日本における格別な時代・70年代前半真正アイドル歌手の成立に観る



 
何か格別な感じ


 世界的に観て1968年は重要なターニングポイントの年であると言われる。
パリで5月革命。以後世界中で学生を中心としたデモがおこる。
ベトナム戦争泥沼へ。
ソ連軍チェコへ侵入。
キング牧師暗殺。
民衆の蜂起と権力機構の抑圧。せめぎ合いがその絶頂に達したかにある。
 しかし1968年生まれの自分にとってそのような出来事は知る由も無く、あらかたのすべてが
終了したのちにものごころついたのであったと、あとから自覚する。
それは美術であっても同様で、自分が美術をはじめた時期というよりもものごころついたころには既に、モダニズム的実験とその反動のおおよそが出そろいかつほぼ終結してしまっていた。
 そのような後日の発見と自覚は、悲しみと同時にあきらめにも似た皮肉な感情を蒸留していく。

 とはいえ先端的潮流が社会的実際に反映されていくのは68年以後の70年代前半であり、とくにそれは大衆文化的諸相において顕著であったと推定できる。70年代前半であれば自分にとってものごころのついてくるもっとも重要な時期と重なる。68年の大変革を受ける形で展開する70年代前半とはどういう時代だったのか?おぼろげながらも多少の記憶が残っている。それは、自分にとってかけがえのない重要な時期であったと同じように、日本の長い歴史の中でも大変特異な、そうして大変貴重な一瞬であったのかもしれない。

 68年生まれの自分にとって、ものごころついた、70年〜75年ぐらいの期間は、何か格別なもののように体感され所与されてきた。その後数十年生きてきて、そういった期間はほかになかった。
 お茶の間のテレビにはいつも当時売り出し中の「アイドル」歌手達がほほ笑んでいた。
 「フミは天地真理とアグネスチャンどっち好きや?」と、泊まりに来ていたまだ学生だった伯父に突然聞かれた時のことを思いだす。それはミュンヘンオリンピックの深夜放送明け1972年のある早朝の出来事であったはずだ。うんーと、、、もちろん天地真理。、、やややっぱりアグネスチャンかな??と内心決められないでもごもごしていた4歳の自分。しかし彼女たちの発する特有の輝きは子供心にも無条件のものであった。それはほんの短期間で終焉してしまうことになる、この国のもっとも幸福な陽だまりの温かさを思い浮かべる。

 おそらくそれは、誰もが経験している単なる幼年期特有の親密感・絶対感として解釈されうるだろうし、実際自分も長い間そう思い、とるにたりない幼年期の個人的な感傷として解していた。が、後年つぶさに様々な事象を考察し分析するにつけ、そのような私個人的な感覚だけでは説明しきれないものではないかとの結論に達した。
 客観的に、我が国という広いフィールド全体において、この短い期間、何か特別な時期を迎えていたのではないか?。それは2度と私たちが経験することができなかった何かだ。そうしてその「蜜月」時代はほんの数年で幕を閉じてしまったのではなかったか?。
 大きな亀裂・断層が70年代中盤に見て取れる。一方狂わされ崩壊したほんの束の間の「蜜月」時代の終焉から2011年の現在までの35年は、地続きにつながっている。と自分は見る。
 70年代のこの断層を幼年期の自分は全身で感じ生物的に反応してきていた。断層によって、自分の人生が大きく狂った。今そのことに復讐をこころみようとするのではもちろんない。あるいは満ち足りた全能の幼年時代を取り戻そうと回帰しようとするものでもない(どうしてもそういう欲望と重なってしまうのだが)。



 「アイドル歌手の系譜・成立」に関して

 たまたま兄の蔵書から無断で持ち出したままになっていた雑誌「STUDIO VOICE」5号「歌謡曲の神話―ベストテン時代へのレクイエムー」が手元にある。その中に特筆すべき「南沙織から大場久美子へ。アイドル歌手の現像が確立された時代」(塚本学)という秀逸のエッセイが掲載されている。ここで記載されている内容のほとんどが、自分と同意見であり、かつリアルタイムに体感されてきた自分の幼年期の記憶に合致するものであった。つまり自分が感じてきていた「何か格別な感じ」という時代感覚は、「アイドル歌手の確立」という一大トピックに重ねられながら、ひとり自分個人の感傷的記憶ではなく、ある種の客観性を持ち得るのではないだろうか?と、このエッセイに出会って、はじめてただの冗談ではなく、まじめに自覚するに至った。

 そのエッセイの趣旨は、そもそも「アイドル」という言葉は、1971年にデビューした南沙織を起点に、70年代歌謡界においてはじめて生まれてきた一つの新しいスタイルであり、70年代後半には業界の興隆とは裏腹に、実質的にはトーンダウンしてしまったのではないかというものである。
そうしてこの「真正」のアイドルなるスタイルは、それ以前の歌手とまったく異なっていたし、70年代後半活躍するピンクレディーや沢田研二、後期山口百恵などの路線とも異なるものだったという。
 この雑誌「STUDIO VOICE」5号では、唯一このエッセイのみが際立ちはずれていた。その証拠に、「歌謡曲の神話―ベストテン時代へのレクイエムー」という全体の編集はよくありがちなごちゃ混ぜのものであり、副題にあるように1978年開始番組である「ザ・ベストテン」そのものを重要視することからしても―業界の活況とアイドル数の数に起点を置いているのをものがったており、後述するようにもっとも重要な「真正」の系譜を見逃しうやむやにしてしまうものとなっている。また冒頭の平岡正明の文章も、「1977年の李成愛日本登場から1981年あたりまでが歌謡曲史上の第3期黄金期だ」(第1期はレコード音楽が出始めた昭和初期、第2期は敗戦後昭和22年から美空ひばり登場にかけての時期)などと述べることによって、歌謡界の活況状況が主な眼目で、「アイドル」歌手の本筋、ありうべき我が国の近代性、文化のかたち等への言及に盲目なのであった。

