<合体>



始原的な「交流」。異界同士の接触。
それは時として「こちら側」の生存を危うくするほどの、際どくかつ本質的な混ざり合いをともなう。
 ここでは特にそのような始原的交流・組成を「合体」という言葉において考察していく。


*「合体」は次の二つの側面がある。ここでは「1」においてのみ考察を行なう。

 1「合体」そのもの―「異界結合―交流」や神々の合祀、あるいは物質の原初的組成。

 2「後天的変質」、「修復」、「代用」に内在する要素としての合体―「代用」の項・参照のこと。







<合体について>


1、原美術

 あるものとその別なあるものが接触する。そこに何らかの反応が生じ、混ざりあい、かつ融合し、新しいまとまりが形成される。極めて単純だがそのような原初的な組成に、アートはちゃんと向き合ってきたのだろうか?その過酷な始原的「合体」に、拮抗することができてきたのだろうか?、、、、、答えは否である。


 切り開かれたばかりの土地に立つ。いましがた根こそぎにされた森の木々が放つ濃厚な匂いが鼻をつく。切り出されたばかりの樹液滴る生木で建てられたほったて小屋。切断された木―森の生命力がいまだ匂い立ち充満する空間。例えば伊勢神宮。
 「命あるものの生命を断つ」という、人と自然、概念と命―異界間の交わり―「合体」に端を発した、自然物の加工、建築とは、本来そういう過酷なものだったはずだ。


「グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国」の国旗。その整った外観からは解かりにくいが、それぞれの模様のパーツを一つずつバラしながら紐解けば見えてくる血塗られた歴史。イングランド、スコットランド、アイルランド、、、。異種間の果てしのない抗争、殺戮、妥協、共存。けっして消すことのできない傷跡の様に重層的合体で組成されたおぞましい国旗・ユニオンジャック。


 インド亜大陸に侵入したアーリア民族。土着の民、神々を次々と飲み込んで行く。その肉体は何時しか後戻りできない深度で土着化し、自身が逆に飲み込まれる危機に。「合体」成就による均質化、埋没への恐怖。その過程で、数え切れないほど階層が色分け、隔離固定され、いわゆる「カースト制度」が構築されていく。それは数々の部族間抗争における勝敗、優劣が複雑に織り込まれ、今日までその原初的「組成」の残酷が透けて見えるほど不均質で野蛮だ。それは不純でいびつな混合であり合体の永遠の失敗を意味する。そしてそれは本来我々の社会秩序やヒエラルキーが、そうしたものであることを雄弁に物語り続けている。


 建築物、模様、制度、、、というある種の「作品」にひとたびまとめられ隠れてしまった原初的組成の根源的暴力。創造の原初にあったはずの「異界結合のダイナミズム」を、「合体」という概念にたくし、再びモノづくりの中に取り戻してみたい。




 
2、マンガ、アニメ作品における「合体」


 さらに「合体」の具体的イメージを、身近なマンガ、アニメ作品から紡いでいこう。

 特にその原初的切実さにおいては『デビルマン』における人間と悪魔、悪魔と悪魔間の「合体」表現をひとつの見本とすると都合がよい。
 「合体」は自身(悪魔・デーモン族)に無い新たな力を融合するため、生命がより強力になるための自己運動と位置付けられている。彼らは合体をくり返しながらより強力に、より適応の幅を広げ生き残ってきた(反面その「合体」は多くのリスクをともなう。多くの場合出来損ないの失敗に終わったり死んでしまったりして、二度と取り返しがつかない命がけのものとして設定されている)。デーモン族の勇者アモンが主人公である人間・不動明と合体を試みる。しかしその結果意外にも主体性は不動明に乗っ取られることに。
 本質的な合体では、時として自身の身体、主体性をも投げ出し犠牲にしなければならない。本当の意味で異界である他者とかかわり、受け入れるということはそういうことなのだ。

