隣り合わせの時間―Time Sharing
反転する主体と構造のはざまで
 
  土方浦歌     *(展覧会カタログからの抜粋)



 全く制度の前提の無いところで、地域の中に芸術の表現を打ち立てることは可能であろうか?もし、それが可能になるのなら、今日の表現は、物理的あるいは意味上の条件とどのような関係性を取り結び、そして作品の自律性はどれだけ残っているのだろうか?

2014年から2015年にかけて、日本・韓国・台湾からの作家もしくは美術家が沖縄を中心に移動しながら、土地の記憶や現地の文物を再利用し、地元民との共働によってプロジェクト、インスタレーションを実施した。滞在を作家ひとりずつに区切り、その成果を順次リレー形式で発表した。対象となるアーティストは、発表を続けて10年以上、海外での制作滞在を経験していること、そして身近な日用品を使用すること、それでいて、同時代の批評に対し、示唆的な表現を成立させることができることを基準にお願いをさせて頂いた。違法自治体の文化事業によくある、地域資源の再発見、地域文化の活性化がある面では目的である。と同時に、これを予定調和的なユートピアを描きがちな地域プロジェクトの自己批判的な再認識の機会と考えた。

2011年の東日本大震災は、戦後日本の急激な経済成長において達成された機構の数々、盤石であったはずの様々な社会基盤が破綻しはじめていることを見せつけた。報道規制をするマスコミ、原発を前に成す術も無い電力会社、先の世代たちが欧米に追い付け追い越せと建設し続けた城塞が、あちこちで制度疲労を起こしている。誰もが戦後体制の行き詰まりを実感しつつ、次の時代の決定的な出口を見いだせないまま、アンシャン・レジームの薄暮の中だ。リーマンショック以来、民間団体の文化事業は削りに削られ、人口流出に喘ぐ地方自治体においては、地域再建の試みとアートプロジェクトが結びついた。地域のアートプロジェクトが百花繚乱の体を成している。(実際のところ、少子化が原因の過疎と都市空洞化現象は避けられようもないのだが。)かくして芸術性や美学とは別の種類の価値、すなわち実利や福利がアートに求められる。アーティストは誰も頼まれもしないのに、地域に奉仕することが期待された。美術館は集客者を競い、過疎地域は一時的な経済的な効果に沸いたとしても、作家は経済的な利益から疎外されている。彼らは、自ら内的に涌き出て来るものに従って、人々に幸福を約束して歩く、聖人であるとでもいうのだろうか。社会がアートに実益を求めるのなら、社会はその見返りに彼らに何を与えることができるのだろうか。

二コラ・ブリオーの『関係性の美学』では、ミニマルアートにおける人とオブジェの関係、ポップアートにおける消費記号に見られる、物質に含まれた抽象的な価値を含む構造に着目し、表現の主軸がこの構造から、それを成立される関係性そのものに移行していることを論じている。近代資本主義が分断してしまった生産と消費の現場をつなぎ、人々相互の互助と交換、今ここを鮮やかに生きる営みを取り戻そうとしたブリオーの論説は、地域のアートプロジェクトにおいて、人々がより困難なく楽しむことができるというひとつの論拠になった。これに対し、クレア・ビショップは、ブリオーの意味する関係性がミクロトピア的実践の範疇から出ないことを指摘し、閉ざされた美術関係者による遊戯で終わってしまうことを危惧する。彼は問う。「ではいかなるタイプの関係性が、誰の為に何故産出されるのか?」[1]ダントーの言うモダンアートを成立させる制度「美術評論家、ギャラリスト、コレクター」(あるいはキュレーター)が辺境に拡張したとしても、それは芝居の書き割りが「白い壁」から「寂れた商店街」に変わっただけのことにすぎないだろう。主体は本来有限であって、部分的にしか同一化できず、社会との接続に境界を設定するビショップの主張は納得できるものがある。アートと社会の間に前提としてある断層、それを埋めれば埋めるほど、現実社会に蠢く政治主体の要求に応じれば応じるほど、不特定多数の観客が居心地の良い着地点を見つけることができなくなる。表現は「自律性」へと志向せざるを得ないというパラドックスを抱えるのだ。