 そういうわけで、毎年繰り返される懐かし思い出歌謡曲集なるもの、テレビ番組などを拝見していると、無性に腹が立ってくる。こりゃあひどすぎる。歴史への冒涜だ。ほんの気まぐれならまだいいが、ほとんど業界の論理しかない。何もわかってない。という焦燥感でひとり身をよじるばかりである。そもそもアイドルの時代等と言いながら、南沙織の次に松本伊代がでてきたり、シブガキ隊が出てきたり、今でも歌い続ける引退しない演歌系の歌手が幅を利かせていたりする場合がほとんどである。ノルマンディ上陸作戦に第二次大戦後のパットン戦車が出てくるよようなもので、いっきにしらけさせられる。
 一般には80年代がアイドル全盛の時代とされるようだが、後述するように80年代にはほとんど真正アイドル歌手の系譜・内実は終焉していたのであり、それは模倣と過剰な媚を重ねるマニエリスムの量による幻想にすぎない。さらに困りものなのは、かつての名曲を今いるダメな歌手が歌ったり、あるいは引退したのに復活して同様に歌ったりするのがさらに混ざり込むと手がつけられない。何が何だかまったくわからなくなってしまう。

 ということで、この場ではあえて、余計なものははぶき、基本ラインのみを抽出し、まずは提示してみたい。
70年代前半の「真正」なる空気をまずここに再構成してみる。

しかる後、 この時代(70年台初期)なぜ「アイドル歌手」が確立したのか?なぜこの時代じゃなければならなかったのか?さらにその「アイドル歌手」なる文化のかたち・性質・美意識とはどのようなものであったのか?さらにはどのような「アイドル歌手」が真正の系譜であり得るのか?そうしてその確立された「アイドル歌手」なる現像がなぜ数年をして早くも崩れ終焉を迎えてしまうことになったのか?という問題を考察していくこととする。
 それは、「アイドル」の考察を軸とすることで、自分自身がこの世に生れ、はじめてのぞき洗礼を受けてしまった「何か格別な感じ」に対する考察を可能とし、同時にその後の「格別じゃない」世の中に関する考察をも可能ならしめるものと期待している。




 
真正日本アイドル歌手の系譜



南沙織

 ことの発端はやはり辺境地域から始まった。
 1971年、沖縄からやってきた南沙織がデビューした。
 この年沖縄の本土復帰が成立した。
 この関連性は偶然ではない。後述するがまさに「戦後」の終了であり、失われた「南」・挫折した南進・南方への欲望が再生し、地獄としての戦争の記憶が楽園イメージへ回転・回復したのであった。
長髪黒髪、小麦色の肌、純真なその立ち振る舞い。
デビュー曲はそのものずばり「17歳」。
17歳の南沙織が「17才」を歌うのである。以前の歌謡曲、歌手ならば、自分よりも年上の世界、ものごと、心情が題材になり歌われてきていた。あるいは何らかに海外モードに基づいた意匠がほどこされていた。あるいは人生の悲哀、女性の色香、過去や歴史を漂わせていた。例えばその直前に一世を風靡していた藤圭子などはその典型である。北海道や東北を親子でドサ回りしてきた悲哀が全身ににじみ出ている。
 しかし南沙織「17才」にはそれら類型パターンが当てはまらない。沖縄からやってきた剥き出しの姿・あるがままの、少女と大人の中間・17才の女性がそこにいた。歌唱技術も、ことさら何か専門的学習をしてきたほどのことはなく、例えば以前の歌手に見られた、唱歌風、声楽風、シャンソン、ブルース、演歌、民謡、、といった特定のスタイルに基づくといったものではなかった。
 しかし現在の視点から見れば当時揶揄された様な「素人」的であるばかりともいえず、それがなんなのか、実は最も重要な問題であるように思われる。いみじくも「17才」の作曲者筒見京平(後述するようにこの真正アイドル歌手の系譜のおおよそ半分が彼の作曲であり、この系譜を陰で構築した最も重要なクリエイタ―と言えるだろう)が「匿名性」と言っているのは意味深長であり、ある意味でジャポニズムとは異なるレベルの、我が国純正な市民芸術のひとつのありうべきあり方とも言えるのではないだろうか?そしてそれがもしかすると我が国の近代文化の実質的な姿であった可能性すらある。
 この「17才」はデビュー曲でありながら南沙織の代表曲となり、その後もそれ以上のものは生まれなかったように感じる。自分にとってこの曲は、何かの付録にもらった赤いペラペラの簡易レコードで、お粗末なプレイヤーにより、子守唄の様にくり返し聞かされてきており、幼児体験そのものの曲として、もはや細胞の一部と化してしまっている。
 しかし当時の記憶をたどると南沙織の印象は、色黒である意味がわからずにあまりいいものではなく、それほど好きではなかった。現在あらためて聞いてみると、その独特の「根明・ねあか」とも言うべき明るい声はやはり当時の南国ならでわのものであり、他に追随をゆるさないものであったことがわかる。


