藁人形
小学校のころよくわからないものが突然インフルエンザの様にはやり出したものだ。
不幸の手紙とか口裂け女とかトイレの花子さんとか、、、いわゆる後年「都市伝説」と呼ばれることになるものであろうか。当時自分がもっとも真に受けて震えあがったものに「かしまれいこ」というのがある。このはなしを聞いたらかならずその日の夜に「かしまれいこ」が家に現れ襲ってくるというもので、それを封じるには、枕の下にハサミを隠し、「かは火事の火、しは死ぬの死、まは魔女の魔、れいは幽霊の霊、こは事故の故」と唱えるしかないとされた。急にその恐ろしいはなしが学校で蔓延し、暗い気持ちで帰宅した自分は、大きな裁ちばさみを用意し、家中のカギを締め、弟を言い含めて二人寝の体制をとった。そうしてまんじりともできない夜を過ごしていくうちに、そういえば「かしまれいこ・火死魔霊故」は同じ夜に一度に十数件の家(その日の学校でこの話を聞いた人間は少なくともそれくらいいたので)にどうやって現れ得るのだろうかと思うに至り、その疑いが希望に変わっていくうちにいつの間にか朝になっていた。
いったいこの「かしまれいこ」というのは何なのだろう?未だにわからない。特に「れいこ」はわかるとして、なんで「かしま」なのだろうか?いまだに「かしま」という響きは、自分にとって不吉な響きを発し続けている。
ところで、秋田から岩手、青森にかけて大きな藁人形を村境に作り置く風習がある。とくに秋田地方ではそれを「カシマサマ」と呼ぶらしい。このカシマは「鹿島」のことであり、常陸の国に起源する鹿島神宮・鹿島神に由来すると言われている。鹿島神社は東国最古の神社であり、戦いと雷の神であるタケミカズチノオオカミを祭っている。大和朝廷の東征に関係が深く、当時の蝦夷との最前線地域に配されている。また中臣−藤原家の守護神として奈良の春日大社のルーツともなる。鹿島神社は東北にも多く、自分の住む宮城県には大変多い。だが宮城県には「カシマ様」とよばれるこのような大きな藁人形の風習は現在ない。なぜ秋田(あるいは青森の一部)地方にだけそれがあり、「カシマ様」と呼ばれるのかまだはっきりしていないようだ。一説には江戸期に秋田へ移転して入ってきた常陸の佐竹家の影響だというものもあるが、それ以前にさかのぼる風習ではないかと推測されている。いずれにせよ関東武士団に攻め込まれ侵略されてきた東北地方にとって、関東の神である鹿島神は恐ろしいもののしるしとして刻印され今日に至っているのではないかという。あるいは関東からの入植者がつれてきた神とも言え、その様な場合入植者を守る神として猛々しい威を外に張っているのではないだろうか(「秋田城」は古代以来蝦夷との軍事境界線に位置している)。今日では「かしま」は鹿島アントラーズ等のカシマとしてなじみがあるが、東北にとっては、律令制―仏教、源氏―八幡神社、日本武尊―白鳥神社と同様にアンビバレントな存在なのだろう。特にこの「カシマ様」は他の征服者の神にくらべると、異形の泥臭い野趣に富んでいるのはなぜだろう。
自分が感じるに、おそらく冒頭の「かしまれいこ」の「かしま」もこの「カシマ様」に通じており、「鹿島神」に発しているに違いない。東北にとっての「鹿島」は、「かは火事の火、しは死ぬの死、まは魔女の魔」として不吉で戦慄をともなう存在なのであり、そうした遠い祖先の記憶が自分の細胞に刻まれ伝えられてきているのかもしれないと思うとちょっと面白い(事実この「かしまれいこ」伝説は記録によれば北海道、東北、北陸を中心として分布している)。
さて前置きがながくなったが、昨年夏、思い立って秋田方面へこの「鹿島様」を見に行くことにした。インターネットで調べるとやはりその道のマニアがいて、精細に鹿島様についての情報を提供している(「秋田人形道祖神」―鹿島様―参照」。現在でも村々に数多くの「鹿島様」が存在しており、それぞれ大きさや形態、趣が異なっており大変興味深い。これらの形態がどのような系統分布になっているのか?どのような影響関係にあるものなのか?縄文時代の土偶の様式分布の差異を観る様で、さらに興味は尽きない。