 『デビルマン』的合体とは対照的に、各部位が適材適所、部分の総和でより大きな全体に、しかもいつでももとの部分に戻れる、という理想的な合体の例を、巨大ロボ系アニメに見ることができる。例えば『コンバトラーV』(我々にとっては後述の「コンバイン・ペインティング」よりもこっちのイメージが最初に来ることは言うまでもない)では、5人の意志が一つになることで「巨人」を組成することができる。毎回その合体シーンはひとつの見せ場として相当な時間が割り当てられる(ほとんどの場合同じフィルムの使いまわしなのだが)。そこで5人の意志は全体に還元されつくされることなく残り続ける(ここで全体の「主体」になるのが主人公も一人だったか、あくまでも全員の一致した意志だったかは思い出せないのが残念であるが、、)。いずれにせよ「3本の矢」の例えのように、力を合わせることにより強力なパワーを得ることができた。そして戦い終わるとバラバラに分解して個々の主体に戻ることができる。「合体」はここでは取り返しのつかない永久的なものではなく、あくまでも一時的なものである。一時的に神が降臨し、仕事してまた去っていく、というイメージ。理想形としての直接民主政体イメージともダブる。

 以上様々な「合体」の在り様があり、其々の特質を持っていて興味深い。
ものごとの原初的組成につきものであったはずの、このようなエキサイティングでダイナミックな異界結合の有り様が、どういうわけか美術的創作から抜け落ちてしまったように思える。



 3、美術内、作品内、虚構内における合体


複数の異なる物質がある種の関係をつくりながら一つにまとまり形成する。通常、我々はそれを化合物や混合物と呼ぶ。化合物は化学反応によって組成される純粋物。それに対し混合物はもう少し穏やかな結合である不純物。それを英語にすると化合物は[compound]、混合物は[mixture]となる。それぞれミックス、コンポウズ、コンビネイション、コンポジションと、美術ではお馴染みの用語につながっていく(どういうわけか英語やカタカナ的語意では「混合」と「化合」の境界が曖昧になっている)。英語表記やそこに由来すると思しきカタカナ日本語で見えてくるこの共通性は、自然科学とアートのアナロジックな関係性以前に、自然界における物質の生成と人間の創作物・作品の生成が重ねられている事が理解できる。そのことは美術的創造の原初的本性をはからずも垣間見せているように思われる。

 例えば化合物[compound]という語につらなる名詞コンポジション[composition]の意味は、作文、作品、構成、合成物、、、、とある。一般に美術におけるコンポジションとは「構成」、「構図」のことである。それは様々な色や形、線、、、の調和のとれた美的な、組み合わせ、配置等の所作を暗示する。美術的、作品的、キャンバス的枠内で繰り広げられる美術的語集、造形要素による均衡ある構成、配置。そしてその結果としての達成された秩序ある世界・作品。
 しかし今日それは、ある意味で、あらかじめ美術的に用意された「素材」、あらかじめ作品化されることを念頭においた「構成」による、予定調和の世界を暗示する言葉になって久しい。かつて「具体美術協会」がその宣言文で批判した「ミクロコスモス」として閉じられた虚構世界そのものとしてそれはある。「ナマ」な現実に立ち向かおうとした「具体」はこの「虚構世界」生成の根幹をなす「コンポジション」的生成を乗り越えようとしたわけだ(ミニマルアートの作家達もこの因習化された「コンポジション」を批判し、中心と部分のヒエラルキーの無い無焦点的全体性で乗り越えようとしたのだが、ある意味でより美術の抽象性を進めてしまったともいえる)。

 そもそも上記のように「コンポジション」は、その語義を観てもわかるように[compound](合成の、化合した、合成物、化合物、、、)や[combination](結合する、合同する、化合する、、、)につながる名詞だ。本来そこには自然科学が対象とするような、自然界におけるまったく異なる、固有な物質同士の原初的な関わり合い、混合、化合的意味合いもセットされている。その場合「構成」や「作品」が先にあるのではなく、個々の異質な物質の存在と、それぞれの様々な未知数な反応がまずあり、その結果として新たな「まとまり」(混合物にしろ化合物にしろ)が立ち現れてくるものでなくてはならなかった。それが美術語集化した「コンポジション」的ニュアンスでは丸ごと抜け落ちていく。

 いつの間にかその様な原初的「異界結合のダイナミズム」が薄れ、今日の「コンビネーション」や「コンポジション」という語感が示すごとく、一種の創作上の技術となって慣習化し、美術内、作品内、虚構内で繰り広げられる予定調和に終始するようになってしまったのではなかったか。ゆえにここでの異界間の「合体」はあくまでも「コンポジション」・「構成」の範疇、従って作品内で生じまた帰結していくにすぎないところのものなのである。
 とは言ってもコンポジション[composition]を否定することで、異界間による組成そのものを、アートから放逐してしまっては本末転倒である。
 今日あらためて[compound]的意味合いの原初的組成に立脚し、ものづくりを試行していかなければならないのではないか。



