キッチュと芸術 2001年

 

 明治以前の在来の複合的な表現のありかたの真価は、美術制度の確立とともに、解体され、忘れ去られ、顧みられなくなった。「美術」のルールによって見えなくなってしまった意義を考察していくにあたって、ここでは、過去にそのような美術のヒエラルキーの、外側に立ってものを見つめることができた、数少ない人々の言動に注目し、日本における「美術」とそこから「はみだすもの」の「差」を考えてみたい。

 ブルーノタウトは、1936年日本において『いかもの と いんちき』で次のように述べている。「いかものに相当するドイツ語はキッチュ'kitsch`であり、この日本語とまったく同じ意味内容を持っている。即ち芸術たることを欲しながらついに芸術になりえないような『芸術』を意味する。何故だろうか。それは芸術的意図が本質的でないもの−例えば特殊な感動とか情熱とかによって擾されるからである」。「ところでいかものという言葉の特別な意味は、何かというと、これを積極的に定義するのは困難であり、この対はすぐれた芸術という概念とまったく同様である、つまりすぐれた芸術の反対式はマイナスの側にあるもの、と言うことができるであろう」。

 このような定義のもとに、彼は日本中のあらゆる造形を、「芸術」と「いかもの(キッチュ)」にわけ、その表現の妥当性を論じていった。上記の言葉からわかることは、彼にとって「いかもの(キッチュ)」とは、ある特定のジャンルや特定の階層の文化一般を指すものではないということである。逆に「芸術」と彼が判断する時、その言葉は、ジャンルではなく「質」的ニュアンスにおいてつかわれている。冒頭に引用した様に、当時の官展の美術作品群や日光東照宮を「いかもの(キッチュ)」と断定し、逆に「工芸」や文人画、場合によってはある種の人形までをも「芸術」と断定する。簡素を好む彼の好みもあるが、その基準は単純に言って「形式と内容の一致」と言うことに尽きるように思う。日光を「いかもの」と呼んだからと言って、派手なものや装飾自体が悪いというのではなく、建築の本質的な構造とは無関係な、表層部の無理矢理な飾りが気に入らなかったに違いない。形式にそくした内容、内容に合った形式が求められる。タウトの眼は、日本の伝統的ヒエラルキーからも、近代日本が作り上げた視覚芸術のヒエラルキーからも、まったく自由にふるまうことができたように思う。

そのような近代日本が、急ごしらえに模倣し組織した制度としての「美術」自体が、実体としては多分にキッチュ的だったのである。

 ちょうど同じ頃地球の裏側でグリンバーグは、『前衛と通俗物』という有名な文章(1939年)で、次のようにキッチュと芸術に関して述べている。「通俗物はそれが生まれた都市にとじこめられてはいない。地方にまで溢れ出して、民族文化を一掃した。それは地理的、国家的文化の境界を少しも顧慮することがない。さらに西洋産業主義のマス・プロは、植民地へとひろがっていき、固有の文化を追い出し、いためつけ、世界中をわがもの顔にのさばったために、今では、全世界文化となることによって、これまで見られなかった最初の世界的文化となっている」。「一方には強力な、それ故に教養のある−少数者があり、他方には、搾取され貧しい−それ故に無知な−多数者がつねに存在してきた。正式な文化はつねに前者に属し、後者は民族文化あるいは未成熟の文化、すなわち通俗物に満足せねばならなかった」。

 このような主張からわかるのは、グリンバーグにとっての「通俗物(キッチュ)」とは、近代産業社会が生んだ大衆文化一般を指し、前近代的な民族文化と区別される。そしてそれは、少数者の支配階級の為の正式な文化−「アバンギャルド」に対して、大衆による正式じゃない文化とされる。このような彼の論は、先のブルーノタウトと対称的に、支持者層(階級)とジャンルと質の高低が一貫して一致しており、アバンギャルドこそ今日の唯一の正式な質の高い文化であると主張する。