今回ははじめての訪問ということで、とりあえず国道近辺の大きくて有名なものを中心に目星をつけて出発した。なにしろ暑くて、細い田舎道に分け入るので、相当手間取り、同行させられている家族の不評もプレッシャーに予定の半分ほどしか確認できなかった。特に最近の市町村合併のため、従来の地名が消えていたり、もとからの村境の境界が境界じゃなくなっていたりで、余計手間取ることになった。それにしてもやっと探し当て、突如起立する大きな藁人形の風景は、なんとも現代離れしており魅惑的なものだった。まるで江戸期の菅原真澄ののこした秋田の風俗画を彷彿とさせ、タイムスリップしたような感覚におそわれる。
秋田にくるのははじめてで、今まであまり良い印象はなかった。秋田の印象としては、カマクラ、小野小町、小京都と呼ばれる角館、、、、どれもこれも京都の雅を田舎くさく模倣したイメージがあり、一方「なまはげ」等ではその劣化がはげしく観光化されているというもの(50年以上前に既に岡本太郎がほぼ同様の印象を記している)。
しかし、国道から脇道に入り、かつての村境に配置されているはずの「鹿島様」を探しながら、部落内奥深潜入しうろうろしてみるとずいぶん様子が異なってくる。
自分の目の前を、汚いリヤカーを引く百姓がのろのろ通り過ぎた刹那、周囲の景ががらりと変わった様に思えたから不思議である。暑い昼の日差し、深い黒々とした青空、濃厚な緑と土のむせかえる匂い。蝉の鳴き声以外何も聞こえない。なんとも泥臭い原始的な趣。山形とも岩手とも違った、「あぎた」という空気が立ち込め「ハッ」となる。にせものの京風の雅の装いや観光目当ての資本主義的体裁を外れた瞬間に突如垣間見える深層風景。そもそも「あぎた・あきた」とは東北ゆかりの由緒ある名前である。ある意味で佐竹や芦名などの文化と融合することなく、深層では分裂したまま、その原始性を今日に脈々と伝えていると推測したとしてもあながち過ちではあるまい。
この「鹿島様」は、一年ごと決まった時期につくられ儀式的に焼かれたり捨てられたりし、再び新しくつくりなおされるものらしい。いわゆる「虫送り」の行事などで災いを乗り移らせて河や村境に捨てたりするものと同類ということになろう。ただとにかくこの「鹿島様」は大きなもので、量感も相当あり、独特な進化を遂げているといえる。基本的には全て藁でつくられており(顔のみ木製というタイプも多い)、パーツパーツで編み込み方が異なり、網目のうねるリズムも見ものである。造形的にみてもすぐれており、ヴァリエーションも豊富で(というか一つとして同じものは無い)、藁細工ならでわの固有な形状を生み出している。最初の方の写真のものは特に評判が高く捨てずに特別に残されているもので、ようやく造形文化遺産としての認識が芽生えつつある。仏像や仏教からもたらされた神像の類いとは異なり、失われた仏教以前のイメージ・畏怖すべき「神」に対するイメージが垣間見える様で大変貴重だと思われる。
魔よけとして、村境等に配置されるわけだが、考えてみれば通常「境の神」は石でできたものが多く、また2対ワンセットのものが多いので、道祖神、境の神のような系譜とは異なっている。むしろ毎年結界として張り替えられる「注連縄」や儀式的につくり焼かれる虫送りの山車、ヒトガタにルーツがあるだろう。この「鹿島様」・藁人形―依りしろ人形(ヒトガタ)の雄大さは、隣県の青森で盛んな「ねぶた」のスケールと双璧をなしている。両者の原点は、ひとつに「虫送り」的な土着の風習にあり、それぞれの地域での異なる発展の結果、片方は日本有数の祭りとしてますます興隆し、片方は人目につかない村の片隅でひっそりとその命脈を保っているのはとても対照的で感慨深い。
