1・ 美術と前近代文化の類似
「場」の力
異界との交流を行なう境界領域―聖なる空間における「場」は、美術という文化形式における展示空間としての「場」と、ある種同質の象徴性をおびている。
その象徴性はその「場」に一種の「力」を付与する。いわば「オーラ」と呼ばれてきた不可思議で格別な印象を、その場に接する人々へ与える。その特有な「場」では、普段の世俗空間においては何でもないものごとが、まったく違った、特別で意味深長な何ものかとして体験されることになる。
例えば東北地方の青森県に恐山という霊場がある。亡き人の魂はみんなここに集まると言い伝えられてきた有名な霊場であるが、一口に恐山と言ってもかなりの広さがあり、山あり湖ありのあるひとつの地帯といったところであろう。ただひとたびこの地帯に足を踏み入れるなら、やはり特有な磁力がそのあらゆる場所に働くことになる。単なる石の集積、集積した山が、「ほとけ」の依りしろになり、「ほとけ」そのものとなる。手ぬぐいを巻きつければ「ほとけ」の顔になり、石を積んだり、草を結べば死者への回向になる。日常世界からはなれたこの地帯の中では、象徴能力が活性化されていくようで、通常では何でもないモノが、様々な想起を喚起していくのである。聖地・霊場というものにもいろいろあって、例えばアブラハムの岩があるエルサレムの様な、なんらかの由来・神話がある唯一無二の場所だったり、超絶的な奇岩、絶景が展開しているとか、大建築やすばらし神像が立っていたり、、。そのような特筆すべきなにものかのおかげで、その領域が特殊な聖地として磁力を発することになるのだろう。恐山の場合、すばらしい大建築や仏像の類いは皆無であり、しいて言えば、遠く人里離れた立地と、火山地帯の特有な雰囲気、原始さながらの湖畔と山の景色が、聖地を聖地たるものにしているようだ。しかし何か大変貴重なものがあるとか特筆すべき宝物があるというものではない。にもかかわらず、この恐山領域に限っては、ただの石の山が有難がられ、そこに沢山の供物が供えられ積層していくのを目の当たりにするのである。
同様に、美術的な場所。たとえば美術館という空間にひとたび足を踏み込むならば、そこはやはり普段の価値基準が通じないことになる。単なるものが唯一無二の芸術品としてあがめられる。内実が伴う傑作ならよいが、駄作も多い。多くの場合、観客はその作品の内実に触れることなく、美術としての場所の持つ力、約束事に自身の感覚をゆだねる。美術的な場所にあるものは美術作品にみえるのであり、美術作品として体験される。
約100年も以前にマルセル・デュシャンが既製品の便器に偽名のサインをして、そのまま展示して物議をひきおこしたのは、そうした場所や制度のもつ力を意識してのことであった。芸術家がつくったものではない工業製品の部分をそのままこの特殊空間に持ち込むことによって、美術作品の意味と同時に、普段の生活空間、既製品に対するものの見方まで一変させてしまう。
ただ、デュシャンの試みによって、美術展示場や制度の見えない力が白日の下にさらされ、消えてなくなったかと言うと全然そんなことはなく、いまなおその力は猛威を奮っているといえる。そもそも彼の便器や車輪自体が、一種美しく神秘的な表情をたたえている。そういった場の持つ力は、自覚されても消えることなく現在も作動しており、作家がより自覚的にその力を引き出すすべを心得るようになっただけなのかもしれない。今日ますます美術という特定の場所がなければ、表現が成立できえない作品が増加しているが、そういった構造に自覚的な者は意外に少なく、無自覚に習慣として委ねられているケースを散見する。
聖地と展示場。
この異なる文脈の異なる二つの場所が類似しているのは、おそらくその共同体内における、そうした「場」の位置づけに共通した何かがあるに違いない。社会的文脈―功利的な視点の外に、あえて設けられた真空スポットとして、特有の磁力が発生していく。そこでは社会的価値観が裏切られかつ常識感覚がズラされる。普段の意味や約束事が無効になり、あるいはより根源的な問題がむき出しに投げ出され問われる。
そこには共通のメカニズム。「それ」を意義づけひとつの表現たらしめてしまう同じ構造が秘められていると推察される。
このような二つの場における共通の構造は、より直接的には、もともとアートのルーツが「境界」にあったというところに起因しているともいえよう。それは約束事や慣習の成立する以前の始原的次元へ我々を誘いつづけるものであった。
いずれにせよ、今日まで整備されてきた美術とは異なる、前近代的で呪術的な民俗文化に対する考察が、今日の美術表現を分析し、かつ試行するのに至極有効なのは、こういった前提となる「場」の共通性、構造の同質性に由来するのである。
形式の力
交流と美術。このふたつの領域では、場のもつ共通の磁場を背景に、様々な特有な約束事(もちろんそれは日常空間の約束事とは異なる)、一種の共通した「形式」―象徴形式を育んできた。