天地真理

 ところでもっともこの新しい時代の風を印象付けたのが同じ年1971年デビューの天地真理であった。
 それ以前の時代を知らない、ものごころついたばかりの自分がそう感じていたのだから不思議なことである。天地真理が出てくると、いっきに場が明るくなり和んでゆく。その笑顔と変わった声、名前、髪形などが相乗効果を生み出し、その存在を際立たせていた。天地真理こそがこの時代―特に1970年代初頭における、中心であり主役であった。そもそもこのアイドル歌手真正の系譜は、天地真理デビューの1971年にはじまり1977年の天地真理休止にほぼ終了していることから、彼女の存在が一つのバロメーターとなっていると考えて差し支えないだろう。
 なんといっても名前が「天地の真理」である(この名前は梶原一騎原作の漫画ヒロインの名前をわざわざ頼み込んでもらいうけたとのこと))。この神聖で国教的なニュアンスと「まりちゃん」という庶民的でバタ臭い語感がほどよく重層していた。天地真理がいてはじめて沖縄の南沙織や香港のアグネスチャンが存在しえるのであった。もともとは「となりの真理ちゃん」という存在でデビューして、身近な親近感を売りにしていたらしいが、自分の個人的な当時の記憶、現在の印象からすると、少々異なっている。身近な親近感ということでは後述の浅田美代子の様な存在こそがあてはまるだろう。天地真理の場合、単に「身近な」だけではいいあらわせない特有な何か―「何か格別な感じ」(何度も繰り返すようだが)、、いわゆる「オーラ」を持っていた。おそらく当時の海外モードの模倣であろうその髪型なども、等のオリジナルとは別物として作動し、ちょっとモダンで、身近だが日本的情緒もとびぬけた、ある種無国籍などこでもない明るい市民生活を抽象化した日曜日の朝(日常の束縛・普段の諸条件・から自由な)のような存在であったかもしれない。
 多くのレギュラー番組を持ち一番の売れっ子であった天地真理に対して、同じ所属事務所であった小柳ルミ子が強力に嫉妬していたというが、おそらくどのように努力しても天地真理にはかなわないし、マネすることも不可能であっただろう。*(70年代初頭において、南沙織、天地真理、小柳ルミ子の3人は、同じ71年トリオと称されていたらしい。しかし小柳ルミ子は宝塚出身であり、その芸風もやや年長者向けの演歌調のものが多いので、このアイドル歌手の系譜からは除外されざるを得ない)。
 現在あらためて天地真理の当時の映像など見るにつけ、その曲に聞き入ることにやや困難を禁じ得ない。他の真正アイドルに比べ見劣り、聞き劣りするのは自分だけだろうか。近年評価も上がらず、やや忘れられようとしているのは、引退後の様々な愚行だけが理由ではあるまい。なにか魔法がとけてしまったかのような興ざめ感漂うものがある。「恋する夏の日曜日」は1973年の曲。



浅丘めぐみ

 浅丘めぐみこそもっとも「真正アイドルの現像」なるものを最初に確立・具現しえた歌手であると感じる。
その容姿、雰囲気、歌唱力、振付・身のこなし、衣装、、、全てバランスが取れており、ある意味でのスタンダードを印象づける。後続の「中3トリオ」などと比較しても見劣りしないばかりか完成度は浅丘めぐみが上である。
 ほとんどの曲を筒見京平が担当し、現在聞いても十分満足しえる曲がそろっている。
 「私の彼は左きき」などは、典型的な無意味、無テーマ、非歴史性、無国籍な秀逸した作品であろう。
デビュー曲「芽生え」の画像を現在みると、まさにこの時代70年代前半の雰囲気をよく伝えてくれていて感動的である。
しかし当時の記憶をたどると、個人的には浅丘めぐみにはあまり良い印象は持っていなかったのだが。



アグネスチャン

 アグネスチャンのデビューした1972年は田中角栄が日中国交正常化を実現した年である。
太平洋戦争の発端となった中国との国交をようやく回復し、まさに「戦後」清算を印象付け、あらたな展望を開く、戦後日本の頂点の年であったと捉えられる。そしてこの年パンダがプレゼントされた。
 アグネスチャンが「外国人」でありながらデビューを成し遂げ、人気をはくした背景には、そのような社会的な影響のほかに、日本人の伝統的中国好きが隠されているだろう。中国趣味、文人趣味へのあこがれは、江戸時代から夏目漱石、戦中戦後にいたり絶大であり、それを代表するのがこのアグネスチャンかもしれない。
しかし、幼年期の個人的な記憶では、アグネスチャンはあくまでもアグネス「ちゃん」であり、外人―香港(当時イギリス)人であるという認識にはおよばなかった。むしろその髪型やおでこ、立ち振る舞いは、他の日本人歌手よりも古風なものがあり、それほどに異国情緒を感じるものではなかった。チャイナドレスできりりと引き締まった中国女性的イメージとは違って、白いハイソックス、たまご型の輪郭、「アグネス」という語感が洋風化した育ちの良いお嬢さん的雰囲気を醸し出してもいた。
 「ひなげしの花」の「おっかのうえーひんっなげしーの、、、」という印象的な歌いだしのこの曲は、アグネスチャンを象徴する一曲であろう。チャイニーズ特有の節回し、イントネーションが好きな自分の原点にはおそらくこの曲があったのかもしれない。最近アグネスチャンの曲をいろいろ聞くにおよび意外に質が高いのに驚かされる。



