ダダカン・訪問記
はじめに
先日急に「ダダカン」こと糸井貫二さん宅に訪問する機会に恵まれた。
ここ数日風邪をひいていて、「明日こそはゆっくり休むぞ」と思っていたやさき、関本さん(ギャラリーターンアラウンドオーナー)から連絡が入ったのだった。ついに三上さん(宮城県美術館学芸員)からゴーサインがでたとのこと。具合が悪いので自分は遠慮しようかと思ったが、虫の知らせというかなんというか、やはりこれを逃すと次は無いような気がしたので、いっしょにつれていってもらうことにした。
今回段取りを組んでいただいた、三上さん、関本さんにはここであらためてお礼申し上げたい(さらにいろいろと事前にアドバイスしていただいていた高熊さん《書本&cafe
magellan》にも)。
もともと自分はあまり、なんというか、、「裸」というか、そういった種の「ハプニング、パフォーマンス」といわれるものに関心が薄かった。自分が美術をはじめたばかりのころ、昔、仙台「でも」デパートか何かで裸になってつかまった人がいたとかいなかったとか。そういう仙台「でも」あったという昔の「過激」な時代のはなしを聞いたことがあったが、「ふーん、、仙台『でも』そういう人もいただろうなあ、、あの時代は」というふうにしか思わなかった。今にして思えばその人こそ、今回訪問するダダカンその人なのであった。
ダダカンこと糸井寛二さんこそ、日本の60年代「前衛」美術に異彩をはなつ先駆的偉人―異人なのであり、仙台「でも」の「でも」はちょっと意味が異なり、この場合は、仙台「でも」東京「でも」大阪「でも」裸になって問題を起こしたのは糸井さんその人なのであった(もちろん他にも当時は沢山の「露出」的担い手達がいたのだが)。近年再評価がはじまりつつあり、日本全国からはるばる糸井さん宅を訪問してくる関係者が増えていると聞く。同じ仙台にいながら完全逆輸入の知見だけで、自分自身もようやく遅まきながらうごきはじめようとしているのであった。
訪問・応接室
2011年8月の大変暑い日。
風邪なので、高齢の糸井さんにうつしたら大変とマスクをつけ、ターンアラウンドに集合する。関本さんや自分がなにも土産を用意していないことに三上さんが気付き、「途中で何か甘いものでも買っていこう」と車に乗り込む。コンビニでジュースとプリンをそれぞれ4つずつ購入。糸井さん宅はなにしろ同じ仙台市内の長町であるので、あっという間に到着する。「えッこんなに近いの」とは正直な感想であり内心小さな衝撃を受ける。こんな眼と鼻の先に「ダダカン」が住んでいたとは、、、。訪問中はちょっと写真撮影は不謹慎だろうなと思い、到着時にとりあえずご御自宅だけでも撮影しようとカメラを準備してシャッターを押す。と、フレームの隅に妙な人影を発見。眼と眼があってしまい思わず恐縮してしまう。なんとこの暑いさなか糸井さんは家の外で我々を待っていてくれたようだ(拡大写真参照)。
ご自宅はとても味わい深い趣で、「いかにも」という感じ。その周囲のみ時空が歪んでしまったかのような、ダダ的オーラを発している。たしかに長町にはこんな古びた家が残っていそうではある。がそれにしても凄い。車から降りてまじかで眺めると、その古びて歪んだディテールが、実際問題ただごとではないレベルであることがわかり、またしても小さい衝撃がはしる。有名な「殺すな」の字をつけて走る写真は、この家の横の道で撮影されたものであると三上さんに教えていただく。とりあえず気さくにあいさつを交わした我々は糸井さんに招かれ家に入った。
まず玄関わきの床の間のような小スペースが目に入る。丸い道路ミラーの割れたのを背景にオブジェが置いてありその先っぽに太陽の塔のフィギュアが乗っている。俳句の書かれた掛け軸がかかり、なかなか風情がある。その小宇宙をかすめて、我々はとりあえず左わきの「応接室」に通された。