ところで今回「鹿島様」を見に回る過程で、あわよくばなにかそういうものにちなんだ藁人形ないし藁細工が欲しいと思っていた。
藁細工はこれまでもいろいろと収集してきていた。丸森の役場やさいり屋敷で正月飾りや宝船、岩手で馬、山形で鶴亀の飾り、、、中でも気に入っているのは岩手盛岡で購入した藁人形(イラスト参照)。顔が紙に描いてあり、それが藁人形に張られている。まるで縄文の「仮面の土偶」の様ではないか!描かれた顔の背後に何かもう一ついいしれない何ものかがいるようなそんな気にさせてくれる。
「鹿島様」にちなんだ藁細工は、当然のことながら見つかるはずもなく、もちろん未だ名物品として土産物の様にそれにちなんだものが販売されているわけではない(そこがまた良いのだが)。
秋田方面の「鹿島様」を物色したのち、岩手側に抜ける。途中にもいろいろと藁人形があり、特に湯田には日本最大の藁人形が国道沿いに立っているというので寄ってみた。たしかに大きな藁人形が立っているが、秋田の鹿島様とはやや趣を変え、ドライブインの看板のようでやや間抜けている。そこにある店に入ると沢山の小型化した藁人形がぶら下がっているのを目にする。なんのことはない、むかし自分が盛岡で購入した藁人形そのものであった。自分が気に入っていた藁人形の親玉はこの湯田にあった事に今更ながら気がつくことになる。この地でレアな「土産物」としてつくられ盛岡の工芸店に置かれていたのであろう。これはこれで良いのだが、これまで見てきた秋田の鹿島様とやはり異なっていて、人形としてのまとまり感が強い。今後秋田のそれぞれの市町村が、それぞれ固有のスタイルを持った鹿島様藁人形を売り出してくれればいいのだが。我が国の、あるいは東北の人形造形言語を飛躍的に豊かにしてくれるに違いない。まあそういう気配すらないところが良いわけなのだけれども。
ところで湯田と言えば大好きな「丑蔵こけし」。以前からどういうところか見ておきたかった。宮城県遠刈田出身の佐藤丑蔵が湯田時代に手がけてこけしは、際立って異彩を放ち「フランケンシュタイン」とも呼ばれてきた(数本のみ現存する)。この異形進化は、湯田の独特な風俗、例えばこの地で数多くつくられてきた山神などの神像の造形と関連しているのではないかとも言われてきた。ある種特異な地域といえるかもしれない。この地も今では西和賀町となっており、湯田という地名は消えかかっている。まったくのところ市町村合併ていうのは考えもんだ。それに加えて最近の景気対策で休日を土日に連続させる政策もいかがなものか。聖なる特別な日を経済的理由でづらしてしまうなんて、、(国会議員やメディアがほとんど反対しないとは人心の荒廃極まれりである)。今日の時空間は目先の実利で大きく狂わされてしまっている。境界のしきりを守護する鹿島様はさぞかし怒っているだろう。
青森・ねぶた
白神山地
一昨年夏、子供を妻の実家の宮古に預けることになり、せっかくなので青森をまわっていこうということになった。
青森は見どころの多い県である。学生のころから下北半島、恐山、仏ヶ浦、津軽の金木町、川倉地蔵堂など一人でまわっていた。それ以来ぜんぜんごぶさたなので、予定をつくる段階で久しぶりに興奮し、長大なプランになってしまう。とにかくその折は、まだ行ったことのない世界遺産・白神山地を中心に考えてみた。ただ一口に白神山地といってもものすごく広く、車で入れるところは限られており、どこに行ったら白神山地的なるものを体験できて、白神山地に行ったことになるのか考えものだ。結局家族もいるので、青森側から入る定石にのっとりアクアグリーンビレッジを起点に、数時間「暗門の滝」遊歩道を歩くにとどまらざるをえない。ここの駐車場はさすが世界遺産という感じでさながら遊園地のようなにぎわい。