90年代の主観性の強い、あるいは個人の知覚を扱った表現から、2010年代も半ばを迎えてかんがみれば、前述の状況よりも若干の変化は認められるだろう。大量生産、大量消費時代を経て、我々は私的所有を既に十分に享受してきた。現在ではリサイクル、リノベーションなど、時間を隔てて他者と物質を共有することに、経済効率だけでなく、コミュニケーション創出の機会が求められている。[2] またSNSなどの相互メディアは個別な情報発信が可能なだけでなく、刻々流れるタイムラインに他者の文脈が介入してくる。主体と客体の相対的なものとなり、絶え間ない他者の作用によって、今日の主体は編集されていくように思われる。システムを脱構築し世界を対象化したとしても、見出されるのは、構造の一部としてそこに取り込まれた主体であり、ポスト構造主義の枠の外へ向かった、ずらしや差異などの実践(プラクシス)は、一旦システムとして反復されると、もう一つの別の構造を生み出していく。インターネットの情報アーカイブは、ひとりの生身の身体が知覚し処理する範囲を、大きく凌駕する集積を人間の外部にもたらした。[3] それによって、我々の日々の選択は、検索システムによって背後から統御されていくような様相を呈するに至るのかもしれない。いわば、ヴァーチャルとリアルが反転したかのように。検索システムが拾い出す、01の二進法による物理的な繋がりは強固で、自身の日常の行動を決定付ける出会いはむしろ習慣化されていく。移動や旅によって出会うのは、不透明さに満ちていて、不測の事態が含まれ、確実な何事も約束されない、むしろ「弱いつながり」[4]だ。

かつて琉球王国は「万国津梁」の鐘の銘に刻まれた如く、最盛期には東南アジアのマラッカ、アユタヤ朝タイ、そして朝鮮半島に及ぶ版図を誇っていた。彼らの海外進出は政治拡大の為でなく交易の為であった。明の海禁政策によって、中国大陸の商人の活動が抑圧されると、琉球王国は明との冊封体制下の優遇措置を十分に活用した。応仁の乱以後戦国動乱に入った日本列島と中国大陸の交通の断絶に乗じて、国家主体の中継ぎ貿易を展開する。いわば、地域間のネットワークが阻害されている状況において、諸国の特産物の需要に応じ文字通り橋渡しをしたのである。[5] しかしながら、明の弱体化、ポルトガル商人が台頭すると交易上の有利性は徐々に消え去り、17世紀島津氏に侵攻された後は、清と薩摩藩の二重朝貢状態を保ちつつも独立を維持し続けた。関係性を架け替え、大国間の権力の推移の間の均衡を縫った交易は、弱い主権国家の生き延び方である。今日再び、アジア諸国の経済成長と勢力拡大に伴い、中国、台湾、韓国からの旅行者は著しい増加を辿っている。また本州各地方とだけでなく、海を隔てた近隣諸国と直接行き来できる交通、通信手段が増えたことで地理的な不利益は解消されつつあるが、それが、独自の主権の回復を意味することなのか、また新たな強大な極に絡めとられてしまうことになるのか、わからない。

 ここに挙げた作家は、誰かが使用したもの、別の目的で用いられる既製品などを再利用することで、それ以前の時間軸で起こった他者の行為や出来事を、視点を変えて見つめ直している。作家自らが媒体となり、客体を束ね相互作用し合いながら、それを新たな系の中に設定し直すのだ。分断された主体は、自律的に地域の中にある客体性の断片を見出す行為者(agency)となる。滞在制作スペースは、那覇市泊地区のフェリー乗り場に近い住宅街の一角にある。観光中心地から離れた、閑静でありながらやや猥雑さも混じる場所だ。作家の移動と共に、サイトとノンサイトの違いは限りなく無くなり、複数で相対的な場所となる。日常性に由来する文物が、泊地区の日常と同化しない為には、別枠のフレームを必要とした。収集すること、共働すること、提示することのいずれかが社会と関わる行為ならば、社会との段差がどこかで必要なのだ。地域は作家にどのような思考をもたらすのだろうか。そして作家の活動は地域に何をもたらすのだろうか。

