるアート的な衣を身に纏うことも同時に避けられなければならない。もちろんそれは制度化されたアート・フレームに、別なフレームを混入することでもない。あくまでもアートとは別な既成のフレームに立脚し、そこにあり続けるのであり、アートは、前提として顔を出すのではなく、後天的に結果的に出現してくるのである。原初の生成をアートフレームの去勢から守るには、アートとは別な他のフレームに身を隠し擬態しなければならない。



 既成のフレーム  

 「他の既成のフレームに立脚する」と言っても二つの方向があり得るだろう。
 一つはアートとは別な、目に見える「既成の形」に立脚すること。
 もう一つはアートとは別な、目に見えない「既成の制度」に立脚すること。 (しかし、既成の形と既成の制度、見えるものと見えないもの双方は、当然つながっており、はっきりとは区分できない)。
 どちらも既にあるフレームに寄り添う点では同じだが、前者は原初的な生成をあくまでも既成の「形態」をとおして発生させ、ある種の「形態」として提示する。後者は同じくその原初的生成を目にみえる既成の形態ではなく、見えない既成の「制度」をとうして発生させ、「無形態」のうちに感知させる。
 形態を持つ前者の場合、アートにおける従来の慣習-絵画、彫刻などの造形美術的フレームとの安易な混同、混在がなされる危険性にあるが、あくまでも別なフレームとして対置されるべきものである。逆に後者の無形態は、一見すると従来のアート的慣習から超脱しているようであるが、いざそのこころみを「提示」する段になると、アート・フレームに全面的に寄り掛かってしまわざるをえないことがあまりにも多いように見受けられる。さらに言えば後者では、フレーム化が原初的に担ってきた問題や根拠の多くにタッチできない限界がある。つまり感知し指し示すことはできるが具体的にそれを具現し提示することは難しい。
 ところで「既成の」とは先述のアート・フレームがそうだったように、つねに歴史的社会的なものである。これから生み出されうるという原初的生成のフレームとは違ってつねに具体的実際的である。かならず固有な文脈、来歴を持っている。既成のフレームに寄り添い、擬態し、立脚するとは、そういったもろもろの固有性、時間性に関与していくことでもある。
 それには、そうした既成のフレームやそれをともなったものどもを、アートの材料として、加工、引用、暗示等の道具とすべきではない。それでは既成のアート・フレーム的文脈、アートの歴史的社会的地平にそれらを組み入れることにしかならないからである。既成のフレームの文脈に寄り添うとは、とりもなおさず「作者的制作」(それ自体が既にアート・フレーム的文脈なのだから)からあらゆる意味で距離をとることに他ならない。
 原初の生成に立ち会うために、もろもろのアート・フレームを回避し、なおかつ既成のフレームに埋没することなく、「作品」たりえること。
 いったそんなことが可能なのだろうか?以下自分のこころみについて考察してみたい。