浅田美代子

 浅田美代子は素人同然の水準の歌手として、当時から驚かれていたと記憶する。音程が外れ発声ができてない。逆にその天然な素人性が持ち味となった。人気ドラマ「時間ですよ」でお手伝いさん役として人気が出て、ドラマ内で「赤い風船」を歌い、そのまま歌手業とそれがうまくリンクしていた。まさにどこにでもいるような身近な親近感。感じのよい庶民的美徳をにじませる国民的「お手伝いさん・下働き娘」像を形成していた。現代ではそもそもそうした「お手伝いさん」なる存在が一般的ではなくなっている。
 あらためて現在当時の映像を見てみると、当時感じていたほど歌がひどいとは感じずやや意外であった。現在、それ以上にひどい歌手が乱立しているという事情にもよるが、そもそも素人の様なものなんだから、慎み深く歌う分には、上手くなくともしょうがないとの共感意識が働くからなのかもしれない。あるいはもしかして意外に上手なんじゃないかと思わせるふしもあり、さらに言えば、やはり筒見京平の作曲が良いのであって、彼女の天然な持ち味をうまく引き出しているのである。


森昌子

 1971年にはじまる「スター誕生」からデビューした最初のアイドル歌手であり、森昌子をテレビで見て感化された秋田の桜田淳子、横須賀の山口百恵が後に続く。この三人はスター誕生から生まれ「スタ誕・花の中三トリオ」と言われる。
 いよいよ日本真正アイドルの系譜のピークがやってきたわけである。
 ただ森昌子単体で見てみるといかにも地味である。当時の記憶では森昌子が歌い始めると、なぜか母が「えらいねー」と感心した。アイドルというよりは、一生懸命がんばっている田舎の小さな女の子という雰囲気を持っていた。ただし歌唱力は折り紙つきで、こぶしのある澄んだ声質は、後年もう少しヒット曲が生まれてもいいのにと思わせるものがある。「せんせい」は、やはりはじめにして最高の代表曲。もはや現代ではありえないレベルの和風の情感がにじみ出ている。演歌調の歌い手であることから、このアイドル歌手の系譜においては実は異質的な存在である。森昌子がいわゆる「アイドル歌手」と呼ばれるとすれば、あくまでもこの「中3トリオ」と呼ばれたデビュー当時の一時期に限定されざるを得ない。


桜田淳子

 スター誕生で歴代最高の札(21社)が挙がったという伝説のデビューを飾る。我が東北の生んだ最高のアイドルである。
 その容姿、表情、声質、立ち振る舞い、態度、全てが愛嬌の塊であり、スター性に富み過ぎている。おそらくこれは異常なことで、その後の破たんを暗示してさえいる。いずれにせよ桜田淳子の愛嬌、明るさ、幅の広さがあってこその、森昌子の歌唱力、山口百恵のクールさであった。
現在あらためて考察してみると、その声や歌い方に天然で強力な個性があり、後年の女優業の成果もふくめ、いかに豊かな資質の持ち主であったかが認識できる。
 参考資料の動画は、リアルタイムで子供の時見ていたもの。桜田淳子「私の青い鳥」と言えばこの青緑の風変わりな衣装が印象深い。
ついつい「がんばれじんこー」と言いたくなる。


山口百恵

 現在なお人気おとろえず、他の多くのアイドルが醜く復帰しているのをよそに完全な沈黙を守り続け伝説化している「菩薩」である。
 山口百恵の一曲としては、やはり「ひと夏の経験」以外ありえない。
 あまずっぱい70年代の暑い夏の日々を思い出す。この曲ほど過激な歌詞、ドラマチックなメロディーを知らない。ものごころついて間もない6歳だった自分の脳は、何も解らずに一変に洗脳されてしまった。当時世の中のいたるところでこの曲が流されていた。くりかえし鼻歌に歌い、最も細胞化されることとなる。ただし当時の個人的な印象としては、山口百恵本人に対しては、魚の様な眼が不気味であまり好きにはなれなかった。アイドルの系譜から言えば、強烈だが異端的なポジションであり、いわゆるこけし界における肘折系・佐藤周助といったところか(この例え解かる人はほとんどいないと思うが)。
 山口百恵はその後成長展開し、新たなスタイルを形成し、いわゆる、沢田研二、ピンクレディーとともに三つ巴の歌謡界絶頂期をつくりだしていくのだが、いわゆる正統派アイドルの範疇からははずれていく。というか、はずれていく―成長していく―ということによって生き残っていくのである。


岩崎宏美

 1975年、この真正アイドルの系譜に早々と終止符を打つ歌手がデビューする。
 天才・岩崎宏美である。
 純真な若々しさと大人びた貫禄を同時にそなえ、高く強い豊かな声量、そして歌唱力。
これまでのアイドル歌手を全て相対化してしまうような「本格的」歌手が突如現れたのである。
いよいよ最終章に来たと当時7歳の自分は本能的に察したのであった。
 これから以後は、ひねったり、崩したり、媚びたり、余分に加えたりするほかないのである。
「ロマンス」はやはり岩崎宏美の最初期の歌でありながら最高のものである。作曲筒美京平、作詞阿久悠。意外に珍しい巨匠同士のコンビ。
山口百恵同様に後年さらに展開し大成していくのだが、結局それはこの「ロマンス」の延長線でしかないとも言えるだろう。
参考資料の動画は自分もリアルタイムで見ていたもの。最も岩崎らしい映像であり、凛々しくかつ憎らしくかつ神々しく輝いていて素晴らしいの一言に尽きる。
 

