島根・虎張り子
はじめに
2011年夏のある日、知り合いから、10月に島根県立美術館でワークショップをする気は無いかと電話があった。
島根県?、、、、ということで唐突な印象を受けたが、なにしろ京都より西は行ったことがなかったし、費用もすべて向こう持ちということで、とても気楽なこころもちで出かけることにした。
出発当日は、事前にワークショップで必要な荷物などあらかた郵送してもらっており、身一つで仙台空港まで行けばよかった。途中はじめて仙台空港アクセス鉄道に乗り、名取海岸地域の惨状を目にする。まだまだ壊れた車や瓦礫が散見できる。今回はなにしろ一応「被災地作家支援」の一環という立場で呼んでいただくのでなおさら意識せざるを得ない。
仙台空港で今回同行・コーディネイトしていただくことになっている、「NPO法人そあとの庭」のT女史と合流する。
Tさんからプリントされた紙をもらい、簡単な説明を受ける。
仙台空港から大阪伊丹空港へ、そこで乗継して出雲空港へ夕方到着する。ほぼ1日がかりの道程である。最近は航空チケットがいらないらしいので驚く。プリントアウトされた注文票のQRコード模様をかざすだけで、全行程・万事全て事が済んでしまった。
自分は一応土産に仙台銘菓「萩の月」を持ってきていたが、Tさんはその3倍いほど大きな「萩の月」をぶらさげている。かなりの量の「萩の月」が島根県美へもたらされることとなる。
飛行機に乗るのは久しぶりで新鮮だった。途中会津磐梯山、猪苗代湖、鶴ヶ城などが見える。つい1週間ほど前に歩いた場所であり不思議な気分。それから中禅寺湖、八ヶ岳などを見る。富士山は逆側で見えなかった。大阪上空にさしかかると殺伐とした都市風景が広がる。その中に奇妙なシルエットが一つだけぽつりとある。岡本太郎の太陽の塔だ。この遠距離でも十分際立っているというのは、通常の建築物的規範からも自然物的規範からも、はなはだしくかけ離れた異常な形態をしているためだろう。
伊丹から出雲までは小さなプロペラ付き飛行機で。西日の差しこむ中、日本海側から飛行場へ着地・到着。生まれて初めての山陰地方。出雲の国、ヤマタノオロチの土地、山深い農村はいかにも質実剛健という美しさ。
まず県庁所在地の松江に着くと島根県立美術館へ赴き、明日のワークショップの打ち合わせ。
島根県立美術館は街の中心、宍道湖畔に立つ比較的新しい美術館である。湖にあわせたその建築は大変優美ですばらしい。一階エントランス部と宍道湖畔が直接繋がっていて、夏は日没30分後まで開館しているとのこと。サンセットを見に来るだけでも気持ちの良い場所である。周囲が望めるガラス張りの流線形建築でありながらも、企画展示室などは展示品を最大限引き立てる重厚で落ち着いたものとなっており良く考えられている。この建物はあの大阪万博のエキシポタワーを設計した、「メタボリズム」の菊川清訓が設計したという。意外に(失礼だが)順当な美術館建築に思われた。展示品が引き立たない宮城県のせんだいメディアテイク(伊東豊男設計)やリアスアーク美術館(石山修武設計)などとは違う。建築の善し悪しってなんだろう?とつくづく考えさせられる。
担当学芸員Yさんに導かれながら、館長室へ赴く。館長は以前宮城県美術館の館長だった長谷川三郎さん。そういう因果でわざわざ今回ここに呼んでもらえたようだ。長谷川館長は宮城にいたときよりも元気そう。奥さんが石巻の人だということで震災当事者でもあったのだった。担当学芸員のYさんも岩手県出身、東北大学卒業とのことで、なにかとアットホームな感じでスムーズにことがはこんでいった。
ワークショップ
翌朝美術館へ。外はあいにくの曇りのち小雨模様。この分だと宍道湖畔の夕日を見ることができない。
早く着いたので、美術館前の宍道湖畔をぶらぶらする。湖畔エリアも美術館の敷地に入っている様で、水辺ぎりぎりにいくつかの彫刻が設置してある。建畠覚造のステンレス作品などあり。美しい湖畔の景観と著しく乖離しているように思われてかえっておかしい。
今回のワークショップの題名は、「『なおす』とはどういうことか?―拾った欠片を再生する試み」といういささか仰々しいもので、どのような参加者が来るのか不安であった。
一口に「なおす」といっても、パーフェクトに「もと」に復元すること(それは理屈上不可能なことではあるが)、壊れた状況をある程度とどめおく方向。より「良い」かたちで修正していく方向、、、と、様々にあり得、結局現在の人間の解釈によって違ってくるものなのであり、それはつまり現在の被災地の復興をどうするかという問題とも重なっているのであった。
そのへんを来た人たちに理解してもらえるよう話さなければならない。
「拾った欠片」にしても、当初は被災地から持ってきた瓦礫を大々的に使用する考えだったのだが、放射能汚染を疑われ、京都で陸前高田の松を燃やすのを拒否されたりと、参加者の反応が読めない。一応仙台荒浜付近で収集した震災ゴミと、仙台の普通のゴミ、それと現地島根で事前に収集していただいたゴミを多角的に用意し、自由に選んでもらうことにしていた。
はじめの1時間ほど、自作の説明をプロジェクターで行う。今回の被災地の情景や、被災ゴミ使用の修復物なども併せて観てもらう。最後に今回の作業手順を説明し、好きな欠片を選んでもらうところまででお昼休みとなる。昼食は美術館内のイタリアレストランで御馳走になった。席からは宍道湖や松江城が見える。なんと広々として開放感のある美術館だろう。
午後から作業。参加者は子供から年配者ふくめ多様であるが10数人だったこともあり、美術館の方々やコーディネーターのTさんに手伝っていただけたので、ほぼ順当に進めることができた。震災ゴミに対する拒否反応は見られず、かえってわざわざ汚れたこの種の被災地の物品を用いてくれる人が多かった。完成した「なおす」作品は、参考例として持参してきた自作と合わせて、エントランスエリアに展示してもらうことができた。