遊歩道もかなりごっつく作成され整備されていて、あきらかに景観を壊している。お年寄りや子供の観光客が多いので、通常の登山路や自然散策経路以上のものものしさになってしまっている。周囲の森、山、川はたしかに大きなスケールを感じやはり少しちがうなという印象ではあるが、なにか象徴的な山(例えば冨士山のような)とか岩があるわけでもなく(あるとしても短時間で見れる場所にはない)、結局暗門の滝が目的物化されることになる。せめてその暗門の滝まではということで数時間歩き滝の前で記念写真を撮り、引き返して終了。「白神山地に行ってきたよ」となる。正直これだけではよくわからない。自分の住んでいる山形、宮城県境の奥新川散策の方がずうと感動的である。しかしこれは誰のせいでもない。
温湯温泉
この年宿泊したのは、黒石市近郊の温湯温泉にある土岐客舎である。青森には今なおこの「客舎」という有難いしくみが生きている。共同浴場を中心に周囲を囲むように昔ながらの宿が建っており、宿泊客はチケットをもらって共同浴場を共有するしくみであり(宿内には基本的に温泉がない)、宿泊費は3000円ぐらいと大助かり。土岐客舎では最近新しい客は少ないようで、客は自分たちのみということもあり一番良い部屋があてがわれた。部屋に入るとスイカを用意してくれていたり、出かけるときにおばあさんがバナナをくれたり、子供になぜか1000円くれたりとなんとも現代ばなれした良い気持ちになる(もしかしたらうちが大変そうだから恵んでくれたのかもしれない)。土岐客舎の駐車場は数十メートル離れた場所にあり、ちょうどその隣の家が、あの有名なこけし工人・盛秀太郎の家だった(津軽系の象徴的存在だった工人)。現在では残念ながらその跡を継いだ御子息が休止中とのことだが、、。あの「盛秀・もりひで」も、毎日温湯温泉・鶴の湯に浸かっていたのだと思うと感慨深い。
大鰐温泉
弘前方面の大鰐温泉にも行ってみようとして出かけた。大鰐と言えば長谷川辰雄のこけしである。この顔はいかにも東北的で良い味を出し、自分の好きなこけしのひとつである。学生時代何も知らずに弘前で買った(長谷川辰雄の弟子筋のものだが)。だからといって現在ここで長谷川辰雄こけしが買えるわけではない。名物大鰐ラーメンを食べることにする。店のおじいさんが席にやってきてあいにくモヤシが切れているという。大鰐ラーメンはこの土地特有のモヤシが入らないと大鰐ラーメンとは言えないらしい。普通のモヤシならすぐそこで買ってこれるけどと言う。しょうがないのでモヤシ抜き大鰐ラーメンを食べる。先日テレビロケで氷川清が来ていろいろ特徴を聞いてきたので、「シネーもやし」と言ったら「死ね」と思ったらしく大変興味を持たれたとか。「シネ―」はなんと形容してよいか難しいが「しんなり」した感じのもやしということであろうか。なにしろその特産のモヤシを食べられないのでわからない。帰りに折り紙でつくった小さな金魚ねぶたをもらう。仙台で言うと折り紙でつくらされた七夕飾りのようなものか。しかしひょっとするとお土産製品化されたものよりも、こういう物の方が、実際の生活に根をおろしている感じで大切に持ち帰る。帰路大鰐温泉共同浴場に入ると夜もふけてくる。すると道々の両側に蝋燭がともされ怪しい雰囲気に一変している。ちょうどお盆の送り火(迎い火?)の様だ。周囲は電飾などなく暗いのでとてもいい感じになっている。その後川沿いに向かうとなにやら騒々しい。ものすごい人々が集まってきており、坊さんの読経の中、灯篭流しがはじめられていた。自分達も灯篭を購入し流そうとするが、流さず持ち帰り、怪しまれる。青森というところは、ぜんぜん有名じゃないところにも、観光化されない本当の祭りや風習が生きていて素晴らしい。
黒石よされ