もともと神殿への供物としての彫刻、あるいは神像表現としての表現形式が、世俗的支配者が模倣して、自身の像をつくらせたり、自身の家を飾らせたりするのがわかりやすい例だろう。大理石を使用し、神々のポーズをまね、台座にのっかり、あるいは、壁画として描かれる。聖なる形式はそのまま世俗的・芸術形式へ移行していく。いわば芸術化の形式は、聖化―聖別の習俗の上に乗っかるように確立されてきたのであり、その根幹には同じ構造が内蔵されているのである。
この聖別―芸術化するメカニズムは、つねに普段の日常的常識を前提としている。それは、日常的水準を巧みにズラしていくことによって成し遂げられているということができる。このメカニズムは古今東西普遍的なものであるようで、もちろん今日の美術においても、無自覚ながら受け継がれ変わらず生き続けている。
以下は「依りしろと供物」の項目で提示した図である。
日常的実用 | 非日常・マイナス | 非日常・プラス |
ソフトな素材 | ハードな素材 | |
縮小 | 拡大 | |
簡潔・単純 | 複雑・精緻 | |
一回性 | 永遠性 |
つねに聖化―芸術化のメカニズムは、日常―実用的範疇の逸脱を条件としている。
それはプラスに逸脱する方向―「ハード」化と、マイナスに逸脱する方向―「ソフト」化の両極にわかれていると考察できる。
そこではかならず、日常的な「実用」の水準を、素材の面でも、スケールの面でも、作り方の面でも、故意に大きく超越していこうとする。
「聖なる」表現は、つねに日常的文物・水準との比較軸が秘められているのであって、逆にいえば日常性と無関係でまったくでたらめな(自由な、自分勝手な)表現というものはあり得ない。美術においても、単なるでたらめな自己表出(そういうこと自体それはそれで難しいことではあるが、、)が高次の表現性を獲得しえないのと同様である。
以下上図を参考に説明していく。
素材
石や金属や檜など高価で強度のある材質(ハード化)によってつくられること自体が聖化のあらわれであり、同時に芸術化の記号である。ハードな材質は半永久的な時間残り続け、人間の一生を凌駕して共同体を見守り続ける。それは骨であり、墓石のメタファーなのである。残り続けるので、人の目に触れやすく、かつ伝統化されやすい。新たな石像は以前の石像を意識し、それを前提としてつくられるので、より洗練したり、発展したりしていく可能性がある。しだいしだいに様式化され成熟していきついには後世「芸術」とされうる質をそなえていく。共同体が滅び、神との交流が途絶えたのちも、石像やブロンズ像は残り続け、発掘され、背景の文脈から分離自立して、コレクションされギャラリーに陳列される。これが後世美術の模範とされることにもなる。今日でもハードな素材により芸術化・モニュメント化がこころみられる。それは例えば普通の人だったり、犬などの動物、軽薄な記号をあらわすモチーフだったりする。象徴形式としての主題と素材の関係はズラされながら、少しずつ刷新されようとする。
一方で通常の素材よりも「ソフト」な素材に変換されることも多い。民俗では例えば、藁や粘土や紙などで人形がつくられ、儀式的に焼かれたり割られたりしてきた。このようなソフト化は残りにくいので、蓄積発展、コレクション化はされにくいが、まさに生きた民俗と言え、その瞬間において最大限の表現力を発揮する。
美術では、近代にいたるまで、「ハード」化路線が主流であったが、昨今、あえてソフトな素材が選ばれ、アイロニカルな象徴性を発揮した作品が目立っている。例えば、ゴム、縫いぐるみ、食物、花などの素材による立体作品が散見されるし、FRPなどの立体もその範疇であろうし、あるいは組み立て分解式の仮設的な作品類も、あえて永久性を志向しない点において同様であろう。
スケール
スケール感を変換するということも一般的である。仏像は大仏として大きくつくられるものが大きなパワーを発揮するし、巨大な権威、権力では、巨大な神殿、神像はその象徴となる。
一方縮小化という方向も頻繁に見られることである。人間が到底入れない小さな祠や乗り物、生活用品のミニチュア。精霊や小人の様に、普段の感覚では察知できにくい、神出鬼没の存在感を示してさえいるようだ。小型化した日常用品は、子供の玩具と関連していく。しかしそれは今日的なニュアンスでの玩具とは違っている。それは「ソフト」化という象徴化の形式であり、流動し見ることが出来ない精霊の気配を表現するものでもあり、そもそも「子供」という存在自体、霊的なポジションにあった。江戸後期に「郷土玩具」として、お祝い、土産品として流通してくるもののルーツは、そのようなところにあると推定できる。
美術においても、通常のスケールを変換するタイプの表現にはことかかない。ルネッサンス期のミケランジェロのダビデ像でも、一種の巨大化がはかられている。今日では、ハードな素材で、同時に巨大化するというケースは、社会主義や絶対政権の彫像等を例外として、ほとんどない(かわりに、主題を世俗的低俗的なものにするケースではありうる)。近年では巨大化する場合、素材はソフト化することが多い。ジェフ・クーンのバルーンや花の犬の作品がそのよい例である。