出張の館長にかわり副館長もあいさつに来られ、松江名物の和菓子をいただく。事前に美術館側で収集しておいていただいたゴミ―多くが陶器の破片―は、副館長自ら日本海で集めてきてくれたものだという。それでちょっと風情のある物品だったのかと納得する。ここに勤務する前は出雲大社近くの古代出雲歴史博物館におられたとのことで、その方面が専門の様子。日本書紀の多くの部分が出雲地方の神話をベースにしているのだとか、、。
出雲大社本殿の中の御神体はなんなんでしょうか?と問うと、副館長の表情がパッと輝いたように思えた。古代出雲大社の大きさ、柱の太さ、位置や方位の謎、御神体の謎などいろいろおはなしいただく。いよいよ明日の出雲大社参詣が楽しみになる。
終了後、晩御飯に適当な場所を聞くと、学芸員の方々がそれならぜひ「根っ子」が良いと言う。それで、松江駅前の居酒屋「根っ子」にてTさんと軽い打ち上げを行なう。郷土料理、のど黒の刺身、シジミ汁、出雲そば、島根牛、柿チーズなどかわったものを食べる。ここのシジミはシジミじゃないかのように大きい。3段重ねの出雲そばはやや甘いタレで自分の口には合わなかった。それにしても「根っ子」って変な名だなあと思う。よく考えてみると、もしかすると「根の国」・出雲からきているのかもしれない。なんでも根の国―黄泉の国の入口である黄泉比良坂はここの松江市にあるのだそうだ。日本の裏側―根っ子・ど真ん中にこの店はあるのかもしれない。*(島根県美術館ワークショップ・「そあとの庭」ホームページより)
出雲大社前で虎張り子を買う
今回の日程では、なんとか1日余分にとって、私費でどこか観光をさせていただこうと考えていた。
第一に出雲大社。第二に松江城。ここまでは近場なので大丈夫。他に何処が可能だろうかということで、世界遺産の石見銀山、瀬戸内海側の広島や岡山方面、あるいは「最も危険な場所にある国宝」という鳥取の「投げ入れ堂」等々を検討するも、どれもこれも時間的に無理があった。それで、無難なところで、鳥取・さかえ港で水木しげるの故郷でも見るかと思ってみたが、銅像になった鬼太郎をわざわざ見るのもどうかと躊躇する。かといってラクダのいる鳥取砂丘もちょっとげんなりだし、、、。結局、鳥取・倉吉方面へ行き「はこた」人形というものを買ってこようというささやかな目算を立てることにした。
それには第一目的の出雲大社参拝、および名物の虎張り子購入を効率よくはたしてしまう必要があった。
しかし既に昨日まで先導してくれていたコ―ディネ―ターのTさんが仙台へ帰ってしまっており、何かとかってがちがってしまった。なにからなにまでTさんにお任せしてしまっていて、ただ後をついていくだけだったので、いきなり一人知らない街にとりのこされてみると、とたんに動きが鈍くなってしまう。かなり感覚が退化していてるようだ。考えてみれば震災以降ほとんど何処かに一人で自分の足で観光するということがなかったわけだし、そもそも車なしで国内を観光すること自体かなり久しぶりなことだった。
まず出雲大社に行くには、出雲市駅へ行かなければならない。それだけでも自分には難儀なことだった。
調べると二つの方法があり、JRで行くか、一畑電鉄でいくかということになる。其々の駅の位置が宍道湖のこっち側とあっち側にわかれていて、どっちで行こうかぐずぐず迷いながら、松江駅前にあった園山俊二(島根出身らしい)のモニュメント撮影などダラダラする(「はじめ人間ギャートルズ」は大好きなマンガなのである)。以前友人に、出雲へ行く電車が「すごくいい」と聞いていたのだが、おそらくそれは一畑電鉄の方だろうと見当をつけるが、湖の向こう側まで歩くとさらに時間がかかりそうで、結局JRで行くこととする。切符販売所で出雲までの切符を買い、掲示版のホームで待つ。が30分以上待つ必要があった。ボーと30分経過すると、さらに霧のためさらに30分ほど遅れてくるとアナウンスが入る。こんなことなら一畑電鉄の方にすればよかったとイライラして待ちに待ち、ようやく来た電車に乗り込む。動き出す瞬間に「この電車は全て指定席です」とアナウンスが入る。「へっ?」と思っているとドアが閉まり動き出す。たしかに中は寝台車の様。車掌が来て事情を話すと個室の様な妙な席(「のびのびシート」という)へ案内される。「ここの上を使っててください」と、めんどくさそうに言われ特急寝台料金1280円要求される。既に540円の切符を買っていたのにもかかわらず、、。言われた席は大きな二段ベットのようなもので、上がってみると天井が狭く、せっかく宍道湖畔走っているのに窓が眼下にきて見晴らしはよくない。何人かがごろりと雑魚寝しているし落ち着きが悪い。そしてあっけないほどすぐに出雲駅へ到着。キツネにつままれたような気分。なんで隣町にちょっと来るような道程をこんな大げさにしてしまったものか、、。ちゃんと切符を買うこともできないとは、、。
出雲駅に降り立ち、陶器でできたスサノオとヤマタノオロチの人形を撮影。名物のはずの虎張り子を売店等で探すも見当たらない(一畑電鉄出雲市駅構内、松江駅構内、併設土産物店、、どこにもない)。
かくなるうえは、出雲市内にあるという製造元の高橋張り子店をめざすのみ。そこで駅構内に、この町の地図を探すが見当たらない。それどころか東西南北の表示がない。おびただしい観光案内(主に出雲大社など)があふれているにもかかわらず、当の自分の街自体の案内がどこにも見当たらないとは、、。しかも名物の虎張り子を置いていないとは、、、??とても印象を害す。しかたがないので、勘でこっちだろうという方へ出て、持参していた簡単な地図を見ながらこのへんだろうというあたりをうろつきまわる。高瀬川周辺をなんどもぐるぐるあるくのだが、いっこうにめあての高橋張り子店はなく、また張り子を扱うような土産物店も見当たらず、そのような案内表示、看板も無い。地図上であるべきところに行っても目当てのものがない。汗が出て時間が刻々と過ぎる。こんなはずではなかったのだが、、。あまりに近距離で恥ずかしいのだが、しかたがないのでタクシーに乗ろうとするがタクシーも見当たらない。人に聞けばよさそうなものだが、人自体少ないし、なんとなく「もうちょっと歩けば」を繰り返すうちに、汗だくになり、目も血走り、大の男が「張り子」?というので、聞くのがおっくうになる。意地になり頑なになる。こんな時リキシャやトゥクトゥクがあればいいのに、、。日本ってのはまったく不便にできていると思う。見知らぬ幼稚園から「マルマルモリモリ、、、♪」と聞こえてきて妙になぐさめられる。ここもやっぱり日本なんだなあ、、としみじみ思う。