 このような枠組みは、今まで観てきたところの日本の状況(明治の近代化以前も、近代化以後もどちらも)に、とてもあてはまるものではない。もともと日本も階級ごとに異なる文化をもつ国であったが、西洋流の芸術(アバンギャルド以前の)−正式な文化は、逆にもともとの日本の身分階層を壊す埒外の一点として、近代の国民意識全体の統合と重ねあわされるように組織されてきた面がある。つまり少数の支配者層に育まれてきたと言う西洋の芸術−正式な文化は、我が国の場合、国民国家全体に担われることを建て前として輸入されたわけである。それゆえに日本の「芸術」は、国民全体にむけられていながら、実質的にそれを支持する実体としてのある特定の階層が存在しないまま、現実には大衆化、通俗化(いわゆるグリンバーグのいう「マスプロ」としての大衆文化とまた違う意味の)していくことになるように思う。おびただしい現代の団体展と、そこに群がる人々を見れば解るように、それは「芸術」という名の大衆文化となりかかっている。そしてそこでは、質が高いからではなく、「芸術」だから無条件に正式な文化であるとして享受されている(日本の「アバンギャルド」もしくは「現代美術」なるものは、この日本の「芸術」から生まれたのか、それ自体も輸入してきたものなのか、ポイエーシス崩壊の自覚として、内発的に歩みだしたもの(千葉成夫)と言えるのか微妙である。いずれにせよ日本の現代美術を支持する特定の「階層」と呼べるようなものはなく、宙に浮いてしまっていて、「正式の文化」と呼ぶのもはばかれる。質の高い「作家」が社会から浮遊するのは、日本の悪しき伝統とも言えよう)。また、逆にグリンバーグのいう意味での産業革命にともなう大衆文化は、日本において、「美術」が切り捨てたものや、江戸時代以来の町人文化のエッセンスを、ある意味で受け継いでいる部分もあり、「大衆文化」−「通俗物」ー「キッチュ」と、単純にひと括りにはできない厚みと質を秘めているように思う。もともと日本では、支配階層の武家が、過度の精神主義、形式主義のため、「ものづくり」に積極的ではなかったので、町人文化や民俗文化に対して実質的に優位にあるとはいいがたい。

 

 このような日本のねじれた状況自体に、自覚的にぶつかっていた数少ない一人が石子順造である。石子のキッチュ論は、この複雑な対象に誠実に対しているため、語れば語るほど物事が整然となっていくというのではなく、逆に潜伏していた闇があらわになり、よけい複雑になってしまうといった趣であるように思う。彼は「キッチュ」というキーワードについて次のように述べている。

「伝習的な一面と今日的な他面とを同時にあわせ持ちながら、生活−表現−文化相互にあいわたるあいまいだがたしかな意味・価値のカテゴリーが、この語によって、かろうじてそのはばとあつみにおいていい当てられるのではなかろうか、と思い、そのありようと構造を、ぼくなりに、意識化=対象化してみたいばかりである」(『キッチュ論ノート』)。

 しかし私の感想としては、「キッチュ論」の構造は、基本的には先のグリンバーグ的なものであったとしか言い様がない。正式の文化(芸術)/正式ではない文化(キッチュ)という基本的な枠組み、用語法によって日本の現実を語っているため、結果としてどうしても自虐的なニュアンスになってしまっているように思う。彼は次のように述べる。

「したがってキッチュを、特定のジャンル概念のように扱うことは、さらに極力避けられなければならない。にもかかわらずぼくがぼくなりに意識化=対象化しようとするあいまいでたしかな意味・価値のはばとあつみは、キッチュという語の使用、不使用にかかわらず、当の意識化=対象化のてつづきによってしても、いつかその自在で未完結的な活性を条件づけられようとしてしまうだろう。だが、意識化=対象化してみることの重要性は、ぼくには疑いようもない。こうしてそれ自体矛盾をはらみこむアプローチの、矛盾への不安にも強く加圧されて、ぼくは、「いかもの」とか「俗悪物」「キワモノ」といった邦語ではなく、また「芸術」と語尾にふることもさけて、もっぱら「キッチュ」を使うことにしたのだった」。