この部屋は何かの本で以前観たことがある今では有名な空間である。ペニスが描かれた奇妙な掛け軸や糸井さんの父の肖像画、マネキンの首、宇宙人ダダのフィギア(椹木さんがプレゼントしたとのこと)など、様々ないわくありげなもの達が高密度にゆるぎなくセットしてある。その空間の玉座ともいうべき場所に糸井さんがすっぽりと着席すると、ひとつの絵画の様な「ダダカン宇宙」?が出来上がる。ありがたいことに写真撮影どんどん大丈夫ということで、「ばしばし」撮影させていただく。この小宇宙の構図におさまる糸井さんはまるで置物のよう。
三上さんは昔から何度も訪問してきている仲であるらしく(また先年ダダカンを扱った「宮城の前衛展」(宮城県美術館)の担当者でもあるので)、気さくに話をまわされながら、関本さんや自分の紹介をしてくれる。自分は画家石川舜さんの教え子であると紹介され、とても不思議な気持ちになった。三上さんによればダダカンの日記に何度も石川舜の名が出てくるのだと言う。自分の少年時代の70年代とダダカンの70年代がクロスしとても奇妙な気分に(*自分は小学生のころ近所に住んでいた石川舜氏の絵画教室に通っていた)。
緊張している我々は、三上さんに即していただきながら、ようやく本日訪問した趣旨―仙台でダダカンさんの展覧会をしたい旨をたどたどしく伝える。
「うーん、、、」と難しい表情をされなが、、、、、、、、、、「許可はします」、、「ただ自分は外にはもう出てはいけませんけどね。それでいいんならというこですが」と言ってくれた。それから「撮影した写真なんかも自由に使ってもらって結構です」とうれいしいお言葉。さらには「燃えてくるなー」と素晴らしい一言。まるで「あしたのジョー」みたいというか、ジョーと同じ時代なんだなあ糸井さんはとあらためて思う(糸井さんの場合世代的にはもっともっと上なのだが)。どなたかに贈っていただいたという当時(1971年)の少年サンディー(「ジョー」はマガジンだけれども)を見せていただく。「へんな」芸術特集として巻頭写真で組まれており、当時全盛だったクリストやアースワークの壮大かつ有名な作品写真と、ダダカンの写真が一緒に大きく掲載されている。現在の棲み分けが進んだメディアではありえない特集であり取り合わせである。
親戚が美容院だった自分の家には、当時ほとんどのマンガ雑誌が膨大に送られ積層されていたのだが、幼年時代の自分も、この特集写真に眼を通していたような奇妙な既視感があった。
糸井さんは、「@@@さんも亡くなられましたね―」、「@@@さんは今どうしてますかねー」と、三上さんと様々な当時からの関係者のはなしをされていたが、不勉強の自分は誰のことなのかまったくわからない。そういう糸井さんも既に90才を超えられているが、まだまだ元気なご様子。しゃべりも闊達でしっかりしている。まったく訛っていない。かと言っていわゆる「前衛美術家」や全共闘、学生運動家世代の過激なイメージにもあてはまらない、上品で自然なおしゃべりに心地よく時が過ぎて行くのを忘れてしまう。
「儀」
そうこうしていると糸井さんは、「じゃちょっと、、、」とボソっと言って不意に立ち上がり退席された。
ほどなくしてすっぽんぽんになって戻ってこられた。
付けているものは唯一ペニスキャップのみである。
自分の数センチ脇をしわしわの白っぽい裸がすれ違う。
狭い室内に緊張がはしる。
いそいでデジカメのシャッターを切る。ビデオの撮影は関本さんにまかせる。三上さんも真剣な表情でカメラをかまえる。先述のダダカン宇宙の玉座ともいうべき腰かけの上で逆立ちをはじめる。美しい垂直の逆立ちである。父の肖像やマネキンなど様々なセットと共にフレームに収まる。完全無欠な世界がここに突如現出する。
あまりの近距離、あまりの唐突、あまりの自然さで圧倒され動けなくなる。先ほどまで会話し、なごんだ場を形成していたまさにその「日常」空間で起こった白昼夢。
かえって自分が服を着ていることが申し訳なく、また不自然なことのような転倒した気分になり、正直いたたまれない気持ちとなる。本当に撮影させていただいていいのだろうか??
