鳥居、社

 「二重性の表現」という視点は、例えば「鳥居」という造形を考える上でも有効である。
森の入り口に立つ鳥居は、私にとって長い間驚異であり続けている。鳥居は結界としての、神の領域ヘの門のようなものであるが、それ自体は、基本的にただの棒の組み合わせにすぎない。それでいて自然の森に手をつけることなく、森全体を深遠で謎めいた空間に変質させてしまう。自然のままの森と共振しつつ、森に関する人間的体験にうらずけられたある種の表象世界へ、森自体を強烈に引き込みつつ、しかもそれがより森らしくあるという一つの表現を、造り出す装置として機能している。ここでも「外部」(自然の多義性)を損なうことなく保管し、「内部」(鳥居という人工物)との二重性の「同時重層的」な一つの表現の在り方を見ることができる。

 鳥居に象徴されるこのような自然と人工との二重性の表現は、神社建築全体にも当てはまる。社の中身がだいたいの場合、閑散としており中空に近いのも、ひとの眼や手で捉えきれない「外部」と通じ合っていることの、一つの表現として捉えるべきなのである。いわば、社は一つの空洞を持った器のようなもので、周囲の森や山などと、この器の空洞が響きあっているのである。流動的な神の無定形な広がりを、なにか別な像にしたてるのではなく
「神の家」という器の中に凝縮させるといったもので、あくまで物質はもちいるけれども、それは物質を超えたものを招き入れるために用いられているのだということが解る。このような神社における特徴は、造形性の消極性、貧しさと捉えるべきものではなく、「二重性」の造形特有の、洗練された展開と考えるべきものである。だから鳥居や社だけを鎮守の森から切り離して、建築物、造形物として捉えるのは根本的に間違っていることが解る。「二重性」の文化では、あくまで「外部」との交流がテーマなのである。そしてその建築の二重性は、今日的な「自然との共存」、「自然をいかした」、「自然に優しい」といった、自然利用、妥協的強調というものではなく、自然自身も自然自体として、より深く「表出」されてくるものなのである。    (2001年