反対に縮小化する作品で、ハードな素材に変換されるものは多い。そもそも造形化とは、とらえどころのない精霊を把握できる形におさめ所有するところにあり、「造形変換」とは基本的にまず縮小化なのであり、それはつまり芸術化なのであるということも言えるかもしれない。キッチュな土産品などもその辺の部分で言えば同根にあり、例えばその土地の名物・エッフェル塔などをミニチュア化し金属化したような類いのものは数知れず、人々の所有願望に至極かなっているのである。今日のアートではそれをさらに反転させて、このキッチュな品々を巨大化させるアート作品も多い。日本のオタクカルチャーを美術作品化して輸入しようとした村上隆の仕事も、このような視点でみてみれば、ありきたりな伝統的パターンにきれいに収まってしまうのである。
それに付随して言えば、いわゆる絵画化―二次元化という形式も、ある意味、現実世界の縮小化(3次元から2次元への)といえるのではないだろうか。例えば絵馬などではそれが顕著であろう。紙に描かれる祝い絵も同様。縮小化、ソフト化されながら霊的識別されるのである。しかし絵画の場合ハード化といえなくもない、巨大化、不変化が試みられることもある。壁画やしっかりとした支持体に描かれるイコンや祭壇画などで、ハード/ソフト両面の資質があるのがわかる。
つくり
その他に造形の「つくり」を通常の常識をうわまわる複雑精緻なものとするというハード化(プラス化)も行われる。そもそも優秀な石像は超絶した技量によって生み出されていく。あるいはそのような精緻さが、装飾に向けられることも多い。実用的には意味のない、複雑精緻な装飾模様が施される。その手間暇かけて施される模様は、聖なる形式であり、特別なしるしとされる。芸術的表現でも、このような精緻な技量が投資されるが、古代ギリシャのクラシックに由来し、近代美術にまで波及する美意識では、こういった精緻な技量、これみよがしな装飾、表面加工はあまり評価されない。一方、現代では、こういった不必要とも言える精緻な装飾や表面へのこだわりが作品に表れている。橋本平八や戸谷成雄、、、、日本の作家にも多く散見される。
逆に「つくり」をなるべく無造作に、素朴に、あるいはほとんど未加工な状態にとどめ置くという「ソフト」(マイナス)の方向性もやはり注目すべきであろう。依りしろ的媒体表現の伝統、あるいは自然信仰的体質をより強く伝える我が国の造形では、ある意味で本家本流の傾向をしめすともいえる。表現において、洗練、様式化、成熟、深化とは我が国においては、つくりの簡略化、抽象化、自然素材、未加工物質の露出という傾向をとることが非常に多い。このような簡略化は、近代美術における抽象的表現、あるいはミニマリズムとも繋がっていくことになり、究極的には「つくらない」作品へ、未加工の物質を扱う形態へ移行する。
通俗的なニュアンスでの縄文的趣向と弥生的趣向なるものは、一見相反するもののようでも、このような側面から考えれば、コインの表裏をなし、ともに実用的水準からのプラス/マイナス両面への超越を示すものとなっている。
フレーム
特定の台座や器に盛る、提示するというのは、聖なる供え物としての体裁をとるところに由来し、そのまま芸術形式にとりこまれていく。それは日常の事物といかに距離をとり、功利的な文脈と切り離せるか、聖別するか、というものであり、さらに特別な装飾や摸様で飾られグレイドがアップされようとする。
例えば「埴輪」の原点は供物のための「器」状の形態にあり、器をベースに家や人や馬、船が取り付けられていく。彫刻の原点も、壁面や柱にあり、あるいはそれが移動式の供物であれば「台座」自体が文字通り、物理的にも象徴的にもその基礎となる。
それは平面でも同様であり、絵馬の枠や、絵画の額縁、祭壇の装飾的な縁取り、掛け軸の装丁、、、、。世界の諸相が特定のフレームで切り取られ抽出される。あるいは器にきれいに盛られる。その上で、さらに神や観客へ提示される。フレーム化とはそのまま芸術化であるのは、あまりにも明白である。マネが売春婦を、モネが積み藁を、ゴッホが向日葵を、それぞれフレームに盛り付け、近代の新しい供物としてきたのである。
神話形式
特定の大きな物語―神話の物語、場面、登場人物の意匠、ポーズという形式にあてはめていくこと。
民俗の祭りでは、始原的な神話が生身の人々によってくり返し演じられていく。それらは芸能となり、様々な後世の題材の結びつき、絵の主題ともなってきた。神々の意匠やポーズを演じるのはローマの皇帝から、ルネッサンス期の金持ち、近代のマネに至るまで続き、現在の作家では、映画スターや過去の名作を題材とした例えば、シンディ・シャーマン、森村泰昌などへと至っている。
このような分析―民俗文化と美術に共通したメカニズム。
それを表現たらしめる構造への考察は、今後さらに精緻に進められる必要があるだろう。いずれにせよこのような視点において、原初の文化から近現代にいたるまで、その全体をつらぬく普遍的問題がはじめて鮮明に浮上してくるのではないだろうか。文化の違いや意匠や情緒レベルといった表層部の類似比較とは異なる、構造レベルでの比較考察が可能となった。
このような分析は、古今東西の表現の理解をより進めてくれるとともに、われわれにとって何が重要で何が枝葉なのかより明確に指示してくれるに違いない。