人さまの前で、あやまったり、頭を下げたり、土下座したりするというのがある。足をなめさせられたり、踊らせられたりなど様々な屈辱的行為があるわけだが、今、突如自分の前で、一方的に素っ裸で逆立ちされてしまうと、かえって見えない強力な圧力が自分自身に押し寄せてくる。絶対的な負性、貸し借りでいえば、膨大な「借り」を一瞬に背負い込んでしまうような、、。
そうしてその反作用としてこの目前で逆立ちしている90歳の肉体と精神がオーラを放ち尊いものとしてせまってくる。十字架に自らかけられたイエスのサクリファイスのごとく、、(後日観るこになる前年にとられたという映像「駄々っ子貫ちゃん」では、撮影者自身(竹村正人さん)もなぜかパンツ一丁になっていた。その気持ちとてもよくわかる。後述参照)。キリスト信者が自分達人類のために犠牲になったイエスと同様な聖痕の傷をもったり、自身の身体を傷つけたりというのもここにつながるのかもしれない、、。
ここでは通常世界・人間世界の常識が突然静かに覆される。功利的、相互流通的な節理が破棄される。
それはさながら大宇宙に投じられたちいさな一石のようだ。小さな小さな石つぶてではあるが、しかしそれはまぎれもない一個の確固とした存在なのである。たった一個の石ころが全宇宙の法則を相対化してしまう。動物的、生命的節理を超越した人間「精神」の力。この逆立ちする裸が世界の力学的関係をただこの一点において、すべて変えてしまうのである。ダダカンが全裸で逆立ちすることによって、かえってこの世界が反転されてしまうのである。膨大な人の世の歴史においてときたま光彩を放つ輝きがあるとしたらまさにそうした意志の力であり行為であった。この広い世界の片隅、極東の仙台の身捨てられたような古家の狭い一室で、このような唯一無二の聖なる儀式、ある種の人類的「冒険」が、精妙な配慮、高度な修練の上で、日夜行なわれ続けてているとは!
おしきせのパフォーマンスではない。みせものではない。かといっていわゆる「ハプニング」といった偶発的意外性の行為とも言えない。いままでの「関係」の上で、成立していた「場」の上での自発的な「おこない」。場を無視したり御破算にしたりするのではなく、一種、聖火に火をともすような、献花を添えるような、、、。聖なる特別な場に変貌させてしまう、、こういうのは、、、つまり、、正真正銘のアーティストとしてのおこないそのものではないだろうか。
逆立ちが終了すると、そのまますっぱだかでイスに着席。サウナかなにかから出てきてくつろいでる風のリラックスしたムードに(上記写真)。「今日は黒でしたね」と三上さん。ペニスケースの卵の殻の色が黒色だったことを指摘しているようだ。そういえばさきほどから自分の目のはじっこに色とりどりの小さな球体が、棚に飾りつけられているのが見えていた。そうかあれは卵の殻で、すべてこの「儀」に使用された使用済みペニスキャップだったのか!と今さらながら気付く。その後どのように卵を割らないように中身を空にするかなど技術的な話を伺う。
茶の間
その後隣の茶の間に通されちゃぶ台に4人着席。
ところせましといろいろなものが山積みされている。見るもの見るものかわっていてきょろきょろする自分。古いモルタルか何かが塗られた壁には、今までここを訪れた人たちの名前が直接壁に記載されている。竹熊健太郎、飴屋法水、椹木野衣、、、、椹木さんの部分の「椹木殺す」ってなんだろう?ぶっそうだなあと思ったが、「殺すな」の「な」の部分が隠れているだけなのだろうと後で気付く。 別な壁には奇妙なカレンダーがかかっている。ずいぶん前のカレンダーなのだが、日付けと曜日を切り取って場所場所で移動してある。1枚でずうと使える万能カレンダーとなっているそうである。また別な壁にはかわったフィギュア発見。6人組の女性。帰宅後撮影した写真を解析してみると「キャンディーズ」であることが判明。キャンディーズの「危ない土曜日」の「くるくる危ない土曜日」のポーズと、「年下の男の子」のポーズ。合計6体。誰かからもらったのかもしれないが、意外な組み合わせに驚く。が、ようく考えると、糸井さんの活動全盛期とキャンディーズは少しだけ重なっているのであり、イメージのギャップが大きすぎてくらくらしてくる。70年代という時代の表と裏の邂逅というべきか。
また糸井さんは、「そういえば」ということで揚げ饅頭ほどの丸い石を見せてくれた。「最近見つけたものです。すぐそこで」。というその石の表面にはちょっとした凹凸がついている。後ろには糸井さん自身の筆跡で「ペニス 俳石 2011,3,9 拾っ 仙台 太子堂」というラベルが取り付けてある。大震災の直前に拾われたものだ。色といい形といいなかなか味わい深い。90歳過ぎた人間がこのようなことを日夜楽しんでいるとは、、。まるで子供のようでもあり、あるいはかの千利休が自分で竹やお椀を見立てているようだ。利休が見立てた物品はすべてただのものではなく、いわゆる「利休好み」として彼の思想が反映されていると言える様に、ダダカンが見立てた石はただの石には見えないし、おそらくただの石ではないのだろう。まあ言ってみれば「ただ」の石ではなく「ダダ」の石なのである。
