<修復>
「後天的付加価値・後天的変質」のうち、特に痕跡として刻まれる「修復」は注目に値する。
もちろん「修復」は作家的な表現として意図的になされるものではない。
しかし外界との接触から生じる切羽詰まったいとなみとしてそれはある。
つねに外界の影響にさらされ続けている実際世界のあらゆる組織にとって、修復はありとあらゆる次元で日々おこなわれている生命の基本的な本能である。
細胞活動から脳の働き、意識の活動、生活空間のメンテナンス、掃除、、、、。
さらに「修復」を意識して行うこと。
「修復」そのものに意義を見出すことは、別なレベルを開示するだろう(通常修復は意識されない。あくまでも現状復帰が目的とされ、その形跡は隠蔽されようとする)。
意識され意図される「修復」とは、いわば儀式的な「修復」である。
意識された儀式的な修復とは、破壊と再生の「交流」そのものとしてある。
生きられる組織は、その外界と交わらなければ生き続けることができない。
畏怖すべき強大な外界に接触することは、それまでの組織を外界に照らして相対化し再定義することにほかならず、一種の自己破壊をともなうものである。人類はそういった深刻な外界からの影響を、「交流」というニュアンスにおいてコントロールしていこうとしてきたわけである。元来異界と定期的に交流する様々な儀式や祭りとはそうした切実な意味がある。
そういうわけで、組織(自己)が外界(他者)に接し交流しながらまた組織を刷新するとは、言ってみれば組織自らが意図的に「破壊―再生」を経験することであり、それはある種の意識的に執行される儀式としての「修復」行為ととらえることが妥当だ。
あらゆる生きられる組織では、外界と「交流」をしなければならないという点において、つねに意識化され象徴化された「修復」が必要不可欠であるということができるだろう(いわゆる「おせんたく」と呼ばれる定期的な信仰対象へのメンテナンス作業や、年末恒例の大掃除は、刷新される歳の節目としての象徴性と、普段の掃除が重ねられており、まさにそれをあらわしている身近な例といえるかもしれない)。
*(民俗の「交流」システムにおいて、一回ごと使われ捨てられ破壊されることの多い媒体―依りしろや供物という存在は、半永久的に維持継続されることを目的とする共同体・そのコンタクトシステム自身の身代りと考えることができる。一回ごと毎年捨てられ焼かれるお札や人形のかげで、刷新され持続される全体がある)。
外界との関わり―やむにやまれぬ普段のメンテナンスにしろ、定期的儀式的な意識化された修復にしろ、それは等しく蓄積されていく。
修復によって完全に以前と同じものに復帰することは本来不可能である(完全な修復は、修復の痕跡を完全に消し去ることであり、修復そのものの記憶を無しにすることであるから、本来修復が修復である限りにおいて不完全でありつづける)。
修復の痕跡、記憶、ズレがかならず発生し、蓄積されていくものがある。環はかならず毎回少しずつその経路をずらしていくのである。
蓄積は、修復されたそれを、少しずつ変質させていく。「過去」を所有し歴史を実体化させ、しかし再定義と修正が随時ほどこされつねに若々しい組織を形成する。組織はより強靭に、より柔軟に、より多様に、よりそれでしかないただ一つの固有なものへ育っていくのである。
それゆえ修復されればされるほどわざわざ修復するにたるもの(継続し守るにふさわしいもの)となっていくのだ。
単純な「つくる」いとなみでは、つねに「何が」つくられるかという目的のみに価値がある。そこではつくられるものの優劣が目的となり注視されるのみで、その起源となった外界との「交流」は忘れ去られるしかない。そして「外界」の素材化、破壊、収奪、同化吸収、、、といったは根本事項は隠蔽され忘れ去られる。
「修復」ではあくまでも「外界」と「組織」との関係・「交流」を、自身の「痕跡」に記憶しているので、修復が修復である限りにおいて、その成り立ちを忘却することはない。
その上で、「修復・なおす」いとなみをより精細に考察するなら、もうひとつ興味深い意義を見出すことになる。
同時にその痕跡の蓄積は、しだいに後天的にさらなる異界・他者を自身の組織内へ導き入れていく。
様々な時間、異なる主体、文脈、素材、技術、感性、解釈を混じり込ませ、多層的で複雑な構造を生み出すに至る。それは先述してき他者共存、輪廻転生の世界観、「後天的付加価値」の特質そのものであるだろう。