既に12時半になってしまい、とりあえず勇気ある決断を下し、目的を出雲大社参拝に切り替える。完全敗北であった。
まるでドイツ軍がスターリングラードに固執して勝機を逃がしてしまったように、すでに貴重な半日が無駄に消費されてしまった。出雲駅からバスに乗り510円払ってようやく1時に出雲大社到着。朝から所要約5時間、合計2330円費やしてやっと、、。どう見ても1時間ほどの道程であり、1000円ほどで来れるはずの場所なのに、、。あまりにも自分の「人間力」が低いのにげんなりしてしまう。そもそも県庁所在地のJR松江駅から出雲大社への直通がないのがおかしい。同じようなルートでJRと一畑電鉄が競合、、というか遠慮して棲み分けしている感があり、非効率的なのが妙だ。なんでもこの一畑電鉄というのは、この地の財閥(しかも古代からの地場産業である鉄関係のおおもとらしい)だという。
さて出雲大社前(横側面)でバスから降りると、まずは目の前の土産物店を物色。店奥の方でついに虎張り子(¥3000)を発見する。出雲市内なんか歩きまわらないで、最初にこっちに来ていればよかったと後悔するも、とにかくひと安堵。他にうさぎの張り子(¥1300)も購入。松江の街の印象同様、とても上品なやさしい張り子だ。張り子じゃないが因幡の白ウサギやドジョウすくいの人形もあり、買おうか迷ったのだが、まだまだたくさん土産物屋がありそうなので、ここではやめておくこととする。
店を出て歩きだすとすぐにとてつもなく大きな日の丸の旗が見える。こんな大きく高い日の丸ははじめてである。クアラルンプールの世界一高い国旗掲揚塔を思い出す。さすがは日本最古の伝統を伝えるという神社である。日本の国を背負っている。旗の奥にはお馴染みの巨大な注連縄とファッサード。横から近道して入ってきたのでいきなり本殿か?とおもいきやこれは神楽殿。建物自体は古くは無い。足元の地面が気になる。白いプラスチックの網がしいてあり、そこに白い小石が敷き詰められているのだが、プラスティックに違和感がありあまり心地よくは無い。神楽殿側から入口を望むと大きく無粋な土産物屋の看板。ここがあの出雲大社なのか?一応この入り口前にはりだした土産物屋にも寄ってみるが、あまりいいものはない。同じ虎張り子が、¥4000で売られている。さっきの店で買っておいてよかった。かなりいいかげんなものだ(その後もいくつかの店で物色するが虎張り子を置いている店自体ほとんどなかった)。
それから道なりに歩くと、沢山の看板(展示館、売店、飲食店、、)。どこに主役の出雲大社・本殿があるのかわからない。脇の方に「出雲大社本殿」と書かれた控えめの小さな看板を見つける。せまい入り口を進むとなんと突然拝殿の前に出てきた。横から入ってきてしまったため、帰り道で正面参道を歩くことになるのだが、かなりの距離と広さの堂々たる参道がのびている。しかし、肝心の拝殿正面付近に団体客の記念撮影用のイスなどが設置されてしまっており、正面から長い距離を歩かされてきた参拝客は、ゴールの拝殿前で迂回しなければならなくなっている。参道中央から拝殿を望むと、この記念撮影用のセットが邪魔になって視界を遮られる。こりゃあひどすぎる。さっきから見るもの見るもの世俗的な欲とくばかり。そういえば「縁結びの神様」ということで、この出雲では「縁結び」の標語がやたらと目につく。出雲空港の正式名称も「出雲縁結び空港」という歯の浮いような名前になっている。下心見え見えである。出雲はもっと神聖なところであると憧れていただけにちょっと残念だ。
出雲大社
ところで運の悪いことに出雲大社では、現在「平成の大遷宮」ということで全面改装中である。昨日美術館で教えられてきていたので心の準備はしていたのだが、いざきてみて、肝心の国宝・本殿が、すっぽりサティアン風の倉庫に入って見えなくなっているのを確認し落胆。とにかく一目、その古式ゆかしい威容を見てみたいという願いはかなわなかった。うろうろと「サティアン」の横をうろつくのみ。中から「こんこん、とんとん」作業の音が聞こえてくる。たくさんの建築関係の人間やトラックなどが行き来していて奇妙な雰囲気だ。
ただここに来てひとつ解かったことがあった。本殿のうしろに小高い山があって、建築物と緊密な関係をつくっているということだ(写真参考)。自然の山、サティアン、拝殿が三段重ねで並ぶ今回の妙な景観もまた面白かろう、、。
本殿は昔もっともっと大きかったらしい。下部の土台部分も異常な高さがあったという。鎌倉時代で48メートルあったという。先ほどの奇妙に高い国旗がちょうどそのぐらいの高さになっていて、その高さを知らせる役割を兼ねていた。もちろん高さは日本一であった。さらに上古では96メートルだったとか。
2001年にその伝説が本当であることが明らかになった。なんと本物の鎌倉時代の柱が出土したのである。言伝え通り大きな太い木を3本束ねて一本の柱にしていた。
いったいぜんたい、何なんだろうこの高さと大きさは?
かなり「異常」とも思えるこの「神殿」の建築は、相当に「異常な」起源があったにちがいないのである。
古事記にある「国譲り」の物語では、国津神の大国主命が天津神の支配を受け入れるその代償として、せめて天津神のような神殿建設をこの出雲に建てることを要求している。
出雲地方勢力が凄いものだったのか(鉄や銅の生産拠点であるし)、大和政権の「国家」体制確立のシンボルとしての位置付けであったのか(日本書紀や古事記における出雲神話モティーフの用いられ方は、まさにそういう位置づけである)、、あるいはその両方だったのか?
