二重性同時重層的表現としての「え」・水墨画 2001年
中国において確立され輸入された「水墨画」は、非西洋文化圏では、おそらくもっとも洗練し、自立的な絵画形態であったが、基本的には、掛け軸、屏風、ついたて、ふすまなどに描かれ、その形式自体が先きに述べたような重要な働きをしてきたのであった。さらに水墨画の中心的主題であるところの山水画のベースには、天地自然を神聖視する思想が流れていて、基本的には、日本の自然信仰体質と重なってくるものであったと言えよう。ゆえにいままでみてきた「二重性」の文脈同様、作り手の作為性は、根本的なところでは「え」の指し示すところと矛盾してくるのである(もっとも中国には昔からいくつもの「画論」が生まれ、絵画という自立した意識が強いのだが、しかしその画論や絵画の基礎となる精神は西洋の創造概念と異なるもので、あくまで本論の文脈をベースにしなければ理解できない次元がある)。その中で、筆はたんなる道具ではなくて、自然界の「気」を宿らせるものとされ、その「運筆」が重要視される。「気」は自然を創りだす源にある一種のエネルギーのようなもので、その「気」の憑依によって、自然界の形成と画面の形成が重ねられる。「筆」とは、ある意味で人と宇宙をつなぐ依代である。「気」が憑依した筆があらわす文字や「え」は、シャーマンが語るあの世からのメッセージを彷佛とさせる。そのようなところで中国では、筆法の最も純化した表現形式として「書」が「え」よりも上位に位置付けられつつ、つねに「え」のベースとなってきた。そのため筆線をベースにした様々な筆法こそが「絵」の基本であり、西洋絵画が「ペインテイング」という絵の具を「ぬる」ことを重視するのに対比される。
筆に「気」が宿り語りだすというシャーマニステイックな捉え方はひとまずおいておいて、私が注目したいのは、この筆法を重視する水墨画において、筆を動かしたこと、それが筆で描かれたものであることを隠さないというところである。つまりそれは、画面が生成してくる成り立ちを隠さない。それが窓からの本当の景色であるかのように再現される風景画とは異なるのである。このような人為性を隠さない筆致と、それとうらはらな、白の無ととなりあわせの生成明滅するように描かれた山水は、ある意味で「二重性」の同時重層的造形表現となっているように思える。例えばそれは仏画などに見られる、「鉄描線」という抑揚のない均一で鋭い線描と比べるとわかりやすい。この「鉄描線」は、作者に左右されないものであり、そしてその存在つまり人為性を感じさせない超越性を、そのフォルムおよび画面に与える。これは第一にその教義にそくしたフォルム、様式こそが神聖なのであり、作者は自らを殺してそれに仕えなければならない。仏の姿形は、筆致によって「なって」くるものではなく、はじめから定まったものとして明確で、完全で、固定的で、しかも超越的でなければならない。このような表現(宗教、公権力における表現に多い)は、その背景になる教義とその表現形式が生きている範囲で聖性を持続させることができる。
筆法 − 白、無
(内部) (外部)
こちらの世界 あちらの世界
という「二重性」の間に霊山霊水の画面が生成する。
このような東洋的伝統を、明治の「日本画」は十分受け継がなかった、と言うよりもそのような伝統を踏みにじることにもなった。北澤はフェノロサの主張について以下のようにまとめている。「その『改良』の重点は、色彩表現の強化、リアリズムの重視、新機軸の奨励、そしてポイエーシス(絵画は自然的に成るものではなく、人為的に作り出されてくるものであるという発想)ヘの促しの四つにまとめられる」(『境界の美術史』)。
この四つは全て、水墨山水画の根底にある精神と、まったく対立せざるをえないものだったことが今までの文脈から解る。そこでは、筆線や筆法のしめるウエイトを軽くしてしまい、筆が単に色を塗る、形を描く道具でしかなくなる。そして文人画や書や即興性を排除しタブロー化、額縁化もともなって、その「え」が「描かれたものである」という事実を隠ぺいするようになる。それは二重性の造形として成り立ってきた造形表現のエッセンスを解体することでもあった。(2001年)