巨大ロボと兵器 2001年
ここで少し脇道に入り、この二重性の文化のありようが、現代にもはっきりと生きている例として、大衆文化−テレビアニメのある系譜に関して少し見ていきたい。
日本のテレビアニメの中には「巨大ロボ」と言ったような系譜がある。鉄人28号からいれてもいいが、いちおうマジンガーZ、ゲッターロボ、コンバトラーV、ガンダム、近年ヒットしたエバンゲリオン等々これは脈々と続く系譜である。
ここで問題にしたいのは、そこにつねにあらわれる巨大ロボ−「大いなる力」とそれをあやつる操縦士−「矮小な人間存在」のくり返される葛藤である。 結論から言えば、巨大ロボ(大いなる力)とは「外部」であり、あやつる人間とは「内部」である。あやつる人間の所属する共同体−地球は、「外部」の巨大ロボの力がなければ生存できない。いかにこの力(外部)と上手に結合できるか。
マジンガ−Zは、パイルダーというまわりくどいヘリコプターのような操縦席が、マジンガーの頭部にうまくドッキングしないと動かない。初期の段階では「パイルダーオン」は大変難儀なことだった。これは人形に、霊が憑依し魂を宿し動きだすのに等しい。悪い霊がのりうつるとその人形は悪魔の手先となる。敵のドクターヘルにコントロールされる機械獣軍団がまさにそうなのだ。操縦を誤ると、マジンガーといえども町を壊し人を踏みつぶしてしまう諸刃の刃なのだ(このような点は例えば、人類の最終兵器である核の使用などの問題とつなげられることが多かった)。
ゲッターロボやコンバトラーVは合体もので、3人ないし5人の操縦士が心をひとつにしないと合体できない。合体できないと「巨大ロボ」になれないので力は発揮されない。ここではしばしば、合体がひとつの儀式であるかのように描かれていて、厳粛に各々の心を合わせなければならないのだ。巨大ロボの「現出」とは、神が降臨するようなものなのであり、子供心に私も手に汗を滲ませてみていた。
ところがガンダムの場合、その下敷きになっている話が海外ものということもあり、また原作者が意識的に「巨大ロボ」の文脈から、それをづらそうとしたために異なる様相を示している。まず「モビルスーツ」という設定からして、それはすでに巨大ロボではないし、しかも量産されうる(実際はされていない)ものであることから、それはひとつの「兵器」という意味合いが強くなっている。しかもガンダムの「力」というよりも、最終的には操縦士のアムロがニュータイプだったという超人的な力に、その強さの根拠がいくのである。これはむしろスーパーマンなどの海外のヒーローのそれに近いのである。普段は普通の人を演じているのだが、じつは特殊な力を持っていて、元来が特殊な存在−両義的存在なのである。それは巨大ロボ(外部)と操縦士(内部)の各々が自立した、一時的な「二重性」による結合ではない。つまり「シャーマン」ではなく「イエス・キリスト」タイプなのだということである。
ところで、この二重性の葛藤をもっとも強調したのがエバンゲリオンではないだろうか。その意味でエバはガンダムより日本的、巨大ロボの文脈の伝統に忠実であると言える。操縦士のしんじは最後の最後まで操縦をいやがり、エバ(外部)と安定した調和ある関係をつくり出せないという設定になっている。そもそもエバンゲリオンという存在が、ロボットなのかなんなのか最後までわかりにくく、つまるところ意志を秘めた生き物のようなものであり、神秘的な波長でしんじ以外の人間を寄せつけない。動いている時は、しんじの神経とエバのそれはつながっており、一心同体に融合している。時にエバに取り込まれ分離できなくなることもあり、まさにシャーマンと精霊のやり取りのようでもある。
ところでこのような「巨大ロボ」(?)−「外部の力」の「由来」に関しても、あるひとつの共通性を見い出すことができる。それは、それを造り出した人物がかならずすでに死んでいたり、行方不明であったり、気狂いになっていたり、心を通わすことのできない変人だったりするところである。「巨大ロボ」とは、人間のはかりしれない「力」を持つものであるのに、それを人間自身で造り出したものであるというのは、我々日本人にとってちょっと矛盾し、かつそこに超越性、神秘は生まれてこない。そこには出生の秘密、伝説が必要になるのである。それゆえにそれの生みの親はかならずといっていいほど、不在感ただよう遠い存在なのでなければならない。「外部」の「力」は「外部」からもたらされる。というよりも超絶する「力」は「外部」からのみもたらされる。それが自然信仰的体質の道理なのである。 ストーリー上実際にでてくるのは、創業者(伝説の生みの親)の意志を受け継ぐ、凡庸な博士(例えばマジンガーの弓博士など)であり、そこで彼が、伝説と現実を仲介する役割を果たすのだが、彼のできることは限られていて、その「ロボット」のメンテナンスとせいぜい改造ぐらいのものだ。
それはちょうど外部から日本にもたらされた仏像や近代文明の「力」をいかに操縦するかといった葛藤と重なってくるのではあり、そこで日本人ができたことといえば、弓博士と同じように模倣とメンテナンスと改良ぐらいのものだったという点もそっくりなのである。これは皮肉でもなんでもなく「力」というものに対する日本人の根源的なリアリティを浮き彫りにしている問題でもある。