参道を逆にたどり大鳥居を潜り抜け、左に折れて博物館に向かう。
入って入口ホール中央に目当ての出雲大社本殿の柱を発見。ガラス張りだが360度見ることができる。素晴らしい量感である。大変な太さではあるが、一本の木としてみると、仙台で収集した自作の切株作品の方が太い。3本合わさると縄文杉のようにちょっと別物になる。まるで毛利元就の「3本の矢」の例えのようだ(そういえば毛利は尼子を滅ぼしてこの地方に君臨してきたのだった)。青森の三内丸山遺跡でもそうなのだが、柱が太いとか高いというのが「凄い」ことに直結していてわかりやすくて良い。
常設展示場では巨大な現物代の出雲大社本殿の「千木」がクロスして展示されている。さらに古代から現在までの出雲大社の移り変わりが模型になって並列され比較されている。だんだんに小さく、低くなって現在に至っていることになる。東大寺にしてもそうだが、この列島の創造性は進化ではなく、だんだん退化しているのかもしれない。鎌倉時代までのもともとの構造は、長い長い階段を昇って行くつくりになっていて、横から見ると天上に掛けられた巨大な橋のようだ。こんなマンガの様な建築物は日本に限らず世界中でも見たことがない。しかしなんとロマンチックなことだろう。
帰路いよいよ一畑電鉄に乗り込む。運転手の後ろに座る。美しい湖畔や村落のぎりぎりを走り抜けていく。ちょうど鎌倉の江ノ電の様な感じがする。
観光物産館で「姉さま」を買う
松江市に戻ると既にもう夕方になっている。
宍道湖の向かい側を初めて歩く。街の中心部に忽然と松江城が観える。そういえば前日のワークショップ時、参加者の少年が「僕の一番お勧めの松江城のスポットは、@@@の橋から@@@時ころに観る景色です」と教えてくれたのだが、いま自分がどこにいるのかよくわからずどうしようもない。自分の住んでいる街をそのように体験し育んでいる様子は本当にうらやましい限りである。が、自分にはしみじみと味わう余裕がない。
地図を片手にとりあえず松江城横の観光物産館に到着。ぐるぐると店内を物色する。おおよその品ぞろえを把握する。なぜか虎の張り子がないし伝統的なものが少ない。やはり出雲大社で買っておいてよかったと思う。目当ての物品が見つからず、さらにぐるぐるうろうろと店内をうろつく。有名な名物品を置いていないで観光物産館がつとまるか?と侮蔑にも近いいらだちをおぼえる。既に汗まみれになり目も充血していただろう。店内はもう店じまいまじかで客はゼロ。数人の店員がそれぞれの持ち場で、こちらの一挙し一動をだまって注視しているのが解かる。ジロジロ見るわけではないが、ヘンな客がいるということで固唾をのんで見ないようにしながら気にかけているといった風。緊張感が売り場全体を支配する。その源は自分自身なのだが。
ついに意を決して右手に「ドジョウすくい」左手に「牛」の張り子を持ち、くるりと振り向きざまにレジ―へ。正面のおばさんがにっこりと笑ったのでそこへ張り子を差し出す。そうして、「あのー、、ここには『あねさま』という伝統のものがあると聞いていたのですが、、」と尋ねた。「ハイ、『姉さま』は松江で古くからつくられてきている伝統品です。2階に置いております」。「エっ2階もあるんですか?」と驚く自分。
おばさんは気合いをこめてとても丁寧に二つの張り子を包んでくれる。時間がかかるがゆっくり待つしかない。夕暮れが刻一刻と迫ってきている。
いそいで2階へあがると伝統工芸、焼きものなどぎっしりと集められている。奥の方に「紙」製品のコーナーがある。「姉さま人形」発見する。さらに「虎張り子」をはじめ沢山の張り子発見。お面も発見する。「こりゃー鳥取には行けなくなるなあ」と覚悟する。手当たりしだい購入することに。けっこうな値段になってしまう。
初めからここに来ていれば時間を無駄にしなくて済んだのに、、。
戦い済んで日が沈み宿へ戻る。帰路宍道湖畔に沈むサンセットを観ることができた。
松江城にのぼる
翌日は昼過ぎには飛行機で帰らなければならないので、半日の予定で松江市内観光。松江城へのぼる。
この天守閣はほぼ完ぺきに当時の姿をとどめている。もともとの天守閣が残されている城としては姫路城につぐ大きさだとか。城の堀縁では、船着き場とか、菊の品評会場とか、茶店とか、資料館とかの看板ばかりが目立ち、肝心の城内への入口がわからない。出雲大社と同じで余計なものばかり目立っている。それでも勘を働かせてなんとか入場。さっそく天守閣へ上がる。重厚な柱がならぶ木と鉄のみの薄暗い迫力の空間。1〜3階ぐらいまでは展示品や資料が配置してあるが、てっぺんの部屋は何も余計なものが置かれていずまことに清々しい。360度パノラマ状に周囲が見渡せる。天気が良く、気持ちの良い風が吹き抜けて行く。最上の部屋の最上の眺めである。まるで夢を見ているよう。3月11日の大震災以来のくぐもった気持ちが、ここにきてしだいしだいに癒され晴れやかになっている事に自身気付く。何か付き物が落ちたようだった。ここはフィレンツエのサンタマリアデェルフィオ―レやサンジミ二アーノの塔のテッペンにけっしてひけをとるものではない。
松江の町は「水の都」というだけのことがあり本当に美しい。海や川に面した街は多いけれども湖というのは珍しい(同じ湖でも琵琶湖だと大きすぎて海に近い)。湖なので波はあまりなく、水面は穏やかで音がせず、ほとんど潮の香りというものもない。その様な水の塊が街の中央に横たわり、城下町とJR駅の街を二分し、いくつもの橋がかけられるている。静かで落ち着いているがダイナミックで何か華やぎがある街だ。やはり城下町には城がなければ話にならない。城はへそで、堀や門はその町を規定している。同時に街の各所から見える天守閣は其々の見ている景観の起点となるだろう。数百年の時間をかけてそのように空間ができてきているのだから、そこから軸やへそを抜いてしまったら骨抜きになるにきまっている。自分の住んでいる仙台市には城がない(天守閣はもともとない城なのだが)。城壁のみが残されている。仙台は、全国でも江戸、金沢、薩摩に続く4番目の石高の城下町であり、しかも一度も領地代えもなく一貫して伊達家なのに。本来街のへそとなり基軸になるべき部分が、廃墟のままにされ、奇妙な護国神社が後付けで置かれている。やはり戊辰戦争で負けたのが影響しているのだろうか(実際は太平洋戦争時の空襲で破壊されたのだが)。せめて会津若松のように鉄筋でもいいから、なにかそこへそれなりのものを配さなければ、街は腑抜けになるに違いない。
その後城の堀に沿うように並ぶ武家屋敷を見学。小泉八雲の家も見た。こじんまりとした繊細な伝統美。その完全な空間では、八雲が使用したという、畳の上に置かれた洋式の机のみが異質で異様だった。
帰仙後、虎張り子を調べる
飛行機を乗り継いで仙台に帰ってくるともう夜だった。
久しぶりの人ごみ。馬鹿そうな女の子たち。いろいろなものが混じり合った都市特有のすえた匂い。
そしてなによりもピリッとした寒さ。骨にしみいる重い湿った空気。
これが白河以北・東北なんだなあとあらためて実感させられる。
帰宅し、買ってきた張り子類をテーブルにならべてみる。
沢山買ったようで、こうやってみてみると物足りない。いつものことではあるが、、。
それにしても今回は何かが腑に落ちない。
なんだろう?ということでなんとなくいろいろとあらためて調べてみた。
そもそもなんで出雲市で高橋張り子店が見つけられなかったのだろう?