[1]レア・ビショップ/星野太訳「敵対性と関係性の美学」『表象052011年 p.89
[2]三浦展『これからの日本のために「シェア」の話をしよう』2011
[3]小林康夫・大澤真幸『[1] ク「知の技法」入門』2014p.118
[4] 東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』2014
[5] 高良倉吉『アジアの中の琉球王国』1998年p.158

~中略~

  青野文昭は、地域から収拾した文物をなおし、接合する行為を通じて、イメージと物質の多種多様な関係付けを追求してきた。また、実際のプロセスは殆ど一人で行われるのにも関わらず、かつてそれが生産され使用された文脈から、見知らぬ他者の営みと向き合い、その行為と交環するのである。高山登に師事した後、仙台を活動の拠点とし続けたことは、彼の立ち位置を独自のものにした。80年代のポストもの派の個別の世界に収斂される制作観、あるいは90年代のシュミラークルのイメージの無記号性を回避してきた。

絵画科出身の彼の修復の手法は、科学分析により過去遺物の時間的な統合を取り戻すことよりも、表層のイメージと基底面の物質とのずれを、色面分割により構成し直すことにあるように思われる。名もない製造者が設計した日用品のデザインを再現することは、彼自身がその制作意図に対して憑依するような役割を一種果たしているのかもしれない。従ってものの声を聴き、その痕跡を読み取り、あるべき姿に添いながら、線や模様の反復、増殖を延長することにより、全く別の造形物として生まれ変わらせるのだ。一貫して彼の興味を引くのは、大量生産された工業製品の欠片であり、またそれが使用された痕跡、風化された痕跡である。物質に介在した複数の他者のレイヤーと呼応しながら手を加え、それぞれの時間軸の異なる均衡で、それを新たな関係づけに置いてきた。合体、連置、侵入、乗っ取り、もの同士の関係はそのままタイトルに反映されるが、初期の作品は、キュビズムやミニマリズム的な還元主義によって、日用品の形態的な純粋さを復元し、摩耗した部分と対比させたことが特徴のように見受けられる。

作家は仙台生まれ、3.11の東北大震災の体験は、彼の内的な表現動機にも影響を与えることになった。それ以前から続けていた日常の移動範囲で収拾できる文物が、建築内装の断片やあり得ない位ひしゃげた看板になったのだ。作品は、以前の形態的な統一性を保持するものから、散開、集積されて大規模に組織化、展開するようになったように思われる。また、そこには、一面に瓦礫が積み重なった震災後の原風景の影響も忍ばれるのかもしれない。日用品の機能だけでなく、形態をも大幅に捻じ曲げた自然の驚異には驚かされるが、いちど材料が可塑的な状態になったことにより、もとの用途からの飛躍と創造の余地を作家に与えることになったと思われる。それ以後より自律的な造形として形態の反復を生むことになる。

本展の作品は、南城市で拾った車の欠片と、港川漁港から譲り受けた廃船のスクラップ破片を中心に、収集した段ボール箱と合体・再生させたものである。それは、震災の暴力的なエネルギーによって変形された破片とは異なる、人為と自然の穏やかな循環のなかで、風化が重ねられた欠片である。そして、360度連続した視点を保ちながら、彫刻とも建築とも、絵画ともつかない、ユニットが集積された自立的な塊として立ち上げた。彼の作品が人造的なフェイクやアプロプリエーションと一線を画しているのは、作品の表面の、人の手垢のついた、あるいは自然の作用に晒された時間の重なりである。また接合する面に、人の手の痕跡がわかるような介入を施すことにより、風化と介入が等価になる均衡で止まる。複製的な工業生産物に、唯一個別の出会いと経緯が生み出した手触りを加えるのである。使用する色彩も、原色中心の還元的な筆致により、絵の具の物質感が残され、基底面から複数の層として立ち上がっていく。