こうなってくるともっと奥の部屋がどうなっているのか気になり出す。もしかしたら奥はハイテク機器がならぶ「現代的」な空間になっているのではないだろうか?などと冗談で想像したりする。というのも糸井さんが現在の社会情勢など的確に把握なさっており、かなりの情報通であることがわかっていたので、どこにそのような情報源があるのだろうと思わざるを得ない。しかし廊下をはさんで向かい側の台所とふろ場が恐ろしく汚れており、この「仙人」生活がまぎれもない事実なのだと実感する。(*あとで聞いた情報によればやはり別室に地デジ対応型の新型テレビがあるという)。
しばらくすると糸井さんは我々に自家製「卵ケーキ」をふるまってくれた。タイミングが合って機嫌が良ければもしかすると「卵ケーキ」をつくってくれるかもしれないよと、三上さんに教えられていたので感激する。糸井さん自ら等分に切って一人一人皿に盛ってくれる。この卵は今回使用されたペニスキャップの卵なのだろうか?という当然の疑問がわいてくる。自分の皿をようくみると、やはりと言っては何だが、、やや汚れておりきれいとは言えない。隣の台所の陰惨な様子など思い出したが気にせず食べる。とても素朴な味わい。「うまいですね」と言うと「そりゃーよかった」とすばらしい笑顔をみせてくれた。
帰りは家の外まで見送りに出ていただいてしまう。うれしいことに糸井さんを囲んで、関本さんと自分の3人が玄関前で並ぶ姿を三上さんが記念撮影してくれた。
後日談
その後、かなり後になって、訪問の折撮影した数枚の写真を同封した御礼状を出させていただいた。実は自分はあくまで付録でついていったということで、関本さんの方にお礼状の方をお願いしていたのだが、ダダカンさんから関本さんへ、返礼に送られてきた「メールアート」(ヌード写真をペニス型に切り抜いてあるもの)を見せてもらったからというわけではないが、今後のこともあるので、やっぱり自分の方からも出しておこうと思い立ったのであった。郵送した翌々日、速攻のは速さでダダカンさんからご丁寧なお手紙が送られてきた。
手紙の最後は「我が庭にも十月の花咲いており」 草々 2011,10,11 としめくられており、小さな花が筆ペンのようなもので描かれていた。その他雑誌から切り取ったヌード写真が綺麗に折りたたんでいれてある。関本さんのものと違いペニス型にくりぬかれていなくて、つまりただのヌード写真なのだが、とにかくダダカンさんの御親切に感激してしまう。
そのようなことと前後して、仙台で神戸の竹村正人さんという方が撮影した映像「駄々っ子貫ちゃん」の上映会があった。
2010年撮影ということで、ちょうど今回自分たちが訪問した1年前の糸井さんの姿が映し出されていた。同じ家の同じ部屋で同じような年齢差の新参者による訪問映像なので、先日の自分たちの時の訪問とダブって見え、ところどころ自分の中で区別がつかなくなってしまい眩暈を感じた。長時間にわたりとてもよく日常?的な糸井さんのもてなしの姿がよく記録されていてとても面白かった。自分たちの時とある部分は完全に同じであり、ある部分は微妙に異なっていて、自分たちの訪問についてあらためて冷静に省みる良い機会ともなった。二つの訪問を通して浮き上がってくるダダカン・糸井寛二像の印象は、ますます驚異的なものとなり、ますますこの人物に興味がでてくるばかりか畏敬の念をおびるようになった。そしてようやくいまさらになって「箆棒な人」(竹熊健太郎)、「戦争と万博」(椹木野衣)などの先行文献を読んでみた。今回の場合、自分にとって知識は完全に後付けとなったわけだ。
ダダカン・糸井貫二の実像
「戦争と万博」におけるダダカン像は、関東大震災や太平洋戦争、大阪万博など日本の繰り返される大きな歴史軸の中でとらえられたものだった。当然それは今回の東日本大震災と繋がってくるので興味深いものだった。今回のこの未曽有の災害・反社会的アナーキズム的状況・ダダ的状況において、四たびその真っ只中にダダカンは存在していたわけだが、逆説的にいつもどおり半裸で悠々と「日常」を続けていたようである。