ネット上の微細な記事や詳しい街の地図を調べなあおしてみる。すると次のことが判明してきた。
なんと昨年、高橋張り子店高橋孝市さん、および後継ぎの高橋荘四郎さんが相次いで亡くなられていたのである。
その後店の看板ははずされ、張り子は断絶ということになったという。
どうりで見つけられなかったわけである。
街の各所で張り子が扱われていなかったのもそのせいかもしれない。
それでは、自分が購入した虎張り子は誰がつくったものなのか?
もしかしたら高橋張り子店の売れ残りなのか?別な誰かなのか?
そういえば高橋張り子店の虎張り子は、特異な姿をしているはずだった。それは切手にもなっている。
派手なピンク色の大きな耳を付けており、一見すると南方系の怪物を思わせるものだった。一方今回自分が買った物は、ややおとなしめのスタンダードなバランス感のある虎だった。けっして悪いものではないが、他の牛やウサギや馬同様に上品であり、いかにも城下町松江らしい。散々歩きまわってようやく見つけることができ、時間も無いので、意に介さず買うには買ってきたのだが、あきらかに有名で名物の高橋型虎張り子ではないようだ。そういうふうにあらためてこの買ってきた虎張り子を見てみると、いかにも個性的だった高橋型虎張り子(切手参考)を下敷きに、おとなしく一般化した様な趣に見えてくる。もしかするとウサギや牛のように福祉系の施設で組織的につくられているものなのだろうか?それとも他所の伝統品をまわしてきて販売しているものなのだろうか?(西日本ではたんごの節句などで、男の子に虎張り子を買ってあげる風習があるとのことで、各地域大阪、岡山、姫路、島根、広島、、、でそれぞれの虎張り子がつくられてきているという)。まあ、観光物産館にでも電話すればすぐ判明するのだろうが、、、、。じょじょに、落胆に襲われていく自分(後日調べると松江在住の別な作者・山形巌さんのものであることがほぼ解かった)。
修復中の出雲大社といい、今回はどうも行き違いが多かった。
昔、東京の備後屋で何度かこの高橋型虎張り子を手にとり買おうか迷ったことがあった。他所の虎張り子の2倍近くの値段がつけられており、何で島根のだけこんなに高いのだろう?と思って買わなかったわけであるが、、。さっさとその時買っとけばよかったものを。
そもそも現在では、事前に仙台にいながらにして電話、郵送で各所の品々を手に入れることも容易なはずだ。ただ今回はせっかく現地に行くので汗をかいてみたかったわけだが、いざ実地に来てみると人間が退化してしまっているのかどうも裏目に出てしまった。
しかしそれはそれで良い思い出となった。出雲虎張り子が廃絶してしまったのを、しみじみと実地に体感することができた様な気がする。
震災以降何かとあわただしく殺伐としていたところ、松江や出雲という美しくまたのんびりした場所で、ひさいしぶりにとても良い時間を過ごせた様に思う。
いろいろ御協力、援助していただいた人々、島根県美術館の方々、島根県の方々、そしてNPO法人「そあとの庭」にはあらためて感謝しなければならない。
会津・漆・起き上がりこぼし
はじめに
2011年東日本大震災後の混乱のさなか、「会津・漆の芸術祭〜東北へのエール〜」に参加することになった。
当初、かなり忙しくしており、準備期間が少すぎることや、自分は漆と関係がないようなので、参加を躊躇していた。
しかし今回の震災をうけて、震災鎮魂のテーマが設けらることになり、全国の作家から沢山の「東北へのエール」が届けられているのを知った。かなり遠方の作家などによる「鎮魂」プランやメッセージを観るにつけて(失礼ながらそのいくつかは妙に浮ついたもののように感じられたことにもより)、これは被災地の地元作家として負けられないという思いが募った。しかも自分の元来のテーマが「再生・なおす」であったので、絶対に逃げることのできないものだと覚悟を決めた。
またこの企画を推進しているのが福島県立博物館であり、震災後、公の機関による、震災に関するほとんど唯一の本格的な催しであるという認識があった。もともとこの会津にある福島県博物館は自分の好きな博物館で、今までにも大変興味深い民俗学的な企画展(およびそれにともなうカタログ)を催してきている。しかも現在の館長は敬愛する赤坂憲雄であるし(前年に東北芸術工科大学を辞しこちらに移っていたのを知らなかった)、なによりも学芸員の方々の熱心な姿にも心打たれたのであった。会津若松という自分の大好きな街の好きな博物館がコーディネイトする、自分のメインテーマに深くかかわる、しかも自分自身が震災当事者でもあるという、、絶対に避けることのできない展覧会。俄然気合いが入るのであった。
それで急遽ひと夏を全てこの展示作品に捧げることとなった。暑い暑い夏、アトリエにこもりっぱなしとなる。震災後の全てがストップした数週間を経て、その後の自分のほとんどの記憶は、制作につぐ制作(合間に教員免許更新講習があったのだが)しかない。家庭生活や余暇や睡眠を切り捨てることになっていった。
下見
というわけでこの夏〜秋にかけて、会津地方になんども通うことになった。
最初の下見会の時は、福島第一原発の放射能が不安ではあったが、東京方面から下見に来ていた作家達が放射能測定機を持参してきており、問題がないとのことだった。郡山では高い数値を示していたらしいが、山を越え会津盆地に入ると正常な数値に戻ったとのこと。それを聞いて一応一安心。
最初の下見会では会津若松のとなりにある、もう一つの会場となる喜多方市をまわった。蔵の町として有名なこの町を、あらためて蔵研究家のガイドに導かれながら、つぶさに見ることができた。表通りの奥には驚くほど多くの立派で大きな蔵が並んでいる。このような機会でもないとなかなか中に入るわけにはいくまい。ガイドのおじさんが言うには、喜多方市は今回の震災の被害をほとんどうけなっかたのだそうだ。放射能にしても宮城県の仙台市なんかよりも離れているのだが、同じ福島県ということで、この会津地方全体が風評被害にあっている。事実休日というのにあまり観光客をみかけなかった。たまたま原発の名前が双葉とか南相馬とかではなく、「福島」だったために、福島県全体がその影響下に入ってしまったようだ。下見会終了後最後の締めはやはりみんなで喜多方ラーメン。再会を期して散会。その後紆余曲折の中、自分は会津若松市の中心部・福西漆器店の蔵二階の展示場を使用することに決まる。下見会でいっしょだった作家達にはその後一度も会うことが無かった。
