出会う
60年代末、李禹煥は、西洋流の「つくる」ことに対して、その模倣や否定に終始するのではなく、別な造形表現の在り方を指し示そうとし「出会う」という在り方を主張した。これはやはり画期的なことだったというほかなく、ここで今までの文脈からそのことを少し考えてみたい。
千葉成夫は『現代美術逸脱史』で、李をはじめとする「もの派」を無理矢理自分の立てた文脈(ポイエーシスの崩壊−喪失の自覚とプラークシスの展開)に当てはめようとやっきとなって批判(菅木志雄のみは評価しているが)しながらも、しかし次のように評価せざるをえなかった。「この創造の否定、すなわち近代西欧美術総体の否定は、李禹煥自身の意図を超えて、日本における百年にわたる美術上の近代思想および欧化思想(欧米追従主義)にたいして、はじめて冷水をあびせかけ、根底的な批判をたたきつけるものとなったと言えるのではないだろうか」。
千葉はこのように否定の衝撃力として李やもの派を評価する一方、例えば李の「表象作業の否定」を「創造そのものの否定」としてとらえ、それなのにその上で李は「芸術論を展開しようとしている」として批判している。しかし今までの本論の文脈で解るように、「表象作業の否定」がそく人類一般の創造自体の否定につながるわけではないのである。李が展開しようとした「芸術論」が、当然のごとく西洋流の芸術論ではなかったのであり、千葉はやはり根底的な次元で、東洋や日本の固有な文脈を理解していなかったとしかいいようがない。衰退期の古代ギリシャにおけるアリストテレスのポイエーシス概念の聖化は、けっしてグローバルスタンダードではないのである。千葉は次のように述べる。「あるがままの世界の肯定は、完全に無差別なところまで徹底されなければ、ひとつの論理たりえず、神秘主義か現状肯定論しか生まれない」。
しかし、人間存在が「外部」自然とどこまでも二重的に在り続けるという在り方こそが、これまで観てきた日本固有の文脈だったのである。したがって李の「あるがままの世界」ヘの希求も、「あるがままでない」近代という「現実」があって、この二つの世界のコンタクト回路をつくるということであって、全て無に、「あるがままの世界」にしてしまおうというものではない。正直いってこのようなことを「神秘主義」と否定するものは、いかに李の実作の多くがよく解らないものであったとしても、明治以前の東洋、日本の在来の表現をいったいどのように理解しようとするのだろうか。
このように千葉は李の「あるがままの世界」を否定し、「あるがまま」を排除し、それを「世界とのかかわり」となおし、次のように自分の文脈にねじ込み、プラークシスの展開に連結してしまう。「もの派は『具体』から『もの派』にいたる世界とのかかわりとしての美術という一本の幹を、実体としてあきらかにした」。
李が主張した「あるがままの世界」とは、おそらくいわゆる「外部」のことであって、千葉の言う「外界」とか「世界」では決してないのである。人間化されていない次元としての「外部」が「去勢」され、「世界とのかかわりとしての美術」と読み替えられることにより、そのスケールは矮小化され、絵画や彫刻というジャンルは逸脱するにせよ、今までの「美術」の枠内におさまってしまうことになる(実際、もの派以後流行してきた木、土、石などのいわゆる「素材感を生かした」作品群との本質的差が見えなくなってしまう)。このようなことが本当に「固有の文脈」の真価を見い出すものだったとは思えず、むしろ逆に素朴に見ると、その芽を摘み取るようなものだったのではないかと思わざるをえない。このように、李や「もの派」のなげかけた西洋流の造形の否定は、本来の固有の文脈の自覚をうながすことなく、神秘主義、非歴史主義と否定的に矮小化されながら、ほんの一握りの作家を除き不発に終ってしまったように思える。
ところで今まで述べたように「二重性」の文化では、あくまで「外部」を「内部化」(人為化)することなく、「外部」といかに関係を構築するかという文脈を最も大切にしてきたわけである。だから李の「あるがままの世界」と「出会う」という設定は、そのような伝統的な二重性の在り方に、ある意味で立脚したものであったと言えよう。李自身も以下のように民俗文化との関係について述べている。「その昔人は、家の門の両脇に塩をおいたり、大木に太いなわを巻き付ける仕草々において、出合いをもよおす構造を示した。すでに擬制のオブジェと化した構造性を失っているマジナイとはいえ、今でもそのような場所を通るとなにか奇妙な感じを引き起こす」(『出合いを求めて』美術手帳、1970、2)。しかし正直いって、このようなダイレクトな形で「あるがままの世界」に「出会う」ための「仕草」として、しめ縄などの民俗文化を捉えるのは、少々奇異に感じざるをえない。私はこの点10年以上も考えてきているのだが未だにはっきりとしていない。
しめ縄の巻かれた大木との出合いを、ホコリをはらった言葉やイメージの無い「あるがままの世界」として捉えるよりも、以下の遠藤利克の水との出合いに関する言葉が、より実際に合っているように今は思う。「水はやがて多くの言葉を発しはじめ、その透明な相貌の背後から、怪しい信号を送ってきた。それは長い人類の歴史の中で水が意味づけられてきた言葉の総称であった。水は容器の中の液体としての水ではなく、大地の真相から尽きることなく湧きでる言葉の束だった」(『円環−加速する空洞展』カタログ)。
言葉のとどかない向こうに広がる「外部」は、同時に自分自身、世界の存在や言葉、意味の生まれでてくる源泉でもあるのである。「外部」は日常的な言葉の世界を御破算にすると同時に、始源的な言葉を生成させるのである。人々は、古来から、日常的な言葉の世界にポッカリと穴をあけ、「外部」と交わろうとしたり、逆に「外部」との絆として言葉、意味をえようとしてきたのではないだろうか。そうしてこの二つの方向は、時にひとつの体験として表裏をなし重なりあうものなのだ(本来の「祭り」はその典型的なものであろう)。木のしめ縄はそれゆえ、李の言うような「仕草」に終るものではなく、「磨崖仏」のように自然「外部」と「内部」が結び(木としめ縄が一つになる)相互にひき立てあう、二重性の同時重層的表現のひとつであるといえるのではないか。