太田裕美

 太田裕美は言ってみれば1975年の「木綿のハンカチーフ」につきる。この曲はちょうど小学校2年生か何かの付録の簡易レコードになってきていたかして、くり返し聞き、南沙織の「17才」同様自分の中で細胞化されてしまっている。漫画ガキデカのコマワリくんが苦労してはじめて買ったステレオではじめて聞いたのが(待ち切れず路上でコンセントをつなぐ)まさにこの曲で、「恋人よ―僕は旅立つ―」と悦に行っているところをダンプに轢かれ「アフリカゾウが好き!」と叫ぶ名場面を思い出す。
 アイドル系譜のピークとも言うべき中3トリオにおくれてデビューしたということもあり(デビュー自体は岩崎宏美より早い1974年)、やや従来のアイドル路線からはずれ「フォーク」的色合いをあわせもつと言われるが、そういった路線が本当に良かったのかどうなのか。後年もうひとつヒット曲が出なかったのが不思議で残念。あまりにも特徴のありすぎる舌足らずの声質が歌の広がりを邪魔していたのかもしれない。
 この「木綿のハンカチーフ」自体どこかノスタルジックであり、いわゆる天真爛漫なる真正アイドル時代の終焉を予感させる郷愁をともなっているように感じる。作詞の松本隆はこの曲でその後のスタイルを形成しえたと言っているが、そういうことからしても松本隆の活躍は真正アイドル終焉後に本格化するのである。
 当時、太田裕美は大学生をはじめコアなファンが多く元祖大学祭の女王と呼ばれていたらしい。そのわりに良い動画がないので、付録として1980年の曲ではあるが、個人的に好きだった「南風」、さらに「さらばシベリア鉄道」等を挙げておくこととする。やはり70年前半と雰囲気を異にするので、後でおまけで観ていただければと思う。



キャンディーズ

 キャンディーズほどコンスタントに幅広く活動し、人気を極めたアイドル歌手もいない。
「8時だよ全員集合!」などではレギュラー・アシスタント的役割を担い、コメディーや脇役をもこなし続け多くのテレビ番組を支え引き立ててさえきている。そういうわけで当時の自分の感覚としてはキャンディーズにとりわけ「ありがたみ」を感じてこなかったわけである。後年キャンディーズの残した作品を考察するにあたり、その質の高さに目を見張るものがあり、解散イベントで当時あれだけ騒がれた意味がようやく認識できたのであった
 もちろんキャンディーズと言えば「ラン」につきるのであるが、そのはじけ具合と存在の象徴性は、誤解を恐れずに言えばさながらビートルズのジョンレノンに比されるだろう。また「スー」が中央でメインボーカルをつとめる曲も独特の粘着的凄みが出てすばらしい。
 岩崎宏美デビュー後の真正アイドルの系譜の終焉を、先延ばしにしつづける様に活躍し続け、時にピンクレディーの様な邪道と闘いながら、自らの芸風を貫いていったのはあっ晴れ以外の何ものでもない。1977年「ラン」が「普通の女の子に戻りたい」と引退宣言をし、1年あまりの引退コンサートツアーを展開するなか、この真正アイドルの系譜の幕はついに閉じられる。70年代の最も良い部分、というよりも後述するように日本の稀なる近代性を具現しつつともに終焉したのであった。
 コンスタントに(特に「年下の男の子」以後)人気を博したキャンディーズではあったが、売上一位になったのは最後の「微笑がえし」のみ。
しかしまさにその事実こそが、キャンディーズの曲の真価を証明してくれているように思われる。上質な作品とはなかなか一度に受け入れられないものであり、「通俗的な」インパクトに欠けるものである。それゆえに一位になった(させてもらった)ラストの「微笑がえし」とは、それ以前のキャンディーズの曲を題材とした引用・パロディ的作品であり、どちらかと言えば正統なキャンディーズ的路線から外れる例外的なものであり、言ってみればファン・マニア向け通俗的趣向の特殊な作品であり、むしろ70年代前半の真正アイドル路線以後の傾向(邪道路線)に属するものであった。とはいえそれはあくまでも作詞や振付に関してのことであり、作曲自体は当時の微妙な心情をよく表現している。
 「年下の男の子」、「内気なあいつ」、「春一番」など、いわばもっとも「キャンディーズらしい」曲を手がけてきた穂口雄右によって、ラストの「微笑みがえし」が委ねられたことにより、キャンディーズというグループの歴史に、ある種一貫した筋が通ったように感じる。後に穂口は次の様に語っている。「キャンデ ィーズの歌う作品がエバーグリーンになるような創作方針をつらぬ きました。音楽は刺激だけに片寄ると一過性になり、普遍性を高めるとヒット性が下がります。作曲家として最も苦労した点は、3次元 の広がりと時間軸との融合であり、またそのことが楽しみでもありました」 。「キャンディーズはピンクレディとは違います。音楽的で、上品で、そしてよりミュージシャンに近いグループです」。彼こそはもっとも「キャンディーズ」なるものを理解し、「構築」し、愛した一人だったと言えるかもしれない。この点こそ「真正日本アイドル歌手」なる文化のかたちに内在する、もっとも良質な部分であったと言えるのではないだろうか。

 ところで余談ではあるが、あるはなしによれば当初は、「スー」の代わりに同じ事務所であった太田裕美がキャンディーズの一員に入っていたそうだが、デビュー直前に代わったという。もしもそうなっていたらまったく異なるユニットになっていただろう(その場合なんと全員、山羊座生まれということになり、ウルトラ真面目グループになっていただろう。もちろんス―も大変まじめな性格だったらしいが。いずれにせよ華やかな見かけとは裏腹な、地道で一本気なキャンディーズの性質はひとつの良き時代を象徴した)。
 名曲ぞろいのキャンディーズの作品の中からあえて厳選して5曲あげておいた。
 特に「危険な土曜日」のライブ映像は圧巻であり、激しく大きな振り付けといい、「くるくる危ない土曜日―ハア!」という掛け声の迫力といい、まさにひとつの時代が終わりにひんする鬼気迫るものがある(曲自体は初期のもののなだが)。浅丘めぐみの「芽生え」からわずか5年たらずでいかに遠くまできてしまったことかと思い知らされる。
 最後にあげたのはやはりなんといっても1976年の「春一番」(ライブは解散まじかの1978年蔵前版と解散ファイナル版)。長い長い年月をかけ、様々な文化をそしゃくし続けてきた我が国文化のなれの果てというかひとつの到達点がここにある。和風の美意識が依然脈打っている。
 「もうすぐ、は―るですねえ」の「はー」は、まさに民謡・盆踊り以来継承されてきた民族的生命の鼓動そのものではないか。






