<循環>
ある一定の距離に隔離されたコンタクト回路が継続的に機能する場合、それはかならずある「循環」構造を発生させていくことになる。
普段の生活空間/コンタクトエリア、普段の時間/特別な祭日が交互に交代する。どちらか一方であり続けることはできない。こちらとあちらを交互にいつまでも行き来すること。その往復運動はつまるところいつしか循環運動となるだろう。一か所に留まり続けるのでも、どこか遠くの目的地へいつまでも歩き続けるというのでもない。
いわば混ざらず攪拌しながら一体化すること。自己を保ちながら同時に全体性を手に入れること。循環とはそのような難しい交流技術から不可避的に生じてこざるを得ない構造である。
さらにコンタクト回路でとりおこなわれるはずの「交流」の実際を考察するならば、さらなる循環が見えてくるはずだ。
畏怖すべき「外部」は、多くの災いをもたらしながら、同時に食物や命などをもたらしてくれる源でもあるという矛盾した両義性を持つ。あちら側から恵まれたものに対して、こちら側からも様々なものごとを捧げて対応する。災いに対しては怒りを鎮める供物やいけにえ。食物の恵みに対しては、感謝をしめす様々な供物や芸能など。こちらがわとあちらがわは、相互にやり取りを続け、ものごとがたえず循環し流通する状態にある。流通しながらある種の並行関係を保っていく。いや並行関係を保とうとして流通がおこなわれるのである。恵まれるのみ、捧げるのみというどちらか一方方向に終始することはない。交流・循環やりとりでは依りしろや供物が用いられるが、まさに後代の造形表現のルーツとなっていくものであり後述したい。
いずれにせよ「循環・円環」のもっとも根源的なありようは、まさにこのコンタクト回路をめぐるいとなみにおいてであり、それ以外の循環はすべて表層にすぎない。まず循環とは二重性を脆弱な二重性のまま存続維持するがための必然的な構造なのである。
この構造は民俗文化において決定的な影響を示し、例えば輪廻転生の時間感覚、世界観はその様なところに発していると考えられる。下図参照。