「箆棒な人」におけるダダカン像は、思いのほか(といっては失礼だが)正統な意味において、大変優れた内容であるように思われた。さすがはあの「サル漫」の竹熊健太郎である。糸井さんの希有な特質をよく救いあげている。特にインタビューで登場してくる宮城輝夫や豊島重之のダダカンに対すマトを得た、温かい視線がすばらしい。当時から実はこのような一部の人達にちゃんと理解されていたのだなあと思うと、昔の仙台もなかなか捨てたものではないと思えてくる。「今日ダダカンが来るみたいだよ」(豊島)と期待?する当時の仙台での展覧会場の気分を語っているが、それは何と魅惑的なことだろう。だが一方で、自分たちが訪問した時語った「もう自分は外に出て行けなくなった」というダダカンの言葉を思い出さざるをえなくなる。そして、その意味がどういうことなのか、どれだけ寂しいことだったのか、ようやくしみじみと悟ることができた。
いつなんどきどこからともなく現れる「ダダカン」が存在する街。それはまるで「仙台四朗」のようでもあり、あるいは芸術の神・ミューズのようでもあり、または天使のようでもある。そのような「前衛の妖精」を失った後に、はじめてその価値と喪失に人々は気付くのかもしれない。
先述の神戸の竹村さんの映像記録で、有名な東京オリンピック時の疑似聖火ランナー事件に関して語るダダカン自身の言葉が印象深い。
東京オリンピックでの聖火ランナーが福島県あたりを走っているのを観て、その聖火が何とも美しくて感動し、いてもたってもいられなくなってしまい、ある意味突発的に行動に出たとのことのようだ(電車が聖火ランナーを追いぬいて自分の方が早く東京に到着し、本物の聖火ランナーが走る前に東京・銀座を走ってしまうことになったという)。
ある意味、機関車を追いかける昔の子供のようでもあるが、そこになにかとても本質的なものを感じる。
オリンポスの山からはるばる聖なる火が日本・東京にもたらされる。聖火はオリンポスの神々の分身であり、神聖なものである。それが東京に届けられるということは、オリンポスと東京が繋げられるということであり、東京がオリンポスの光栄に与るということであり、オリンポスの神々に祝福されるということである。火をもたらし灯すとは、たぶんそのような象徴性をもっているのだろう。
これはつまるところダダカンの本質的な部分と重なってくるような気がする。
ある場所にどこからともなく突如出現し「儀」を行なう。場やそこに連なる人々に花を添え祝福するかのうような、、。それは聖なる火をもたらし灯すことととても近似しているように思える。
ある種近代オリンピックの「ショ―」であり「役者」であるところの聖火ランナーを追い越して、ダダカンがその「場」へ祝福に出現する。
もしかすると、ダダカンの方が本物で聖火ランナーの方が偽物なのではなかったか。
まるで裸のダダカンとは、この場合、古代ギリシャの神々に捧げられる祭典さながらではないか。
その意味でも同時期に活動していた、例えば秋山祐徳太子の「ダリコ」などとはレベルが違うのである。秋山の「ダリコ」は、普通の意味で、オリジナルである「グリコ」のパロディーとなっている。オリジナルが架空のキャラクターで、パロディーの方が生身の人間になっていて逆転しているところが面白いと言えば面白いのだが、結局、「ダリコ」と胸に大きくダジャレ的な字が記載され、ドタバタ的な「ノリ」の良い面白さにとどまらざるをえないように感じられる。
一方ダダカンの聖火ランナーは、一見無計画なもののようだが、単なる聖火ランナーのパロディとして片付けられるるものではなく、むしろ聖火ランナーそのものの本質、その「ランナー」の起源にむかっているように感じられて仕方がない(それはある意味で「グリコ」の「ゴールイン・ランナー」のその起源でもあるところのものである)。オリンポスの神々に捧げられた全裸の肉体。その供宴としてのスポーツ。あるいは聖なるメッセージ・灯を自身の肉体に乗せ、命がけで共同体へ運んで行く、媒介者としての「マラソン」ランナーという存在。
研究者の考察では、ダダカンの場合つねにほとんど単独行動なのを特徴としながら、先行する他のなんらかの出来事に触発され、それを媒介として彼の「行為」が生まれているという。
例えばこの「聖火ランナー」や太陽の塔・「目玉男事件」の「ハプニング」、あるいは他人の展覧会場での出現などの事例はそれを物語っている。ゆえにつねに偶発性を有しており、他者に触発されていながら、同時に衝動的である一方で、大変自発的内発的な特徴がある。それは状況を御破算にし狂わしてしまおうという種の、計画的、意識的、反逆行為、、あるいは意図された「でたらめ」行為、無意識・偶然性としてのハプニング行為とは真逆にある。
むしろある状況に触発されながら、その状況に全身全霊で参画し、彩りを添えるかのようなものだろうか。
ダダカンの場合、「ダダ」と言っても、「反」社会「反美術」ではなくて「超」社会「超」美術なのであり、歴史的なある状況の反動としての行為ではないのだ。歴史的事象に触発されはするが、結果的にそこに現出されてくるいとなみは、繰り返される歴史を貫き、つきぬける、行為以前の行為・始原の行為ともいうべきものなのではないだろうか?