 自作分析-拾った断片をなおす作業  

上述のようにアート・フレームに拘束されないように、まず自分は「拾ってきた何かの断片」というアートとは別な「既成のフレーム」に立脚しようとしてきた。
 その上で、さらに「作者的制作」と距離をとるために「なおす」という作業にこだわってきた。
 欠落した断片を補いあるまとまりに回復させようとするいとなみは、作者がある素材で作品をつくり出す「作者的制作」とは当然異なっている。それは、その動機も含めアートを超えた普遍性を持ち、アート以前の基本的な人類のいとなみでもある。それは「作者的制作」とは別な次元のもう一つの造形であり、もっと根源的かつ日常的な造形行為である。
 既成のフレームである「断片」は、作者の材料ではなく、あくまでも作業の起源であり主役である。「断片」を「作者」的アート・フレーム的文脈に持ち込むのではなく、「断片」が持つ既成の文脈の方に寄り添うこと。各々の固有な断片には、各々に固有な文脈があり、その文脈に導かれ、かつ導くこと。それがここ数年来自ら言い聞かせてきた心構えである。
 通常「作者的制作」から距離をとる場合、造形や形態や表象作業そのものを捨去るケースが多い(それもとても中途半端に)。インスタレーションやコンセプチャルアートや映像表現はその中で一般的だが、その多くは「造形」をしないだけで、依然として従来の「作者的制作」の範疇にある、、、ばかりかかえって実際的な物質に対しないので、よりアート・フレームへの依存が直接的で増してさえいるように思われる。
 ある拾ってきた断片をなおす作業は、一見すると造形にかかわりこだわりつづけことから、あるいは既成の異物を提示するありようから、あるいは既成の機能や意味合いから脱却した「無意味な」もの自体の露出から、従来型の「作者的制作」と似ている外観を示すことがある。しかしあくまでも、それが「なおす」作業に立脚しており、「断片」をめぐる文脈(アートとは別の既成のフレーム)に属している以上、どこまでも異なるものであると言える。
 もっとも、なおされた「まとまり」を「まとまり」として提示する、、観られるのに最も最適な状況で提示しようとする場合、アート・フレームとの接触がおこることも事実である。ただしそれはつねに事後的な問題であり、その体験の質がアート・フレームに依存することによってはじめて引き出されうるものではないと信じている(そもそも「観る」のに適するように、壁に「懸ける」、台に「置く」、背景や周りに気を使う、、という最低限の提示にまつわる操作は、アート・フレーム以前のレベルにあると考える)。
 ひかえめに提示し、ただ「ものそのもの」をしっかり見せようとする時、断片がもともと持っていた社会的文脈(機能や意味)や、提示された容態から類推されるアート・フレーム的文脈が作用してくる。しかし結果的にそのどちらにも「去勢」されるべきではない。つねに特定のフレームにおさまらず、相互にズレを増幅させながら「もの自体」の多層的実相を露出させていくことが期待される。無色透明の純粋な抽象物でもなく(先述のようにそれはアートに回収される)、日常の見なれた事物でもなく、作者が製作した作品でもない。それらの様々なフレームが絶えず途切れることなく沸き上がり、排除されることなく連鎖し内包される多元性としてのものの有り様。ものの実像とはそうしたズレとズレの間に絶えず生成してくる危ういものではないだろうか?既にあるフレームを提示するのでも依存するのでもない。フレームの原初的生成を具現・再演させようとすること。「拾った断片をなおす作業」は、そのようなこころみを可能にしてくれるように思える。


 器-タンス、ポリ容器の位相、機能

 先述したように、ある種のまとまり・「形」そのものが既に「フレーム」なのである。従って形を「なおす」ことはフレームを「なおす」ことであり、よりよく「再編成」することである。  現実世界では抽象的な形というものは存在しない。全てなんらかの固有物であり、各々の形状や色、質、文脈を持ったかけがえのない唯一無二の存在である。実際の断片に立脚する自分の作業は、つねにこういった各々の固有な既成の文脈に関わることでもある。しかし自分の行為は、けっして偶然的な雑多な差異に対応するだけに留まるわけではない。先述したように、特定の固有な文脈・既成のフレームにおさまりきれない、おさまりえない次元を、フレーム化の起源に立ち返りながら同時に浮上させようとしている。であるので特定のフレームが、常にそれとは別なフレームや、フレームそのものからも免れている「外部」の広がり等を、隣り合わせにしながら際どく成立している、恣意的でかりそめのものにすぎないうことに常に自覚的である。
 ところで自分の作業では、何らかの「器」の断片に関わることが非常に多い(ポリ容器やタンスや箱やケースやトレイやバケツ等)。ここで、今までの流れをふまえながら、「器」固有の文脈・フレームの特性について少々考察しておきたい。  「器」とはまず何らかの入れ物であり、中身を規定する枠どりである。一定の空間を囲い込み内側と外側に分節するのが「器」の普遍的な最低限の機能である。それはなんらかの形ないものを一定の形式に留めおくものである。外枠の形状や大きさによって内側の空間の形や大きさが決まる。一定の形を持たない水や灯油等の液体は、容器の形状に従った形状、容量でまとめられる。  
「器」とは、形や制度や概念等のあるまとまりや枠取りの中でも、フレームそのものが最も解りやすい形で具現化してきた容態であり、フレームの物質化と言えよう。それはもっともフレームらしいフレームとしての「形」なのである。
 囲い込むことで内部を外界から分節する機能。「フレーム」そのものの具体化、象徴。それが「器」という文脈であると思う。   だから欠落した「器」とは、そうした囲いが欠落しており、内部が外部に露出し「機能」不全に陥っていることを意味するわけである。イレギュラーに開かれた空間を再び閉じようとすることで機能を回復させるのが「器」の修復と言えるだろう。囲いの外枠の分断を補い穴を塞ぎ、破損した「分節」を再演すること。「分節」の再演によって、露出した内部空間を再び囲い閉じ込めること。ここに、逸脱、再編成、生成をくりかえすフレームとしての文化の有り様が、物質としての特定の「器」を通して、大変解りやすい形で重ねられているのである。



