磨崖仏と彫刻 2001年

 

 大きな岩へレリーフ状に仏や神像を彫りつける磨崖仏的所作は、日本に大変多く様々なバリエーションがある。
このような磨崖仏においては、もともとの岩、およびその岩をとりまくシチュエーションが、決定的なはたらきをしている。先の森に対する鳥居のように、自然信仰ではある種の森や岩や水や木が聖別され、「しるし」が刻まれることが多い。磨崖仏はその岩を彫り尽くすことが目的なのではなく、あくまでその岩の聖性を抽出するために、仏等の様々なしるしが刻まれると考えられる。ゆえに岩そのものの塊、重さ、堅さ、大きさ、形、ロケーションを損なうことなく、そういったもともとの性質と彫りつけられたものが、「二重」に重層的に両立していることが解る。
 古代ギリシャでは、時代が下るにつれ、大理石がただの「素材」として扱われていく。柱や壁の石の塊に刻まれたレリーフが、そこから自立し、単体で重力に抗いながら立ち上がる時、もともとの石の塊としての性質を失い、耐久性に富む一つの材料となっていく。西洋の「彫刻」概念では、そのようなものほどスタンダードなものとして受け取られ、それは二重性の彫刻原理とはまったく異なるものなのである。磨崖仏ではあくまで岩の塊「外部」と像「内部」が、融合せずにそれぞれ自立したまま、二重的な関係を造り出すことがその醍醐味なのである。それを西洋的彫刻が自立する以前の未熟な表現と捉えるのは過ちである。このような二重性の彫刻としての特質は、磨崖仏等のほか例えば木彫の仏像、神像においても見出せる(とくに「一木造り」の仏像等)。レリーフ、壁画とタブロ−絵画ラスコ−やアルタミラの洞窟壁画でも、洞窟という空間自体が、大自然の体内(生命の源)としての意味合いを持っていたとされている。そこに描かれたり、刻まれた動物達は、先の磨崖仏と同様の文脈にあったと想定できる。洞窟内のでこぼこ、突き出した塊の形、ボリュームに合わせたかたちでそこに動物が表現されることが多いのだが、あきらかにその洞窟内壁面が、ただの支持体とは異なるものであったことが解る。洞窟の壁面は、この世の命が生成しまた帰っていく、あの世とこの世の境界面なのであり、したがって洞窟壁面に描かれたり刻まれた造形とは、「外部」と「内部」の二重性の同時重層的表現として考えられるのである。
 また同様なことが、例えば西洋の大建築、教会等の壁面にも言えそうである。特に教会自体、「キリストの身体」として象徴されるように、今日のただのビル壁面とは意味が違うのである。私は以前フィレンツエのサンマルコ修道院で、がっしりしたぶ厚い白い壁にしみ込んだ、フラ・アンジェリコ一派のフレスコ画をたくさん見た。その簡素でへんてつのない(しかも転写されながらくり返し描かれるものも多い)絵が、その壁そのものと結びついて、大きな表現になっているのがわかった。その壁は実際生きていて、その修道院のスピリットをにじませているのにくわえ、描かれる聖書上のテーマや情景も同質の建築空間を舞台としているものが多く、聖書の世界と修道院という特殊でかつ現実の空間が、だぶってくる独特のイリュージョンを放っていた。壁はたかが壁であること、そしてただの壁画であることを隠そうとせずに、しかしそのためにかえって大きな存在となっていたように思える(例えばミケランジェロのシステイーナ礼拝堂のように、壁画のイリュージョンによって、もともとの室内空間をまったく別な異空間に変えてしまうようなものではない)。画集の図版では解らない質である。
 このような壁画あるいはレリーフの二重性は、例えば様々な墓室、石窟寺院(エジプト、敦厚、アジャンタ−、エローラ、日本の古墳等)の特別な壁面にもいえるだろう。そこでの絵やレリーフの図柄、色、形、描写のみを抽出して、「絵画」として論じることは大きな過ちを招くだろう。あくまでそれらの表現では、支持体の意味、価値と切っても切れない関係が結ばれているのである。そいう文脈で考えるとすれば、「白いキャンバス」というものもただの無ではなく、西洋文化の歴史と精神が背景につまっている(例えば「絵画それ自体」という理念)ということもできるのではないか。