<わけること>
もともと人類は、畏怖すべき未知なる領域に囲まれ脅かされざるを得ない存在である。
誕生と死、病、老い、事故、運命、様々な災い、外敵、自然力の脅威、そしてその恩恵、、、、。多くの重要なものごとは「外」側に広がる自分の知らない領域を源泉としてある。それは原始の時代も現在も基本的には変わりがない。ただ今の我々は様々な隠蔽機能―発達した文化(?)のおかげで普段それらの重要な事柄を忘れることができているだけのことであろう。
「我々は通常、我々を取り巻く世界を、友好的なものと敵対的なものに分割する思考に慣れている。」(『文化と両義性』山口昌男)。
その中でもとりわけ「友好的なもの」/「敵対的なもの」の分節は格別なもので、生命を脅かすもろもろの事柄を認知すると同時に「遠ざける」、「別ける」といういとなみは、生命体が生命体として成立、存続するための最初の、そして終生変わることのない根源的な本能であろう。
人間以外の動物でも、生存のテリトリーが確立されており、棲み分け、縄張り争いに余念がない。自身の生きるためのありうべき領域を創出し、かつ確保維持することは、生命存続において必要欠くべからざるものである。
そうして人間世界では物理的な分節の他に、象徴論的な分節が重ねられる(時に物理的な次元と一致し、時にズレながら)点が人間を人間たらしめる重要な部分である。
象徴論的次元においては、つねにこの分節は相互的なものである。内部/外部、こちら/あちら、味方/敵、自分/他人、、、は、同時に発生・成立し、相互関係の中でお互い起立していく。いわば「わける」とは「カテゴライズ」することであり、切れ目のない未知なる領域を、人間の目線でもって区分けしていくことにほかならない。
細分化される「分節」のうち、もっとも重要な分節とは、冒頭触れた始原的な分節。自己/他者、安全領域/危険領域、既知/未知、文化/自然、味方/敵、、、という自身や共同体の生命や存続に直接関わるレベルの「分節」である。
こういった重要な「分節」は、たえず点検、確認、再定義、再強化を必要とし、物理的にも象徴的にも「境界」そのものが意識的に構築される場合が多い。
これまで人類文化の中で物理的、象徴的、線的、面的、点的、、、、様々な「境界」がもうけられ、それぞれ重要な働きを持ち重要なエリアとなってきた。そこは始原の分節が繰り返されるところであり、つまりは自分自身・共同体自身の成立起源を示す場所・ことであり、また再定義されるところのものでもあり、しばしば神聖な、あるいは穢れた、特別な場所とされてきた。後述するように、このような「境界」エリアの特性は、「境界」により定義・形成される共同体、組織にとってのルーツとしてその力の源泉となってきた。神を祭る―「まつりごと」は政治の原点にセットされ、「中心」に移管されていく。
というよりもそのようなことは不可能である。他者や自然や神や死と永遠に切り別れて生きることは、過去はもとより現在でも不可能である。単なる外敵を防ぐ石の壁ではなく、ある種の「関係―交流」が必要不可欠となる。領域を分け、自身を自身として確立持続させつつも、内と外が行き来しえる、様々な工夫をそこに見出すことができるのである。
そもそも「外」と遮断され続けることは不可能だが、「関係」を人的にコントロールすることはある程度可能とみられていた。その工夫の積み重ねがすなわち文化の根源に内蔵されている。
例えば「自然」は危険極まりない脅威ではあるが、自然からうける恵みと恩恵なしには、人間存在はありがたい。未知なる畏怖すべき領域は単純な敵対関係ではなりたたない。友好的なものと敵対的なものに「別ける」ことをし、同時にその分節を解除・結合・コントロール(交流)しなければならないのが人間存在であり、そこに人間文化発生の源泉がある。様々な芸能、造形のルーツのほとんどが、この始原的分節における「境界」エリアを巡って現れてきているのはまぎれもない事実である。
「表現のみち・おく」もこの「境界」を重視し、その最初の取っ掛かりとしていこうと考える。