 参考資料として順次ユーチューブを見て行っていただければ、70年代前半のあの「何か格別な」時代の空気が少しずつ体感されうるであろう。
なるべく「順番に」、「飛ばさずに」観て聞いて欲しい。



 「参考資料」ユーチューブより


南沙織1971 ―「17才」「潮風のメロディー」

天地真理1971〜「恋する夏の日」

浅丘めぐみ1972〜「芽生え」「私の彼は左きき」「女の子なんだもん」

アグネスチャン1973〜「ひなげしの花」「草原の輝き」「小さな恋の物語」白い色は恋人の色

浅田美代子1973―「赤い風船」

森昌子1972―「先生」

桜田淳子1973〜「私の青い鳥」「黄色いリボン」

山口百恵1974―「ひと夏の経験」―1―2

岩崎宏美1975―「ロマンス」

太田裕美1975―「木綿のハンカチーフ」。   付録1980― (「南風」「さらばシベリア鉄道」。*付録の付録(大瀧詠一版小林旭版

キャンディーズ1973〜「あなたに夢中」「年下の男の子」「やさしい悪魔」「危い土曜日」−1―2「春一番」−1―2―3





 
70年代前半とは


 68年の世界的な大衆消費社会の全面化、民衆蜂起・変革への熱気を受けて展開する日本の70年代初頭とはいかなる時代であったのか?
 はためには学生運動が挫折し、日米安保が継続され、55年体制が定まった感のある時代である。68年ソ連チェコ侵入の失望感、72年には追いつめらた連合赤軍が浅間山荘事件を引き起こし、むごたらしい終局をお茶の間にさらし続ける。
 一方68年日本経済がGDP世界第2位に。69年アポロ月面着陸。70年大阪万博、東京ビエンナーレ(美術)。72年沖縄本土復帰。札幌オリンピックにおける日本の活躍。田中角栄における「日本改造計画」。日中国交正常化。パンダ日本初登場、、、という具合に反動的かつ、「戦後」の清算。経済発展、国力の再生・充実、社会の安定が意識付けられる。ついでに言えば71年にはNHKのテレビカラ―化、カップヌードル、マクドナルド1号店が開始されている。民俗学的にも日本列島の多くの地方がこの60年代後半〜70年初期に実質的な近代化・資本主義消費社会へ急速に変貌していったと言われている。この時期はある意味1000年単位での大変革期であったとさえ言われる。当時、「3時のあなた」で浅間山荘事件がリアルタイムに報道されており、戦中派である母が「何でこんなに平和なのに、わざわざそれを壊そうとする人がいるのかね―」と語るのを、まったくそのとおりだなあと感じながら茶の間でお菓子を食べていたのを思い出す。
 こういった、民衆蜂起の熱気、挫折と感傷といった社会感覚、それに相反する様な実質的安定社会がまさに未来永劫続いていくかの明るい雰囲気が、奇妙な化学変化を起こす危うい時代背景をもとに、真正「アイドル」歌手なる現像が生まれ、人気を博したと考えられる。
 まさに「アイドル歌手」とはこの時代の象徴であり、冒頭の「何か格別な感じ」を体現した存在であったということができる。
 歌謡業界的にも、それまで年長者向けに設定されてきたマーケティングを、年少者・10代中心に軌道修正しはじめる時期に重なっていたという。まさに民衆の時代真っただ中であった。
 後年、55年体制のおかげで享受しえたかりそめの安定と明るさであったと揶揄されることもあるのだが、当時の実感ではおそらく異なっていた。戦後から復興し、貧しさからようやく這い上がってきた庶民感覚においては、自らの努力で勝ち取ってきた、実質的なまぎれもない「格別なものとしての」現実感覚であったのではないだろうか。

 もともと非国際的、非政治的、非歴史的感覚に終始する日本列島固有の文化資質は、貧困から脱し、足元での政治抗争の終息したこの「安定期」に、持ち前の民族的資質を大きくのばし豊かな実を実らせうる可能性があった。その意味で言えば例えば戦前・昭和初期の日本社会にあっては、当時の帝国主義的構図の中、富国強兵、軍国主義、思想統制、かつあいかわらずの庶民層の貧困をかかえ、十分な「近代性」を社会生活や文化レベルにおいて発揮できなかったと言える。だからこそこの70年代初頭において、我が国の歴史上はじめて(非西欧国家においてはじめて)ほとんど唯一の「格別なる時期」(これを実質的な意味での「近代性」と言ってよいのか、あるいは近代社会と大衆消費社会が、この時同時に実現してしまったということになるのか)を迎えることとなったといえるのかもしれない。このひと時、はじめて我が国民は微小ながらも、しかしかけがえのない実質的な「自由」と「余裕」と「自信」をえることができたのである。
 そうした反映の一つとして70年代初頭の大衆文化・歌謡界における「アイドル歌手」の形成があったと言える。