例えば「ゼロ次元」などでは、「社会をゼロ次元に導く」ための計画的な反社会、反モラル的活動を展開していく。彼らにとって裸体はそのゼロ的反社会行為の必要不可欠な「武器」であり、効果的演出の優れた道具であったと言える。ヨーロッパ・ダダイストのアナーキズム的活動に、肉体・裸によって呼応しようとする。いわば肉体のダダである。
一方先述の秋山祐徳太子では、彼自身の言葉によるならば、アメリカ流ポップアートを生身の肉体でなぞろうとするものであり、「動くポップアート」、つまるところ肉体のポップである。ポップ化=民衆化=自分の生身化という感覚で、例えば東京都知事選出馬もそのような観点から言えば「ダリコ」と繋がるのである。
このように海外のラジカルな美術的動向を、自身の「肉体でなぞる」というのは、ひとつ日本の前衛の特徴であろうか。(肉体のほかに、例えば「未加工の物質」でなぞるというのも結局どこか同質な構造にあるように思われる)
。肉体でなぞることによって、肉体というある種の自然物の介入を許し、結果としてもとのものとはぜんぜん別なものになっていくように思われるし、時として、裸になりさえすれば過激でラジカルで前衛になるような安易な錯覚に陥ってしまう。
そうしてみると「ダダカン」の身体・肉体性は少々趣が違うように思える。
彼は自身の肉体で先行するどのような美術、ラジカルさをなぞろうとしたのか?という問いはちょっと当てはまらないように思える。
彼の特異さは、近年ますます際立っている様に思われる。
当時の他の前衛アーティストのように、後に「偉い美術家」としてふるまったり、その延長で美術史に回収されるのではなく、あるいは美術から離れ、忘れ去られながら社会人として社会に回収されるのでもなく、、、前衛の時代が終わったはるか後の21世紀の現在、今なお、仙台の片隅で、同様のいとなみを、ただ一人で、とりわけ誰に見せるというふうのものでもなく、繰り返し続けてきているのだ。
もしかすると、「ダダカン」という命名は、とてもインパクトがあるのだが、美術史における「ダダ」的語感が強く出過ぎてしまい、彼の本質を見誤らせてしなうもののようにも感じてくる。ダダに固執すると日本的な「特殊なダダイスト」という捉え方におさまってしまいかねない。もしかすると、ダダカンではなく「ただのかん」、「タダカン」でよかったんじゃないのだろうか?などと、かってに思いを巡らせてしまう。
ということで、60〜70年代のハプニングやパフォーマンスのただのひとつも実地で見たことがない世代の自分が、憶測の上に憶測を積み重ねるように考えてみても、何とも判断しかねるのでこの辺でやめにしておく。
タダカンプロジェクト宣伝
来年2012年に順調にいけばだが、関本さん等と、地元仙台で「ダダカン」展(名称未定)を開催する計画である。会場はギャラリーターンアラウンドと仙台アーティストランプレイスの2会場同時開催を予定している。今のところの見通しでは、自分たちが訪問した時の近況資料をはじめ、かつてのゼロ次元の協力のもと映画「因幡の白ウサギ」1970年の上映、また上述の神戸の竹村さんによる「駄々っ子貫ちゃん」2010年の再上映ほか様々な関連イベントが企画中である。地元では2009年の宮城県美術館による「宮城の前衛」展以外、これまでほとんど紹介されてこなかったようなのでとても良い機会となるだろう。
こうご期待である。