さらに、そのころちょうど黒石では「黒石よされ」が開催されている時期だった。国道の看板で気付き、それならということで夜見物してみることになった。有名な中心部・こみせ通りの屋根の下に陣取り、はてしない「よされ」踊りの行列を見ることができた。町内会や学校、クラブ、職場などの団体ごとで、それぞれ意匠を凝らし、いかにも伝統が自然に身についている風の、街になじんだ魅惑的な祭りだった。黒石市を歩くのもはじめてだし、このような町を挙げての本物の祭りに立合うのもほぼはじめてだったので、感動的な経験となる。仙台の大きな祭りは現在ではほぼ商店街、観光客中心の神無き祭りイベントとなっており、その形態そのものが歴史のリバイバル、ねつ造的な人工的(祭りを人工的というのも変だが)なものでしかない(唯一例外は旧正月の「どんと祭」だが)。自分が育った新興住宅地ではそもそも祭り自体がない。町内会の盆踊りでテープの曲が流れるぐらいだろうか。そういう環境も影響してか、祭りにあこがれつつも、自分自身が参加して熱狂するということは苦手である。というよりもおそらく絶対できない相談だろう(特に神無き、信心無き祭りではなおさらだ)。つねに見るだけなのだ。ここに自分の近代的分裂があるような気がしてやや自己嫌悪になる。とはいっても「武士は神輿なんかかつがないもんだ」というように、祭りに参加しない種族も昔からいたのだろう(自分は武士じゃないけれども)。ところで、その夜、街中を踊り歩く「よされ」の流れにまじっていた黒石ねぶたを目にし、その美しさに目が奪われた。既にねぶたはほんの数週間前に終了していた。「来年こそはねぶたを見に来よう」とこの時決意を固めた。適当な店に入って黒石名物の汁焼きそばを食する。思いのほかうまいのでまた驚く。窓からよされを眺めつつ汗をかきつつ焼きそばを食べ、黒石がしみてくる。
五所河原・立ちねぶた
そういう経緯をへて、いよいよ翌年(昨年2010年の暑い暑い夏)青森へねぶたを見に行くことにした。今までも何度も思い立ち、思い立った時は既に遅く、機会を逃し続けてきたねぶたへである。人に聞くとうまく予定を組めば、毎晩違った町の違ったねぶたが見れるとのこと。まるでバリ島のウブドで毎晩違った村々の踊りをはしごする感覚か?。さっそく青森市、弘前市、最近再生した五所川原市、あるいは黒石市などのねぶたをいかに効率よく見ることができるかスケジュールを立てる。がやがて自分の滞在日数では全て見るのが無理そうだと解かる。そもそも其々の町がどのくらい離れていて、祭り周辺がどの程度の込み具合でどのくらい見る所要時間が必要なのか見当がつかない。とりあえずは、昼間の観光の位置関係から、津軽・五所川原からまわることに。
金木町には午後2時ころ到着。金木駅隣接レストランでシジミラーメンというのを家族ですする。これがまたなぜかうまい。金木町というのは現在太宰治一色の感じ。考えてみれば太宰存命以前から「金木の殿様」として斜陽館の周囲に町の主な機関を配置していたというから、昔から津島家中心でまわっているのはかわらないのだろう。ひさしぶりにこの町に来て観て、道が曲がりくねっているので驚いた。何だろうこの町の空間感覚は?ところで、金木町の目的は津軽イタコのメッカ、川倉地蔵堂の祭りにいくことだった。学生時代、この祭りに来て夜金木町の駅で野宿したことがある。野宿の折怖かった見覚えのある火葬場を過ぎて3時過ぎころ到着。しかし祭りはほぼ終了し人がまばらに帰っていく。にぎわいは無いものの、おびただしい供物とともに名物の大地蔵群と再会する。いくつか見覚えのある懐かしい顔がある。お坊さんがたくさんいるので(しかしお参り客はほとんど帰ってしまっており)、写真を撮るのがはばかられ、祭壇奥のうしろの地蔵段の方へ行きぱしぱし写真を撮る。すると、変な女性がいて、「今あそこでなにか動いた」という。確かに妙な雰囲気がする。緊張が走る。すると掃除か何かの人が地蔵の間から出てきてがっくり。しかし後日この時の写真に変なものが写っていた(写真参照)。