 さながらそれは自然信仰土壌における初々しい「巫女」的存在を基軸とした古い文化の近代版なのかもしれない。
 そこには、世俗的なドロドロした情念があってはならない。政治的なメッセージや歴史的因果、もちろん思想的な精神性も必要としない。「福娘」のごときほほ笑みをかわし、身近でありながら、神に仕える清らかさと気高さがあればよい。
 まだ未婚の清らかなる娘達が固有の土地土地からメディアへ召喚され、ある一時期「アイドル」なる偶像に使えるのである(大衆社会においては、お客様・民衆が神様になり、アイドルとは崇められる偶像でありながら、実質的にはその民衆に使え・身を捧げていくという反転した鏡像関係にあると考えられる)。
 その数千年以来の我が風土の構造がこの時期までは確実に生きていた。まさに70年代前半とは、見出される巫女が巫女であり得た最後の時代と言えるかもしれない。
つまりそれは、前近代と近代が入り混じる―民俗と高度資本主義経済がきわどく手を結び得たつかの間の「蜜月」期でもありえたのである。


 時代の転換

 そのような70年代前半の蜜月時代は長くは続かない。
72年の浅間山荘事件後に次々集団リンチ殺人が発覚してくる連合赤軍の様に、次々と各分野で破たんが露出してくる。
73年には第一次中東戦争をきっかけに、第一次オイルショックが勃発し、近代社会、経済をささえるエネルギー源が有限かつ早晩枯渇するものであり、さらには他国に依存しなければやっていけない自立できない日本の脆弱な立場を思い知らされる。さらに74年には金脈疑惑で田中内閣総辞職(76年ロッキード事件で田中元首相逮捕)。ニクソン大統領・ウォーターゲート事件などで資本主義陣営―民主政治への不審が強まる。さらには75年サイゴン陥落。アメリカの敗北でベトナム戦争終結。70年代前半の好調さは、もともとさしたる理念やイデオロギーあってのことではなく、単に経済的繁栄からくる多分に雰囲気的なものであるから、その転落も急激なものだったのではないだろうか。
 70年代初頭のある種の到達感。未来への信頼。幸福感は、実はかりそめの不安定なものであり、多くの偽善と装いで繕われたものであるとの認識に至る。もはや何事も無批判に称揚されることはありえず、ある種皮肉めいた冷笑をともなわざるをえない。
 このような社会の暗転、時代の変化は、我が国文化の資質としての明朗率直、天真爛漫であったはずの天然自然なる美意識と大いに齟齬を生み、せっかく自信と共に歩み出した、戦後日本の「近代」というもの、市民社会というものの美意識を早々と屈折させてしまったのである。
 73年王、長嶋の活躍による巨人9連覇が実現した73年をひとつのピークとし、翌年74年―昭和49年には早くも下降し、75年ぐらいを区切りとして永遠にその「何か格別な」時代は終焉したのではなかっただろうか。

 その転回は、本論で取り上げる「アイドル歌手」の現像の推移に顕著に表れている(プロ野球でも75年中日優勝。長嶋引退。76年なんと赤ヘル広島が優勝。巨人球団創設初の最下位。この壊れ方は顕著である)。
 75年の岩崎宏美、太田裕美を最後に活力が衰退していくのである。76年「木綿のハンカチーフ」の人気、キャンディーズの「春一番」で最後の有終の美を飾る。
 例えばホリプロが同じ76年に新しいアイドルを開拓しようと「スカウトキャラバン」なる企画で1年間全国を行脚しながら、やっとデビューさせえたのが榊原郁恵だったことからもその急激な衰退をものがたっていよう。制度化されすぎた業界の目が曇ってしまったのか、人材が枯渇してしまったのか。
 同じこの年、「アイドル歌手の現像」からずれるばかりか、それを破壊していくことになるピンクレディーがデビューしている。77年キャンディーズの「普通の女の子になりたい」引退宣言。漫画「マカロニほうれん荘」開始。78年ザ・ベストテン開始。キャンディーズ解散。
 この転回は、仮構された偽りの安定―戦後日本のウブな近代性が、「現実」に直面してもろくも歪んでしまったたとも言えるが、むしろ事態の悪化が、天然自然の(匿名性で無国籍でニュートラルでラジカルな)強度を持続できなくなってしまったと捉えた方が良いように感じる。76年以降、「真正」路線が活力を減退せしめる一方、時代の主流は、ひねり、過剰な仮構、パロディー、アイロニー、模倣、、、つまり今日の現在に蔓延している「邪道」路線に道が譲られていく(もちろん70年代前半でも、山本リンダやフィンガーファイブなど真正・邪道同時並行的に混ざり合ってはいたのだが)。一見真正アイドル歌手の系譜・再生に属する様な松田聖子、小泉今日子、中森明菜、、も、既に内実は変質しており、みな70年前半に打ち立てられた「アイドル歌手」なるものの現像に関する意識的な再生産でしかなかった。近年これら真正・邪道・模倣ひっくるめて「Jポップ」として呼称してしまう傾向にあるが、はなはだ遺憾である。まるでアメリカユニオンのひとつの州であるかのような植民地的感覚は、国辱ものですらあるように自分には思えるのだが。いずれにせよ「Jポップ」の呼称では、真正の系譜・我が国固有のありうべき土壌・伝統的継続性が見失われてしまい、単に「ポップ」におけるひとつの地方的な展開・差異として取り扱われざるを得ない。

