<二重性の造形>

 

 異界とこの世は切り別れながらも交流しなければならないことについては先述してきた。

 別れたままでも不可能。混ざり合い同化しきることも不可能。どちらの状態でも自己の生存を危うくするものであった。
 それぞれの領域を守りながら同時に交流すること。
 同時に二重的に存在することが必要不可欠であった。

 これは「二重的文化」ということができ、このような世界観から生まれた造形表現は、その二重的な特質を具現しておりまさに「二重的な造形表現」ということができる。
 それに比べ先述したように、この二重性を破棄する文化。異界とこの世が一体化する、、、、異界をこの世が飲み込んで行く、、、、人間が異界を素材として収奪していく西洋近代的世界観では、仮にこれを「同一性の造形表現」とよぶことができる。
 以前そのことについて『二重性の表現』(うぶすな研究会機関誌3号 2002)という文章にしている。以下はその抜粋である。

 

 

 

ある時、博物館で縄文の土偶を見ていて奇妙なことに気づいた。

その土偶が仮面をつけているように見えたのだが、奇妙なのは、横から見ると仮面と顔のつなぎめがしっかり表現されていて、「人間が仮面をつけている」、ということ自体をあからさまに際立たせている点だった。そう考えると、他の土偶の中にも、仮面もしくはマスクをつけていること自体を、わざわざ隠さずに表現したと見えるものがけっこう含まれていた。研究者によっては、わざわざ仮面をつけていることをあらわす土偶を作る意味が、思い当たらないとして、否定的な意見もあるらしい。このような奇妙な表現の意味するものが、長い間私にも解らなかったのだが、岡本太郎の『仮面の二重性』という文章に接することで、眼からウロコが落ちた。以下少々引用したい。

 

「まことに人間というものは根源的に矛盾的存在なのである。自分と自分を超えたものとを、いつも自分の内に持ち、そしてその双方をしっかりつかんでいなければ本当には生きられないのだ。引き裂かれた存在、その矛盾の意識は、決して他の動物には見られない。そして矛盾を克服するために、逆にさらに矛盾した様相で身をよそおい、一だんとそれを深める。仮面−。人間存在の矛盾律、その言いようのない二重性を克服するために仮面が存在しているとしか思えない」。

 仮面は精霊に完璧に化けることを第一義にするものではなく、あくまで、日常的な人間がかぶっていると同時に、それを超えた精霊が、そこに宿されるというその二重性の表現が本質であるという。

 「もし、色、形、つまり造形性だけに限定するとしたら、これほど全存在をゆさぶるセンセーションは与えないはずだ。仮面の戦慄は、日常的な、まったくただの人間がそれをかぶるということが、絶対条件なのだ」。

 この岡本の指摘は、仮面や縄文の土偶を超えて、近年私が考えてきた様々な事柄を、ひとつに結びつけるきっかけを作った。本来人間は、自分を超えた領域−「外部」・自分−「内部」の相互規定によって存在し、「外部」を恐れ、畏敬し自らを規定するものとして、安定した関係を築き上げようとしてきたと私は考えている。そうして人間文化、祭り、造形表現のルーツも全てここに発すると考えることができるのである。

 ここでいう「外部」とは、通常の意味での「外界」とか「世界」といったものではない。それら「外界」や「世界」は人間化され、言葉による分節の意味、名前、位置付けによって人工的に構成された、自分達の脳を映す鏡でしかない。人間は自然をそのように人間化して、人間に都合のいい環境を造り出そうと今もって努力している。一方ここでいう「外部」とは、そのような言葉の分節以前の、つまり人間化以前の、あるいは手の届かない未知の「向こう側」としての広がりを指す。そのような人間化以前の「外部」は、同時にあらゆる謎、あらゆる根源的な矛盾、あらゆる意味の起原でもある。つまりそれは、始源、終末、無限、完全、命、死、運命、神、動物、人間、共同体、自分等の根拠として想定されるところのものでもある。それゆえに、「外部」を表象しようとしたり、「内部」にこり固まること以上に、「外部」と「内部」の相互規定、関係づくりこそが、人間文化にとって最重要課題であると言える。岡本が「仮面」で指摘する「二重性」とは、まさにそのたん的なあらわれではないだろうか。このような文化の原初的な在り方を、ここで岡本にならい「二重性の文化」と呼ぶことにしたい。

 

  西洋流の造形表現の原点も本来この「二重性」に根ざすものであった。しかししだいに「外部」を「内部」に取り込む−「世界の人間化」の方向が加速していくのである。それは、ギリシャローマの人間性自体のすぐれた部分に神聖の分有を想定する伝統を持ち、キリスト教が唯一神として、しかも人間の身体を持つ両義的存在であるという伝統などのなせるわざだと思われる。それは土着の自然信仰における、「外部」=「自然」=「神」と違って、非自然の超越的な埒外の一点を「外部」として想定しながら、自然を、「内部」が「外部」(神の国)に近づくための材料、あるいはゴミとして位置付けてしまった。その意味で「外部」(神、完全な世界)と「内部」(人間世界)が融合し、世俗的なのに神聖であるという独特の世界観が形成される。そのような世界観では、融合されえない「内部」化されない領域は、未開発領域か、完全な悪、敵、ゴミでしかない。「内部」と「外部」がイコールになることを希求し続けるそのような文化の在り方を、さきの「二重性」にたいする、「同一性」の文化としてあえて呼ぶことにしたい。

 

 このような「同一性」の世界観においては、そこから生まれてくる様々な芸術作品、建築物、人間社会、科学等といった人力の為せるわざを、「聖なる」輝かしいものと捉えることができる。さらに近代芸術においては、各々の固有な芸術形式自体が「外部」−「ありうベき真の表現の源」として、ある意味で「聖」視されながら掘り下げられる。それは「外部」を来るベき完全な神の国として想定し、それをめざす過程の中に自己の生を規定し、常に拡大することではじめて自己があり得るという近代特有の世界観につながっている。「外部」はひとたび「内部」化されればすでに「外部」ではなくなり、さらなる「外部」が希求されざるをえず、「外部」ヘの着地が無限に先延ばしされ、「内部」化の欲望がそれをどこまでも追っていくという無限のいたちごっこに陥る。植民地の拡大や市場経済のグローバル化、純粋美術のいきずまり、解体とその反動の拡散などは、このような西欧固有の「同一性」の文脈から理解されるべきだと考える。 それに対して、「二重性」の文化では、「外部」を「内部」によって同化しようとはしない。「外部」は、「外部」として保管された上に、「内部」との相互規定によって二重的に浮かび上がるものと考えられる。言い方を変えれば、人間を超えたものを人間がつくり、解釈するという矛盾した愚をおかさずに、超えたものとして関係する文化であり、造形表現なのである。

 

(『二重性の表現』2002年より抜粋)