何も解からない家の子供たちは、この地蔵堂や、となりの独身で死んだ子供のために対で奉納されるちょっと怖い人形が配された御堂でも、はしゃぎまわり、供物のお菓子を手にとって食べ始めようとする。驚いてとめようと格闘していると、土地のおばさん達が来て、よく来たね―と、新しく新鮮な供物のお菓子と取り替えてくれる。他には何がいい?ということでアンパンマンのお菓子やジュースを山ほどいただいてしまう。功徳だから必ずいいことがあるよと、、。学生時代以来の、岡本太郎的神秘日本の恐るべき印象が、不意に薄らぎ肩の力が抜ける思い。霊場とはなにしろ懐が深いのである。
夕方五所川原の町へ向かう。良い感じで暗くなってくる。車を町の外側に止め、特別運行のバスに乗り込み、中心部へ。すでにねぶたが通る道筋の良い所はイスが出ていて確保されている。
始まりと同時に五所川原出身という吉幾三がオープンカーに乗って歌いながらやってくる。人形かと思ったら本物だった。良い感じに盛り上がったところで立ちねぶたが少しずつ「倉庫」から出立してくる。やはり予想通りの大きさで、鉄骨で骨が組んである様子。あまりの高さに、アーケードの屋根がじゃまになる。あたりが暗くなると、ねぶたの内側から発する光が効果を生み、神々しく美しい。逆に明るいうちに見ると、よほどいいつくり、描写じゃないかぎり、どこか間抜けて感じられるのも事実である。
その夜は昨年と同様温湯温泉土岐客舎へ宿泊。来る直前予約を入れるときに「やってない」と言われ驚いたのだが、昨年も宿泊したのがわかると「それならいいよ」と言われた。もう常連さんに一部しか貸していない感じだ。昨年と同じ広い部屋に通された。早く黒石方面へ戻れれば、弘前ねぶたにも行けるかなと思ったがやはりあまかった。人ごみの混雑と土地勘がないので、一晩に二カ所は無理だと判明。
青森ねぶた
翌日は暑過ぎてだらだらと土岐客舎の中で時間をつぶす。この夏は異常気象で35度を常に上回っていた。二階の部屋からのんびり外を眺めていると、通りを大きなねぶたがひとつやって来る。黒石型のねぶただろうか。太鼓をたたき大声を張り上げ温湯の小さな町を練り歩いているようだ。ちょうどねぶたの上にのっかて掛け声をかけている青年の高さに、我々のいる土岐客舎の2階の窓があり、すれちがいざまに、子供たちへ手を振ってくれる。実に良い街である。家にいながらにしてねぶたとあいたいすることができるのだから。
昼過ぎになっていよいよ青森市に出発。まず有名な三角形のアスパムをめざす。中は思いのほか味気ない。土産物の民芸品など何処にでも売られている良くないものばかり。青森には良いものがあるのだからもう少し頑張ってもらいたいものである。何処にいってもこういった中心部の公的ニュアンスの場所に入っている、売られている物品は良くないものだ。
夕方になり、ねぶたの順回路である中心部へ移動。沢山の警察官が道々に張り付いている。続々とねぶた独特の出で立ち姿の「はねと」が集結してきている。みんな若々しくかつ嬉しそう。まるで体育祭や高校総体の様。外国からの観光客も沢山いる。無数のカメラマンも所定の位置で準備している。お祭り直前の騒然としたワクワクムード。大きな花火?の合図とともに、かなりの広い区域のポイントポイントで同時にスタート。物凄い人数が一斉に掛け声を発する。ねぶたが動き出す。外国人にはどう眼に映るだろうか。北のはじっこの日本最大の奇祭のスタートである。
それにしても踊っているハネトを眺めるに及び、ここの人たちは体系がスリムで大柄なのが目につく。自分の住んでいる地域の町内運動会などで目にするブヨブヨコロコロっとした人々とあまりにも違う。やはり違う人種なのかもしれないと憧憬の念のを強くする。意匠はやはり伝統的なものが気に入る。水色、ピンク、白が基調じゃないとしっくりこない。なかにはちょっとヤンキ―風の黒々としたトグロヲまいたような文様や化粧やラメを塗ったこった意匠の集団に出くわすが、これが縄文的というのならばちょっと違うような気がする。
