<現在進行形・片付かない>
「後天的変質」を許容する、現実世界の事物では、当然のことながら完結、完成するということがない。
いわば現在進行形であり、つねに「いま・ここ」が折り重なり繋がり、刻々とその姿を変質させていく。
それは不特定多数の関わりが積層され、一人の作者的思惟を凌駕しているのであり、どこから来てどこへ行くのか誰もわからないのである。けっして完結しない、けっして片付かない、別な他のなにかになり変り続ける、捉えきれない雑多な世界こそ我々が実際に生きている世界なのである。こういった片付かなさに、片付けるものであるはずの「作品」存在がいかに拮抗していけるのだろうか?それは古くて新しい、作品とその外の広がりに関する永遠のテーマかもしれない。
「後天的付加価値」のもたらすこういった「現在進行形」、「不特定多数」、「一期一会」的特質は、今日いうところの「インタラクティブ」な性格でもあり、実際そういった表現に近似するものも多い。反面それは造形が本来持っているところの具体性、集約性、全体性を損なうものでもあり、インタラクティブな方向付けとは、ある意味で、「変化」というものに関する「ベタ」で単純な対応なのであり、失うものも多いだろう。
もともと造形表現の極意では、変化や運動、生命感等を、あえて静的で動かな個体物の中で、表出させることに腐心してきた。実際に動く造形やオーバーアクションのポーズをとるのは、かえって品位を落とすだけでなく、一過性の限定的な動性に自らを貶めるものと考えられてきている。
動性や生命力をあえて動かない造形物の中に内在させことにより永遠化すること。
そのような良質の芸術作品が持ちえたエッセンスを、この「後天的な変質」に立脚する新たな「表現」の中へも、しっかりと持ち込まなけなければならない様に思う。
様々にありうる可能性、複数の文脈、他者性を消し去ることなく、しかし当の造形物を解体溶解させることなく、内在させ永遠化させること。そういた筋道を考察していくべきではないだろうか?