人形とフィギュア
日本における人形は、本来一種の「ひとがた」としての依代の文脈にある。悪霊を憑依させて悪霊ごと焼き払ったり、川に流したり、あるいは、子供の成長を見守り時にその身替わりにもなる「ほうこ」として、あるいは神々を招き入れ幸福をもたらすものとして、人々の生活のなかに生きてきた。そのような「ひとがた」としての人形は、リアルな表情や身ぶり、描写を基本的に必要としない、ばかりかむしろ「霊」を呼び入れるじゃまになる。人間と人形の第一の違いは、人形には魂、心がないことである。そしてその魂のないうつろな隙間こそが「ひとがた」の本質なのである。人間的な心が溢れるような表現は、その逆であり本義に外れるのである。観賞するように造られた人形においては、逆にすでに何ものかが憑依し宿されているように感じさせ、それは多くの場合、その対象の真に迫ろうとする表現によってである。そして対象の「人力」による再現、模造、表現にあるとう性格において、依代的文脈からは、決定的に外れていくものなのである。
「ひとがた」ははじめからたんなる造られた物であることを隠さず、しかし、何ものかを憑依させることによって、それは偽者とは言えない本物になる。一方西洋的な「フィギュア」に典型的に見られる鑑賞、あるいは愛贋物としての性質は、それがどんなに真に迫る表現に到ったとしても、本物に対する偽物であることにはかわりないのであり、その「にせもの」としての独自な価値のもとに自覚的に確立されているともいえるのである。日本の観賞用と言われる人形ももとは、多くが依代的文脈を秘めており(そもそも「飾る」、「観賞する」という意味がもっと霊的なレベルを含むものだったのだ)、そのリアリズムの質が、いわゆる西洋流の「フィギュア」とは異なるのである。しかし、江戸時代の職人がつきつめ、進化させていった「つくりもの」、「細工もの」のそれは、完全に本来の文脈からそれ、いわゆる「フィギュア」的な魅力が強まっていったと考える。江戸時代の職人わざは人形に限らず、時として、江戸特有の身分社会の枠組みで、はじめから精神性への回路が閉ざされたところでばかりその人的能力が発揮され、いわば一種いびつな形で過剰化していったように思う。現代日本の海洋堂の高品質のフィギュアや村上隆のアート化されたフィギュアは、オタクカルチャー、アメリカンポップ、江戸職人の過剰化した細工、いわゆる日本の「奇想の系譜」といった様々な分野の関与が想定されるのであるが、日本本来の人形文化、そして造形表現の文脈からはずれていく物である。むしろ過剰に、豪華に技術がくっしされることにより、明治期に西洋人向けの輸入用に造られた、不必要に技巧的で豪華そうな装飾的美術工芸の文脈に近似しているように思う。このようなものづくりは、手先が器用な日本人が得意とするもので、かつ西洋人が一種の「オリエンタリズム」でひかれるタイプの造形であり、さらに「美術」をめぐる様々な問題を浮上させ、確かに今までにない物を産み出したといえそうだが、それにもかかわらず、大きく見て今後我々が進むべき造形の指針にはなりようがないと考えている。