ねぶたの由来は定かではなく、基本的には七夕祭りを基軸にしているというが、土着的な風習、「虫送り」的なものとまじりあっているように思われる。こんなに大きく大々的になったのは戦後のことらしく、昔は小さめなねぶたが街中の小道に自由自在に入り込んだもっと身近なものだったようだ。最近のものはねぶたの山車そのものが大きすぎて、決められた大通りしか通行できず、見る人と踊る人が、俄然として切り分けられている。ねぶたの山車も人間力が持ちあげ引っ張るというもっとも重要な要素が抜け落ちている。自動発電装置の騒音といっしょに、ただ平坦に進んで行くだけである(せいぜい少し廻ったりするぐらいしかできない)。ねぶたが持ちあげられ人々の躍動感が乗り移り神が憑依するごとく自由自在に揺らいでいくという、本来の魅力はまったくない。ついでにいえば、本来ならこのねぶたに人々の災いを乗り移らせて川や村境に捨てることになるのだが、昨今では、しっかりこのねぶたは文化遺産として保存展示されている様子だ。すると人々の災いは残り続けるのではないか。どうも本質的なところでこの祭り危なくなっているようだ。
そうしてあとから考えるとこのねぶた祭りの魅力はなんだろう。少なくともねぶたの造形や動き、踊りそのもの、などの芸術性ではないのはたしかなことだ。おそらく、この圧倒的な迫力と熱気、スケール感だろうか。現代の都市空間、現実世界の世俗的なものごとを大きく取り込んだそのパワフルな活力にまず人々は感動するのであろう。それにしてもちょうど自分のいた位置に、クロネコヤマトの社員グループのねぶた一団がいたのだが、大音響で「クロネコヤマトの宅急便!」をくり返し踊りの掛け声に用いる感覚には疑問を禁じ得ない。会社が協力するのは良いことだが、そこまでやるとあつかましすぎてシラケさせる。しらける自分に対して、しかし人々は「クロネコヤマトの宅急便!」の掛け声に盛り上がり最高潮に達していった。懐が深いのは良いことだが、人々の無邪気なあつかましい欲望で、今ねぶたはブヨブヨコロコロと無駄に膨らみ過ぎてしまったんじゃないのか?(*あくまでもこの青森ねぶたでの印象にとどまるのだが)。
金魚ねぶた
さて、ねぶたにちなんだ土産物としてはまず金魚ねぶたが有名だ。金魚の好きな自分は学生のころに弘前で購入した。その後それが簡易なタイプであることがわかり、本格的な大ぶりのものを東京の備後屋で見つけて購入。我が家に鳩笛なんかといっしょにならんでブラさがっている。なんで金魚なのかはわからないが、その赤色が華やかで美しく、ヒレのひらひら感が風にゆれて良い感じがする。なにしろ蝋を使用して模様をつけるところが効果的だ。絵具ののらない蝋で抜けたところが、内側から光が漏れ出て光り出す。これは大きな本物のねぶたも同じである。この線の方が白く抜けるということ、白く抜ける線と色のある描線の組み合わせ、裏から光や色が発してくる感覚など、ねぶたで育ったという棟方志功の版画作品に生かされている様に思う。
ところで、金魚ねぶたはそれはそれで良いのだが、他にもう少しヴァリエーションがあってほしいものである。出目金ねぶた、コイねぶた、亀ねぶた、鶴ねぶた、干支ねぶた、、、、。青い金魚ねぶたや虎ねぶたを見かけたがあまりいいデザインではなかった。一方で大きな本物のねぶたが模型になったミニチュアが多く土産物になっているが、このミニチュア化も残念なことに良いものに出会ったためしがない。大きいものの模型をつくるのではなく、はじめから小さい一人人形ものなど、例えば土人形的ファルムで、それ用に適したデザインにおいてつくってほしいものである。今後は祭りを大きくゴージャスにする努力だけではなく、そういった土産物の開発に取り組んで行ってもらいたいものである。