 
あるがままの、未加工な、自然な、、、―格別な時代・格別な文化・真正の系譜

 ほとんど素人同然の中学生が、突如スター歌手になる。とりわけ既存の特定の音楽スタイルを専門に学んだわけでも、それらに立脚するわけでもない。修練されたプロフェッショナルな技術や磨き抜かれた才能や個性とは異なる、素人としての初々しさ、未成熟なものとしての新鮮味、すれていない清純さ、持って生まれた素のリアリティ―、完ぺきではない固有性、天然率直な清らかさ、、、、をふるに生かした自然な「つくらない」美意識。こういった70年代前半に生み出された、「アイドル歌手」による我が国歌謡曲中の一つのスタイルは、国際的にも大変珍しいものであり、ひとつの日本ならではの固有な文化を形成するかに見えた。
 それは上述したように、一種の「巫女」的な構造を持っており、自然信仰的体質を背景とした、純真で天真爛漫な生命活動に対する聖視を内在させた伝統的な美意識であった。
 そのような70年初頭に登場してきた特質は、例えば美術の分野とも不思議なシンクロをしているのが見て取れる。
「表象」という「ほこり」をはらい、あるがままの世界へ出会おうとした一連の作家達(「もの派」)。未加工な素材を剥き出しに提示する。伝統的なスタイルの放棄。「つくる」という行為との距離。作家的な態度の放棄。これらは60年代後半から70年代前半に顕著な動向である。そのようなラジカルさ、方向性は、戦後期〜60年代の影響と反動を踏まえつつ、それをもはや乗り越えた延長線上での、あらたな飛躍であった。それは当時作家達本人が述べている様に、海外動向の模倣を超えた、東洋的・日本的資質に連結していこうとするものでもあった。
 専門的な美術的素養を踏まえつつも、そのバックボーンを捨て去りあるいは相対化し超越しようとしながら、非伝統的な、非美術的な、同時に身近な、手が加えられていない未加工な「素材」を扱い、世界の「あるがまま」の姿―ある意味で「匿名的」な構造を浮き上がらせようとするその所作は、例えば先述した「匿名性」を標榜する才能豊かな作曲家、作詞家達が、非業界的、まだ手垢に染まっていない天然素材を見出し(それは60年代の造反する民衆の時代を経る形ではじめて到達できた、やはりひとつのその延長線上でのラジカルな飛躍であった)、その「あるがまま」の資質を引き出していく「アイドル歌手」の構造と重なっていく。
 それはある意味で、この列島がようやく行き着いた(日本ならではの)「近代」市民社会が体現する(しうる)文化の基礎となるもの。内発的かつ固有な表現を可能にする、唯一の、しかし大変肥沃な、土壌となるべきものだったのではないだろうか。

 しかし、70年代中盤から早くもその構造が狂い出す。それは先ほどから述べている、時代の世相の暗転。「アイドル歌手」の自意識化・再生産。歌謡界自体の過度の制度化などが原因しているとみられる。
 そこでは、「あるがまま」の強度。例えば「天地真理・あまちまり」―「天地」の「真理」としての清らかな美意識・土壌が維持できなくなる。「巫女」が職業的な芸者になりさがる。
 天然の素材を扱う「つくり手」は、今までとは違って、過剰な装い、加工を必要不可欠なものとせざるを得なくなる。
 同時に天然であったはずの素材も急激に変容・汚染されていく。それにはテレビの普及が拍車をかける。子供の時から既に確立されたアイドル像を意識・模倣するようになる。アイドルなる現像の繰り返される再生産・素材の自己運動により、天然なる純正の資質は汚染され、壊れ、もともとの固有性は薄まる。初々しい聖性は世俗化され「つくりもの」になりはてる。
 90年代にはいると、雨あられの様に外来モードに浸りながら育つため、土壌や天然素材に内在していたはずの和風の資質も崩れ出す。70年代前半ならば「無国籍」を標榜していたとしても、天然素材そのものからは、固有な風土性がにじみ出していた。既にこの列島の国土―素材そのものが「汚染」され、あらかじめ別物に変容されてしまうようになった。キャンディーズではまだしっかり生きていたはずの持ち前の素材的風土―例えばその発声、言葉使い、身のこなしなどの基礎的・土壌レベルで、汚染・破壊・変質・まがいもの化が進行し、もはや帰ることのできない地点に落ち込んでしまった。未加工な天然素材を入手できなくなるのである。

 キャンディーズのランが「普通の女の子に戻りたい」と言って、芸能界を去ったのは、さながら天然素材が、作り手の思惑を超えて、自らの意志で―「素材」であることをやめて、天然世界へ帰還したようなものである。それは天然であればこそ。芸能界へアーティストとして自律することは選ばずに、普通の女の子―あるがままに―戻ることを選んだことこそ、70年前半に世界史上稀なる展開をしめした、日本の「アイドル歌手」なる真正の系譜としての象徴的幕引き足り得ている。
 巫女は神に仕え、またもとの自分の育った村へ帰って行くのであり、普通の村娘としてその後の人生を生きるのである(その後其々復帰してしまうのだが)。
 もはや「アイドル・偶像」―民衆に使えることができる純正の素材はみあたらない。
 かくて「格別な時代」は終焉し、「あたりまえの日常」がどこまでも続いていくこととなった。


          2011・3月
 
*この文章をアップし終えて数日後の昨夜2011、4、21キャンディーズの「スーちゃん」こと田中好子さんが亡くなられました。
 謹んでご冥福を祈りたいと思います。
 この文章は3、11の東日本大震災前から書き始め、震災直後一時中断を余儀なくされたのち、ライフラインの途切れた長い被災生活の途上、こつこつと継続され、お粗末ながらひととおり書き終えたものだ。
 この文章作成を通じながら、70年代初頭のあの「ひだまり」のあたたかさに多少とも触れることができ、苦しい被災生活に心の安定をもたらしてくれ、かつ帰りゆくべき我が国のこころを指示してくれていたような気がした。
 皮肉にも現在なお事故進行中の福島第一原発の開始は、1971年アイドル歌手の系譜誕生のまさにその年であった。何の因果か、コインの表裏が鋭く(まったく鋭く)回転している、、、。これはおそらく偶然ではないだろう。