搬入・作品
自分の搬入時の問題は蔵2階に上がる階段が狭いということで、自作が入れられるかどうかということだった。心配だったので、主催者側に労働力としてボランティアスタッフを手配してもらうことにしていた。さらに念のため家内にも来てもらうことにする。予想通り階段を上げるのには難航した。80pの幅のところに80pの幅のものを通さなければならない。大きなクローゼットタイプの作品を入れるときに、蔵内の漆喰壁が少々傷ついてしまう。有難いことに店の御主人は不問に付してくれた。
本当は、もう少し時間をおいて、震災のこと、自作のこと、そのかかわりについてゆっくり考えてみたかったのだが、冒頭述べたように、待ったなしで、震災テーマの作品に正面から取り組むこととなってしまった。
自分はもともと拾った欠片を復元するという行為を行なっていたので、その延長線上で、ヒネリなく、そのまま震災による瓦礫を拾い修復するという仕事に没頭することとした。瓦礫の「リサイクル」は、いかにも震災後ありそうな試みだが、なにしろ自分の場合10年以上前からこの修復をおこなってきたのであり、また今回用いる被災地の欠片の多くも、津波で流された自分の家内の実家(岩手県・宮古)の物品で、誰に文句を言われる筋合いではない。(作品タイトル「転生−変わりながら続いていくものたち−3月11日を経て−」)
仙台・荒浜の被災地(震災以前の普段から拾っていた場所)で拾った、茶箱や棚の欠片を用いた作品に加え、宮古の実家にあって瓦礫となった、家内が小学生時に貰った作文コンクールの賞品としてのメモリアル時計(富士山の写真入り)の修復。
また、自分としてもっとも思い入れが深かったのが、家内の実家・さとう衣料店の古い床面を跡地から拾ってきて、市販のテーブルに埋め込んだ作品だ。はじめて自分が家内の実家に結婚の申し込みに訪問した時、この緑色の床を踏みしめた懐かしいもの。自分にとっては、この色こそが実家の色であり宮古の色だった。この懐かしい床面が、新しく別なフィールド・「依りしろ」を肉体とし、たくましく生き続けることを切に願ったのである。
さらに、今回は福島県博物館の協力のもとで、家内の実家跡地で拾った漆御椀の欠片からの復元ワークショップを行なった。会津の漆工芸家・山内泰次さんの協力で実現したのだが大変貴重な経験となった。ちょうど御父さんの山内清司さんの企画展も福島県博物館で開催されており、あらためて漆の力を見直すことができた。
漆について
ちょうどワークショップの前日、カ―ラジオを聴いていたら、縄文時代の漆の木が中国最古のものより古く、日本列島固有種であったことが判明し、漆文化が、従来言われていたような、大陸からもたらされた文化ではなく、独自に開発してきた文化である可能性が強くなったというニュースが流れた。
そういうわけでこの漆は、日本列島の原始の時代から伝えられたもっとも古い造形技術のひとつなのであり、後年もっとも深化洗練した日本の「お家芸」的文化なのである。そうしてその長大な歴史は我々の感性にも大きく影響を与えてきたと考えられる。
いくつか漆の特質・機能を書き出してみよう。
・まず漆は物質をコーティングすることにより、保存性を高める。
・表面を滑らかに、光沢ある独特の質感に変質させる。
・黒や茶や赤などの美しい色彩を着色することができる。
・そうして、一種の接着剤としても用いられた。
・穴埋め剤として(木くずなどと混ぜられパテ状にして使用される)。
このように漆は用途が広く重宝された天然素材であり技術であった。
会津地方は東北における木地産業の発信地であり中心地であったから、早くからこの漆が木地食器などに用いられ、伝統技術として盛んに伝えられてきていたわけである。
当初自分は先入観にとらわれており、漆技法を繊細な工芸的表面としてのみイメージしていたので、なかなか自作のイメージとつながらなかった。しかし福島県博物館の学芸員の方から、「漆っていうのはあるものとあるものをくっ付ける接着剤の役割もあったんで、青野さんの作品は、特別なことをしなくともそのままでも漆文化と繋がる様に僕は思っているんですよ」と諭されて、目からうろこが落ちたのだった。
異質なもの同士を繋ぐメディウムとして漆の機能を考えるならば、確かに自作の趣旨はそのままで漆的であった。
それでワークショップの御椀の修復も、ものこそ漆ではあるが、欠片と後付け部分の接着の意味でまず漆が使用されることになった。その他つなぎ目の穴埋めパテとして。さらに表面コーティングとして。3段階に漆が使用されることとなり、小さいながら多層的な漆技法がこころみられることとなった。山内さんが、どうもこの漆御椀は宮古で拾ったというけれども、「会津物・あいづもの」の様だ、ということで、不思議な因縁を感じたのであった。
漆製品をこれまで自分は、いろいろと購入してきている。
古道具屋で昔の3段重ね弁当箱や食台、テーブルを買ったりしたが、使用され古びたものの漆の質感は独特な良さがる。東南アジアのミャンマーでも数多くの漆工芸を買い漁っている。折りたたみ式のテーブルや、独特なパゴダ型供物入れ、コースター、入れ子式のきんま入れ、コップ、、、それからカエルや猫や聖獣の入れ物兼置物などなど。考えてみれば自分は元来「塗りもの」が好きなようだ。その質感や色合いも好きだし、貝等を埋め込んでフラットに磨き上げる螺鈿も大好きで、かつての朝鮮半島の箪笥や平泉・中尊寺の螺鈿細工は、他の技法では不可能な固有な表現に到達している様に思える。また「乾漆」という技法でつくられた興福寺の国宝・阿修羅像なども漆あっての表現と考えられる。