 おそらく彼の語っている真意は、呼びようがないので、あいまいな当時一般的ではなかった「キッチュ」というカタカナで総称していこうとしてるのだろう。しかしタウトにとっての「キッチュ」は、質の低い「いかもの」を意味し、グリンバーグでは、ジャンル全体とイコールなのである。「意識化=対象化」してみることの重要性は当然としても、「キッチュ」のニュアンスのもとでの「意識化=対象化」が、日本固有の文脈において妥当だったとは思えない。また、グリンバーグでは、産業革命以後の大衆文化−「キッチュ」と、もともとの在来の民族文化をともに不正式な文化としながらも、切り離して別物として捉えていたのだが、石子の場合では、あいまいに混じりあってしまうところがある。それは先にふれたように、日本の「大衆文化」の固有のあつみのためにやむをえないのだが、結果的には、民族、民俗文化の一端をも「キッチュ」=「いかもの」というニュアンスで捉えてしまうことにつながってきてしまう。石子の「俗信論」は、「キッチュ論」と同様のながれ、延長にあり、「俗信」という言葉も「合理」−近代に対する蔑称ですらある。どんなに現象に食らい付いていっても、つねにその論理展開が、「芸術」ではない「キッチュ」ではあるが、「キッチュ」ならではの固有の価値があるのだ、といったいくぶん自虐的なものになってしまうように思える。後述したい。

 

 さてまったく逆に鶴見俊介は、『限界芸術』において、なにもかも「芸術」とつけることにおいて、一見在来の文化に光を当てようとするものに思える。しかし事態は逆で、「純粋芸術」を頂点とした「芸術」の分類体系を作り、この日本の文化状況をすべて、その傘下に並べなおそうとするものであったと私は思う。だいたい彼の三層構造は、グリンバーグのそれとちかく、「純粋芸術」−「大衆芸術」−「限界芸術」が「アバンギャルドもしくはアレクサンドリアニズム」−「通俗文化(キッチュ)」−「民族文化」と対応している。ただグリンバーグが偏見まじえて「民俗文化のなかで良いと考えられるものはほとんど、過去の正式の文化、貴族文化の残存物であることがわかった」と述べるのに対し、鶴見は次のように「限界芸術」に関し、逆に捉えようとしている。

「系統発生的に見て、芸術の根源が人間の歴史よりはるかに前からある遊びに発するものと考えることから、地上にあらわれた芸術の最初のかたちは、純粋芸術・大衆芸術を生む力を持つものとしての限界芸術であったと考えられるからである」。

 このように表現の母体としての、鶴見の「限界芸術」の位置付けは評価できるのではないだろうか。ただし、言葉の上からは、「芸術」と呼び対等な響きであるが、それは、結局西洋流の「芸術」概念をさらに押し進め、在来の文化のすみずみまでおおいつくし体系化しょうとするものでもあるのだ。今までの文脈からも解るとおり、純粋芸術なる概念も実体もなかった在来の生態系に、純粋芸術を軸とした枠組みを持ち込むことは、在来の表現の真価を見極めることなしに、西洋流の物差によって「未成熟」「原始性」と位置づけ、「成熟」したものの「下位」に位置づけてみることにすぎないのである。同時に日本における近代以後の「純粋芸術」なるものの、いかがわしい実体を不問にすることにしかならない。それは今日の近代化していない国家、文化を、すべて「発展途上」と位置付けるのに近いものがある。そのような位置付けでは、「下位」の文化の可能性は、全てその「上位」に向かうための可能性にしかならないのである。

 結局、石子も鶴見も「キッチュ」と呼び「〜芸術」と呼ぶ論理展開において、日本の状況を捉える視点は、西洋芸術概念を軸としたネガティブなものであったとしか思えない。

「芸術」、「キッチュ」の言葉を、価値のともなわない一定のジャンルとして扱おうとしても、結局その言葉の背景となる西洋的な価値体系に、からめとられていってしまうのである。意外にもブル−ノタウトは、逆に「芸術」/「いかもの」という単純な二項対立において、単なる価値的言葉として使用することで、文化一般を見せかけのジャンルや階級や慣習的価値観からときはなち、西洋のルールとは異なる、日本固有の、そして普遍性のある真価をいくつも見い出すことができた。