 4、美術外、作品外、虚構外からの美術への編入としての合体


 今日「コラージュ」と言われる技法の原点は、ピカソ達が実際の新聞紙や壁紙を画面上に張り付けた「パピエ・コレ」にある。フランス語の「紙」と「貼る」を結びつけた言葉で、これが英語化し「コラージュ」になったと言われる。先述の「コンポジション」・構成のキュービズム的探求の過程でその「発見」がなさられたというのも何か暗示的である。
 そこで重要だったのはおそらく虚構内に終始してしまう抽象的コンポジションの均質性を、打破するための具体性、現実性、固有性、異質性だったはずだ。
 それは確かに埒外の一点として、虚構的抽象空間に一種のスパイシーな存在感をはなつことに成功したと言える。

 「コラージュ」はその後ダダイスト、シュールレアリストをはじめとする前衛作家達の中で一般化し、写真、印刷物、自然物、廃棄物と裾野を広げやがては「フォト・コラージュ」、「アッサンブラ―ジュ」、「コンバイン」、「ジャンクアート」、「カットアップ」、、、、まで多大な影響を与え続けている。

 ここでその全容を考察する意図はないが、このような伝統的な美術的素材や慣習の外側からもたらされる様々な異物、手法は、確かにそれまでの表現には無い新鮮な力を美術にもたらしたのは事実であった。
 しかし総じて一度それが一般化してしまうと、一種の技法として美術的語集のページに加えられてしまう(今日それらの試みの多くが「モダンテクニック」なるものと命名され学校教育に組み込まれてさえいる)。このように自分の外側から新鮮な素材を見つけてきて、新しい活力として取り込みながら消費し、同化してしまう形態は、西洋近代そのものであり、アート上のこの一連のこの流れもその文脈に位置付けられてしまう危険がある。つまり「コラージュ」も所詮オリエンタリズムの「植民地主義」であると。
 もっとも例えば『Art Words-現代美術キーワード』というホームページによれば、ジョルジュ・ブラックの「変容」、「状況による変容」という言葉を引き合いに出しながら、「複数の状況を一義的に定義しうる基底面を指示することはできない。あるいは、それぞれの状況は絶対に一致しえない差異として表れるのだと言い換えることもできる。コラージュという技法はまさにそのような構造をつくり出す。ある断片の選択は別の断片の選択に横滑りし、同時にその断片の規定する何らかの全体性は同様に別の全体性へと更新される(森大志郎)」と解説している。しかし実際のほとんどのコラージュ作品では、何らかの枠組みなり支持体なり、もっと観念的な「美術」や「絵画」といったジャンルなりの「基底面」に、異物を編入する位置づけからは脱していない。そこでは「基底面」が更新されるのではなくて、その許容範囲を押し広げながら、より深度を増し、より強固な地位を築いていくように見える。
 
 このような取り込むものと取り込まれるもののヒエラルキーが確定された形態では、原初的な意味での「異界結合」は実現できにくい。先述の『デビルマン』の例でも明らかなように、「合体」とは本来、取り込むもの、取り込まれるものが拮抗し、時にその主体が逆転し、かつ分裂、変容するものでなけれなならない。




5、美術の外から「零度領域」への編入としての合体


 レオナルドダビンチの『受胎告知』(ウフィッツイ美術館)に感化されたというローシェンバークの「コンバイン・ペインティング」。確かに後期ゴシック的、レオナルド的に、無焦点というよりも全体焦点的均質性を生み出すに至っている。
「コンバイン」―「結合」という語感も、画面という基底面に異物を編入するヒエラルキーを乗り越えている感がある。ローシェンバークの作品形態は確かに、平面からレリーフに、棚上の立体、床置きにと、ジョイント過程で後天的に変容し作品化している誠実さがある。それぞれの事物の属性、「ペインティング」としての筆致、絵具、色彩、色面が確かに対等に融合し新たな「なにものでもない」(非実用的、非芸術ジャンル的)組成をつくり出している。