 器的フレームに立脚する理由

 通常、看板や板切れの断片を「なおす」場合、その二次元的な平面という「文脈」に沿いながら二次元的なまとまり(矩形としての)に導かれていく。その結果当然のことながらアート・フレームとしての「絵画」というジャンルに近似していくことになる。両者はあくまでその出所、根拠、目的等異にしているのであるが、常に重ねられ、ズレながら、時に絵画として、時に看板として、時にどちらともいえない「面」として感受される。
 一方「器」の断片で「器」フレームに立脚された「なおす」作業では、上述のように二次元的な面、三次元的な形態を「なおす」にとどまらず、内部空間と外部空間の分節、囲い込みという器ならではの文脈に沿っていく。それはアート・フレーム上の文脈からある程度距離が離れていて、容易な混同はおこりにくい。それは文字どおり「フレーム」=「器」というつらなりに立脚している。逆にいえば単にベタな特定の「器」という物体の再現、提示に陥りかねない。理想としては、「器」フレームに立脚しながら、アートや器という特定のフレームにおさまりきれない、いわゆる「フレーム」そのものとしての潜在的なレベルを開示していくことにある。
 いずれにせよ「器」フレームへの立脚は、「アート」という回り道を迂回せずに(つまりフレームの象徴として、ある種の形や平面や立体という抽象的基本単位を用いる必要がない)、「フレーム」をめぐるより直接で具体的な試行、具現、提示を可能にしているように思える。
   人類は容器やタンスによって雑多な日常にフレームを与え整理整頓してきた。フレームがフレームとして(中身はさておいて外枠だけで)物質化して自立してきたのがタンスや容器や箱であろう。ものごとのフレーム化に先立ち、転倒してフレームが先につくり出され、世界をそこに後から割り当て編入していこうとする。ゆえに逆説的に人類は容器やタンスに従い、導かれながら世界に対応してきたとも言えよう。同様なことを「家」や「部屋」という単位の器に当てはめることも可能である。住居のあり方、部屋の間取りによって、人々のくらしかたが導かれ規定される(その意味でも「器」はあらゆる制度的枠組みの象徴でもあるのだ)。
 様々な用途やステイタスに応じて容器の種類も細分化されている。神棚や仏壇が自ずと神や仏を引き入れるように、床の間や美術館はそれに相応しい芸術を呼び寄せ、タンスや棚は任意に区切られ整理された生活を呼び寄せる。そうしてタンスや容器の有り様(区切り方や内部の囲い方)は時代や文化、民族性を反映し、各々の固有な文脈を背負っている。
 世界を分節する枠組みとしての容器やタンスは、同時に世界の多様性やとりとめのなさを、ある一定の仕方でフレーム化することにより「去勢」するものでもある。既成の容器やタンスの機能不全や機能回復に関わることは、日々繰り替えされている世界の広がりへの回帰、およびその去勢、そして刷新され続ける再編の物語に立ち会うことでもあるのだ。
 「器」という文脈に立脚された内部空間と外部空間の分節とその破たん、一定の枠組みと他の別な枠組みの衝突、そしてその再編は、フレームとその外側、フレームとフレーム、フレームの生成とフレームによる去勢という文化の起源を具体的に見せてくれるように思う。