一方で、現在の会津に限らず日本では、なかなか漆製品を買うことができなかった。どうしても「漆」というと敷居が高く、良いものはかなりの額になる。また伝統から派生した妙に乙女チックなものが多い。女性のニーズに合わせていかざるをえないのだろう。今回は安ものやディスカウントのハネものをいくつか買った程度だった。 ミャンマーの様に、ほどほどの塗り映えでも、スクラッチ技法を採用した闊達な線描や、顔のある動物などの置物的工芸品があればいいのにと感じた。どうしても日本では、国宝にもなっている琳派の玉手箱など、最上級の高みに達しているからなのか、本格的な高級宝物品とそれを摸したキッチュな安物に二極分化している様に思われる。
それにしても「ぬりもの」と呼ばれるように、「塗る」こと―表面コーティングだけで、そのものの質感のみならず本質までもつくり変えてしまうというのは、漆の興味深いところである。
絵具を「塗る」行為とも何処かで繋がってくるのかもしれない。漆の質感と絵画のマティエール。我が国ではどのような関連性が見られるのだろうか?日本の伝統において、英語の「ペインティング」に最も近いニュアンスなのは、もしかすると水墨画や大和絵ではなくて「ぬりもの」−「蒔絵」のようなジャンルなのかもしれない。
おそらく戦後充満しているプラスチック用品の質感や「ニス」、「エナメル」、「ペンキ」などの質感は、その工業的、通俗的、似て非なる末裔なのかもしれない。
ところで、今回の展示は約2カ月ほど期間があり大変長いものだった。そのわりには遠方ということもあり、なかなか会場にいる機会が少なく、どのように自作が受け取られてきていたのか把握できないまま終了してしまったのはちょっと惜しかった。それでも、搬出の時、担当学芸員の方が、赤坂憲雄がこの自作展示スペース(福西漆器店)に来て、かなり興味深そうに観ていたと教えてくれた。学生時代からの愛読者としては何よりもうれしい話である。
そういえば終了後ほどなくして、今回のこの「会津・漆の芸術祭」が平成23年度地域創造大賞(総務大臣賞)を受賞したという知らせが届いた。全国的な美術イベントとしてのますますの発展を祈りたい。東北地方にはこのような大きな美術イベントが無いので期待したいものだ。ただ「漆文化」という特質がある意味制約にもなって来るだろうが、、。
リンク(「会津・漆の芸術祭〜東北へのエール〜」、山内泰次・伝統工芸士、さとう衣料店)
観光・宿
夏から秋にかけて、ほとんど何処にも行かず制作に費やさざるをえなかったので、この機会に何度かささやかな家族同伴の観光を企てた。ほんのわずかなつかの間の息抜きである。
搬入時は東山温泉の高橋旅館に宿泊する。東山温泉は会津地方の代表的な温泉地で、新撰組の土方歳三などが傷を癒したのでも有名だ。向瀧が特に有名だが高くて家族ではむり。
自分の泊まった高橋旅館も知る人ぞ知るコアなファンがいる旅館である。が、とても古い建物で完全に傾いていた。その傾きが今回の震災のせいなのか、もともと古くて傾いでいるのか判断のつきかねるところである。
そのかつての栄光と現在のうらぶれた様子は、御主人の御爺さんのちょっとぼんやりした心配な様子と、、廊下に掲げられている戊辰戦争時の落城した鶴ヶ城の写真と、それぞれに重なってくるのだった。
風呂は地下を何層にも降りた地底にあり、天然岩風呂というよりも河底の岩を大きく掘った洞窟の様な(というか洞窟その物で)贅沢さなのだが、広い風呂の方はかなり以前から御湯を入れた様子は無く、小さな方の湯船にぬるい湯が入っている。そこに至る地下への道は電気が無く、そのつど自分で天上から吊るされた裸電球のコンセントをつないで照らすことになっている。ちょうど秋の寒い晩だったこともありすっかり冷え冷えとしてしまった。
しかし風情のある部屋の様子や屏風、ついたて、塗りもののテーブルや年代物のイスなど、見るもの見るもの美しく、河側に傾いだロビーも見ようによっては大変趣があった。これほど古く傾いで解体の危機に瀕している旅館に泊まったのも、これほど古く上等な伝統を残している旅館にとまったのもよく考えるとはじめてのことだった。
ハイジのアルム・オンジのような人がペーターの家をなおすように、ちょこっとここに来て、補修してやればいいのに、、。と思ったりした。
観音堂
当時と同じ茶色の瓦屋根にリニューアルしたという鶴ヶ城を見物する。
入場券を買って家族で天守閣へ。「何だ中は普通のたてものじゃん!何も無いじゃん!」と小1の娘ががなり立てひんしゅく。この性格誰に似たのだろう。たしかに中身は鉄筋コンクリートのビルなのだが。城外ではちょうど「会津祭り」ということで武者行列を楽しむ。それから何処に行こうかと考える。何度も会津には来ているので、大体の観光地には足を運んでいる。
それで、今まで一度も行ったことがない所ということで、「左下観音堂」に白羽の矢を立てる。
大内宿へと向かう道程の途中、思いのほか山を登った場所に小さな観音堂用の駐車場があった。車で上がれるのはここまでのようで、さらに外に出て歩き始めようとすると、あとからもう一台車が来ておばあさんたちが降りてくる。相前後しつつさらなる山道を徒歩で登る。なかなか険しい山道で、しばらくすると、おばあさんたちが登るのをあきらめる。「観音様によろしく、、。」と言って少しさびしそうに駐車場へ引き返して行った。
なおも登り続けると突如視界にみごとな建造物が入ってくる。予想以上の大きさであり、すばらしい建築物だった。岩山に半分足をかけながら立ちあがった構造で、ぞくに「懸け造り」というものであろう。清水寺のようなものだが、まえぶれもなく山上に忽然と現れるのが何とも味わい深い。周囲には解説立て看板が立つのみで、何も余計なものがない。受付も売店も管理人も寺務所も事務所も何もない。ただただ素朴で重厚な古い木造建造物が深い山中に忽然と立ちあがっている。
飯盛山の「さざえ堂」、喜多方の「長床」、とならぶ会津地方のユニークな建築物である。
うれしいことにこの高層建築物には自由に登ることができる。自然の岩に応じた無数の柱に支えられた力感的な構造を体感しながら上層へ登ると、崖下には夕暮れの美しい田園風景が広がる。
本堂内部を格子窓からのぞくと、変わった木偶の神像?を発見。本堂裏―つまり岩山と建造物の間から、神秘的な光のさしこむ岩の小部屋に出る。無数の石積み、地蔵が並んでいる。岩山への自然崇拝と仏教信仰どちらが先だったのか?ここではとてもよく融合されている。