今回、作家は初の試みとして段ボールを使用した。機械的な経路で流通するこのニュートラルな素材は、時間の堆積が希薄で、また側面のロゴや文字は、様々な農産地、グローバル企業の様々な工場からこの地に集結したに過ぎないということを知らせてくれる。各々の段ボールは強固に固定されているのだが、全体として、この構造物の仮設的な性格は、泊のこのスペースの有限性に対する必然的な応答でもあるのかもしれない。

定住する場所から入手可能な収拾物をなおす性格上、作品はその場所のものの使われ方、廃棄の状態など人の社会生活の営みの様相を反映する。また、滞在制作は、普段使い慣れた日常の諸関係から離脱し、一時的に異なる場所で新たな関係に身を置くことと同義だ。作家と同様に、他所から他所へ流れてきたこれらの収拾物も、作家とただひとつの出会いがあり、作家に媒介されて、様々な隣接関係に置かれる。作品は、「なおす」可逆的な時間を前後に辿りながら、段ボール箱と集積構造体、そしてこのスペースそのものと三重の位相の修復と再生を繰り返し、この場所ごと仮設のネットワークに今ひとたび留まっている。

~中略~

  移動によって断片化された主体は、地域が差し出す新たな構造の一端に出会う。作品は、いわばそれが由来するころの記憶や時間を抱き込んだ、ひとつの系であり総体だ。弱い主体と、弱いつながりは、内部に無数の他者が混ざり合いながら宙吊り状態に留まっている。と同時に地域居住者にとっても、お馴染みの道具が用途から切り離され、近郊のある場所がエアーポケットのような異物に変容する。それは、互いに反転する主体と構造の、時間の接合部分なのだ。共有箇所は、意図的、あるいは偶発的に選ばれるもので、もう一方では、選択された接点以外は無―関係の状態にある。「モダンでハードな主体性」からも、「ソフトなポストモダンの管理」からも逃れた先には、「関係よりも無関係、接続よりも切断」[11]の方が重要になるという。

作家、美術家に唯一の価値(パロディやアプロプリエ―ションを含め)がまだ、求められるのなら、すなわち自立的な思考主体としての存在を求めているのなら、それはある関係性の切断の上に成り立つだろう。歴史の進歩は終わっても、様式の進化は終わっても、作家個人の様式は前後のある程度の同一的な法則を保ち、形態上の連関ではない、因果律の連関を持つのではないか。それは、外部との体験から構築規則が導かれ、想像力でもって過去の自分自身から展開し自身を超越する。[12] 集団で共有されうる時代の様式とは別の、個人個人に収斂される、手癖や流儀(style[13]みたいなものかもしれない。ロマン主義的なビルドゥングス・ロマンではないならば、ダーウィンの進化論のように、環境に適合するように種は変化を遂げていくというものかもしれない。

それはまた島のように隔絶された状況かもしれない。グローバル資本が網の目のようなネットワークで個人を繋ぎ、加速する速度であるシステムが生まれ破綻し、情報が放たれ消費されていく今日、その一部でありつつ、オルタナティブな架け替えは可能であろう。

隣りあわせの時間では、他者とどのような関係性を保ち、他者の作用をどう受け入れ、過去の体験と共に編集していくか、個人の主体の生成変化の過程に帰する。その選択は、今ここの享受でもなく目先の政治性でもない、未来に向かって投げ出された生存に対し、想像力を駆使して選択した諸関係の中の、一番適切な手応えなのだ。

[11] 千葉雅也『動きすぎてはいけない:ドゥルーズと生成変化の哲学』2013
[12] ジル・ドゥルーズ『経験論と主体性―ヒュームにおける人間存在の試論』2000p.211
[13] マイヤー・シャピロ/エルンスト・ゴンブリッチ『様式』1997p.65

 



*「隣り合わせの時間―Time Sharing」(OCAC企画)では、4人の作家―黃沛瀅(ファン・ペイ・イェン)(台湾)、下道基行(日本)、青野文昭(日本)、クォン・オサン(韓国)がそれぞれ連続して個展を開催した。本文はその記録集に掲載されたもののうち、冒頭部と後半部および青野文昭部分のみ抜粋したものである。