 ところでローシェンバークの「コンバイン・ペインティング」の下地となっているのは、その前世代の「抽象表現主義」の「オールオーバー」な無焦点性と均質性であることはいうまでもない。「コンポジション」の階層性を批判したのはまず彼らであった。彼らは「コンポジション」と一緒に、完結した「形象」までも画面から放逐し、ついに「フィールド・場」としての観念を生じさせるに至り、ここで作品概念はついにその作品形態の枠外まで広げられ、抽象性と現実空間が混じり合うことになった。この線上に「コンバイン・ペインティング」が登場する。
 さらに加えて重要なのは、デュシャンの「レディメイド」であり、そこから導き出されてきた「オブジェ」だろう。日常の既製品が芸術制度の中で日常性を剥ぎ取られ「オブジェ」化し「芸術」とみなされる。そこでは現実のありとあらゆるものが芸術と対等に、あるいは芸術化してしまう下地がある。「芸術が存在しないことの不可能性」(宮川淳)という言葉を思い出すまでもなく、ローシェンバークの「コンバイン・ペンティング」の背景となる地平がそこにある。
 日常の既製品を「コンバイン」しペインティングと同居させることで、日常性、意味性を剥ぎ取り、オブジェ化してしまうその所作は(確かに作家的な主題、イメージ、形態の素材として編入するものではないのだが)、非日常性、非意味性、そして皮肉なことにその無焦点で均質な「抽象性」において、その前世代(抽象表現主義)から現在に至るまで拡大する「芸術的零度空間」とも呼べるものにどっぷりと依存している事がわかる。

 彼は次から次へと世界中のあらゆるものを、その本来の文脈から切り離し、無化しながらこの「零度空間」という大きな見えない器に編入し、「芸術化」しているのである。それらは結局、それら以外の、さらに別な組成―「なにものでもない」・「新しい」・「作品」のための材料とされるのだ。それゆえ「コンバイン」は基本的に「コラージュ」的「外部」編入―同化の最終局面とも位置付けられる。

 文脈から切り離され、オブジェ化された「コンバイン・結合」。そこでは文脈と文脈、固有と固有の、それ自体のためのそれ自体による激しいぶつかり合い、合体はありえない。本当の異種間抗争とは、何処かの抽象的な競技場で行われるのではない。自分たちの固有な肉体、先祖伝来の領土そのものを焦土としながら行なわれるものである。


6・美術の外から・世界組成そのものとしての合体

 作家的意味、そして零度的無意味化としての意味。そのどちらもが結局「芸術」的枠組みへの世界の編入を意味し、その恣意的なヒエラルキーを乗り越えることができなかったことは上述した。

 それに対し私自身が試みているのは、ありきたりな既製の意味にどこまでも無意味に殉じていく方向である。

 具体的に説明すると、偶然拾った「具体的な断片」の固有な文脈、形状、意味にこだわり続けながら、その全体的組成を試みるというものである。
 ゆえに私の仕事は、あくまでもそうした具体的断片(美術の外)からはじまり、その固有性に規定され続けることになる。平らな断片は平面的に、レリーフ状、立体的なものは三次元的に、さらに大きさ、形状、材質、色合い、模様、さまざまな固有なノイズ、、、、、等その特徴に沿うように全体が導かれて行く。
 その道程は「美術の外」からはじまり、「美術の外」にとどまり続けるほかない。「作品をつくる」ことではなく、現実世界の事象やある種の概念がいかに組成され、形作られてくるのか、その構造を掴み出し、その生成に立ち会いたいと願ってきた。「既成の意味」という「無意味な意味」における「無意味」なかかわり。その過程で浮上してくる見過ごされがちなもう一つ深いところの「意味」。

 ところで最初のきっかけとなる「具体的断片」とは、言うまでもないことだが作品創作のための材料ではない。むしろ「主体」そのものと言える。その「主体」の「主体性」に導かれながら道が切り開かれていく。
 その「道」筋の過程で「主体」がさらに別の異物・「主体」を必然的に引きこんで行く(全ての「断片」を「欠落」しているのでかならず「全体性」を復帰させようとし、その過程でかならず「他者」―「別な主体」を必要とせざるを得ない。ゆえに「必然的」なのである)。ここに真の意味で、つまり異種間同士の切実な「合体」が行われようとする。

 特に複数の断片同士(主体同士)による集積、合体では、それぞれの固有な文脈、形状、意味が激しくぶつかり合う。その衝突の中から後天的に、ひとつの新たな組成が企てられる。
 全体に部分が編入されるのではない。むしろ全体と部分は流動的で、どの部分が全体にとって代わるか、主導権を握るのか、つねに不確定である。そこでは「主体」のアイデンティティが揺らぎ、分裂しているか(必ずしもヒエラルキーそのものが無い・対等だというわけではない)。
 そのようなラジカルな葛藤こそ、異界間の本質的な衝突―「合体」の証でもある。

 「異界結合のダイナミズム」が浮上してくる契機がここにある