食べ物
ところで、会津の御当地グルメとして有名なのが「ソースかつ丼」である。
会津若松の商店街で食べ、鶴ヶ城付近で食べ、東山温泉でも食べてみた。何度食べてももうひとつ腑に落ちない料理に思えた。まずくは無い。まあ上手いとも言える。ただ意味がよくわからないのである。豚カツが丼ぶりにのって、甘めのソースがかけられているという、文字通りそうとしかいえないものなのだ。別々に豚カツ定食で食べれば良いものを、どうして「ソ―スかつ丼」にするのかその必然性がよくわからない。味も値段も豚カツ定食とかわらない。ナイフで豚カツを切ることができないので、はじめから切られていることと、ソースが甘めということぐらいが異なっていて、それが別にプラスになっているというわけでもない。何か固有な味わいが生じているというほどのことはぜんぜんない。これを日常食して、育んできている会津の人達の趣向はどういうものなのだろうか?何度食べても腑に落ちることが無かったのは自分が未熟なせいだろうか。
会津若松の商店街近辺には有名な田楽屋がある。町がガランとしている時でさえこの店の中だけは、いつも観光客で混雑している。家内がどうしても行きたいというので、並んで待って苦労して席に着く。店員が炉辺で田楽を焼き、そのつど客席に運んでくる。串がりっぱで風情がある(まさか使い捨てではあるまい?)。味は炭火の焼き立てなので上々ではあるが、所詮は単なる串焼きにすぎない。それほどありがたがって、並んで待って高額を支払い食べなければならないものとは思えない。家の横でたき火でなんか焼いて食べれば同じことではないか?と家内に問いかけるが、「ぜんぜんちがう!」という。
ところで、会津若松には、このホームページでも以前触れている気に入った居酒屋があった。
タイミングが良いので、今回は久しぶり(約10年ぶりぐらい)に入ってみる。前よりも客席が広く建て増しになった。まだ夜の7時ぐらいなのに、あいかわらず真っ赤な顔をした常連の会津のおじさん達がカウンターにひしめき合っている。そうして新参者の我々が店に入るや否や「いらっしゃい」と口々に歓迎してくれる。店員でもないのに。そうして小部屋に入って食べている我々のテーブルに来て、「どんどん食べてね―」と嬉しそうに見ていく。この店はなにかがやはりちがうようだ。
最初、テーブルにあったメニュー表を見て、10年前とほとんど変わっていないメニューとその破格な値段に感激。しかし店のおばさんが来て「それは昔のやつ」、「今はこれしかやってないから、この中から頼んでくださいね」と別な手書きの紙をわたされる。品数は半分になっていた。やはりよる年波には勝てないのか、、。あの水準を保ち続けることは不可能なのだろう。
それで今でも続いているらしい名物の焼き鳥(正確には豚串)など頼む。昔おじいさんが焼いてくれたのと同じ大きさ、味わいでとてもおいしい。しばらく楽しんでいると、男の子がやってきて、うちの子と遊び始める。常連客からは「三代目」と呼ばれているこの家の跡取り息子の様だ。うちの子供たちと夜中なのにいっしょに外に消えてしまう。母親である店のおかみさんは「すみませんねー」と悪がるが、、しばらく帰ってこない。少々心配になりお会計をすませてからうろうろと周辺を捜しまわる。すっかり酔いがさめてしまったが、ほどなくして戻って来た。「ねえ明日も遊ぼう」とうちの子を誘っている。三代目は面白い子である。
土産物
やはり城下町というのは多くの工芸品があってそれなりに楽しませてくれる。これがとなりの喜多方だと、名物のラーメン屋や立派な蔵や展示館や喫茶店は多いのだが、独自の工芸品はあまり見当たらない。
会津若松の方には、赤べこ、天神様人形、会津凧、絵ろうそく、竹細工、漆器、、、、様々そろっている。その点では仙台も同じ城下町であるからか、仙台張り子や松川達磨、土人形、仙台箪笥、、、などそろっている。上述の島根県松江も同様である。城下町的レパートリーに共通項がある。「下級武士」的なおじさんがツギハギの障子のある質素な家で、こつこつと家内制・工芸品作成にたずさわっているようなそんなイメージがある。
会津若松には「起き上がりこぼし」という人形があり、その専門の職人もいる。
専門店の山田民芸工房では販売のほかに起き上がりこぼしを体験的に制作する教室も併設している。起き上がりこぼしの創り方が段階的に提示してある。中の重しは丸い小石であることがわかった。
この会津の「起き上がりこぼし」は別に「会津の」とことわらなくともいいらしい。「起き上がりこぼし」そのものがここ会津の固有な民芸品なのだ。重しを底に入れて、倒れても立ち上がるこの種の人形・「起き上がりこぼし」は、子供向け工作でもおなじみで、全国的に分布しているものだとばかり思っていたのだがそうでもないらしい。
「こぼし」とは「小法師」のことのようである。小人の妖精みたいな存在なのだろうか。会津地方では毎年家族の数よりも1個多く購入し神棚に供えるのだとか。ルーツはどういうところにあるのかよくわからない。仙台の堤人形に「けし人形」という小さな人形があるらしいが(一説では「こけし」のルーツの一つとも目されている様だ)、見かけはそれにとても似ている。おそらく何らかの影響関係が予想される。
この人形のデザインは単純でなかなか「キャラ立ち」している。大きさは各種あるが、白い顔に黒い髪の毛と最小限の目と口、赤か青の身体のみ。手も足も無く達磨的にコロリとしているがまんまるではない。下方部がよりふっくらとしている。起き上がるための構造上の制約として必然性のある単純なフォルムになっているわけだ。
ある意味「赤べこ」よりも現代的「キャラクター」として通じるのではないかと思っていたら、最近、とりわけ震災復興で転んでも立ち上がるという縁起を担ぎ、様々に登場してきている。今後ますます会津というか福島の「顔」になっていっていいのではないだろうか。何処からともなくとってつけたような最近はやりの「ゆる・キャラ」をつくるよりも、この伝統的な「起き上がりこぼし」をそのまま使った方がずうと印象が良いと自分は思う。