熟成する水
自分にとっての水
ここに住むことを決めたのはこの川を見たからなのだが、僕は別に川が好きなわけではない。むしろ好きなのはユングもそうだったように湖や沼の方で、海となると川よりもっと興味が出ない。それはなぜなのかわからない。かなり本能的な衝動である。そういうわけで湖の夢はよく見る。一番多いのは、綺麗に静まった湖面にさざ波が生起し続けるもので、時にはトビウオのような魚がピョンピョン飛び跳ねることもあった。そんな夢を見て目覚めた時は決まって爽快な気分になっている。別にここで夢分析をするつもりはないが、要するに自分にとっては、水というよりもこのような具体的な川、もしくは湖などの印象がより密接に心の中に生きていて、その中でもなぜか湖や沼が好きだということを言いたいのである。
一口に言う水、元素としての水、そうじゃないいろいろな水
一口に「水」といっても、とても抽象的な気がする。実際体験で純粋な「H・O」にふれることはまずない。コップの中の水も身体の中の水分も雨の雫も各々不純物を混じらせている。そうしてその形態、状態、その呼び名が各々異なる。形態や状態と言ったからといって、固体、液体、気体というとらえかたも、何かの理科の実験の様でどこかうさん臭い。実際の現実感覚から言えば、降ってくる雨と地面にたまった水たまりの水は全く別な体験だ。したがって固体、液体、気体と変化しながら水が循環していると言う事実も、それは常識としての知識としてあるだけでなかなか自分には実感が持てない。地球が毎日回っていると言う知識と同じだ。水はとらえ所がなく、あらゆるところにあらゆる形状を持っているので、「水」という体験としてはそれが一つの具体的体験である以上、つねに具体的な特殊体としての水、例えばどこそこの川、湖面、誰かの汗、何月何日のどこそこに降った雨などとしてしかあらわれてこない。そいうわけだから僕も水にまつわる気になることを述べるにあたって、身近な体験から考えていきたい。そうしないと結局水について本当に語ったことにならないような気がする。
ながれ
いったいこの膨大な量の水はどこから来てどこへ行ってしまうのか。自分に実感できるのは川上と川下と言うことでしかない。それが複雑なプロセスで循環しているという実感はもとよりない。ただ川の水が自分のところに流れてきて、自分のところから流れていくということしかわからない。桃太郎の桃は偶然ながれてくるのを待っていて拾うしかなく、嫌なことやものはただどこかへ流して忘れてしまえばいい。「どこから」と「どこへ」は謎のままで知る由もなく、したがってその全体を見ることも把握することもできない。見ることができるのはただ自分のいる一地点にすぎない。川の流れはいつも同じでしかも同じでない。同じように見えるが実は膨大な量の水がつねに流れつづけていて、各々の瞬間に見える水は全て違う水なのだ。1時間せき止めるだけでも相当な量の水がたまるのであり、それが何日も何百年もつづくのであるから信じられない量の水が川を下っていると考えられる。ちょうどニューヨークの9、11のテロで一時的に金の流れがストップして、膨大な量の金が滞り大きな損害を各所で生み出したが、そのようなある種の「断絶」によって、はじめて普段の流れ続ける「量」の膨大さが実感される。自分の体内を流れる血液も同様であり、血管が切れてはじめてふだんたくさんの血液が自分の体内を流れているのに気づかされる。「断絶」でもなければ、川の流れも金の流れも血の流れも日々変わりなく、平穏に眼前をあちらからこちら、こちらからそちらに流れ続けるのをただ眼にするしかない。そんなことに起因するためなのか川がさらさらと流れているのを見ているとみょうに清々しくも空しくなるのである。
たまり
僕がなぜこの大壺を気に入っているか、どうでもいいことのようだがこの文章のテーマと深いつながりがある。川や海よりも湖や沼の方が好きだということは先に述べたが、この大壺のような深い「淵」、「溜まり」もそれと同様の好みだと思うからだ。
このようなところでは流れが滞り、いろいろなものが流れてきたまま溜まっていく。石、泥、落ち葉、小枝、様々な生き物。時にはそこに住み着いた魚が大きくなって川の「主」と目されることさえあるにちがいない。自分自身何でも溜め込む性格のためか、川に流してスッキリする心持ちはわからなくもないがあまり好きではない。あらゆるものが溜まり、住み着き、何か磁場のようなものを発してくる「吹きだまり」の方にどうしてもひかれてしまう。その大壺は「壺」というだけあって、大きな岩に囲まれた深い器のようになっている。そしていろいろなものが底の方にたまり、住み着き、沈澱し、ある意味で発酵し、熟成し、そこだけが別種の「場」、「水質」に変貌している。「何か」が「いる」という水とたださらさらながれさる水では、その水質自体からして違って見えてくるから不思議だ。
ところで川の各所で名前がつくのは、きまって岩とか橋とか、あとは滝といったオブジェ的な、つまるところ物的なものである。そういうことからすればこの大壺もいわば水が「熟成」することによって、ある種の物的な固有物になってしまったからこそ固有名詞がついたのだろう。大壺のような溜まりに住み着いた生物とは、いってみれば水質を発酵させる「菌」のようなものだといえる。菌の発生によってその溜まりは、他の川の「ながれ」としての水とは異なる別種の物質に変質してしまうだ。つねに流れ続ける川、そして形を変え循環さえしているという水という流体が、一定の場所、かたまり、仕組みを形成していくとき何らかの意味で「熟成」がおきて固有な別な何かに生まれかわる。
H・Oとしての水も、このように流動性が固定化し物化してくると固有名詞がつけられる。何百年何千年も流れつづける形態を持続させている「川」それ自体がそうなのだが、沼や池という水の溜まりに竜神沼や不動池、カッパ淵などの名前がつき、それと同時に各々の固有の場、固有の水質、固有の意味、固有の生き物、固有の伝説などが一つの塊となって固着していくことになる。いわばそこではここでしかない「オーラ」が生まれていくのである。そしてそれはたんなる物化したにとどまらず、自ら生き成長し続けるミクロコスモスを形成していく。
固体と熟成
固有名詞がつくからと言って石などに代表される不変性としての物質感と異なるのは、その「熟成」が時間をかけてしだいに「なってくる」物である点だろう。そしていわば完結した閉じられた物ではなく、終りなくたまるものはたまり、流れていく物は流れさっていく。動きつづけることによって変わることのない表層部−水面と、不動の、それだからこそ溜まり続ける最深部−水底の両面を同時に合わせ持っているということができる。だから固体だとか液体だとかという単純なわけ方では通用しないのである。
我々人間は、堅い岩と形のない水をよくその対極としてとらえ、世界の基本物質として地水火風などを選別し、物質一般を固体、液体、気体と分類する。これら世界に対するある種の定型化した概念化においては、この「熟成」して生まれてくる物、そしてその体験はとらえられないように思う。せいぜいそこでは、「菌」−「病原菌」におかされた特殊形としての「崩れた物質」としてあつかわれるのがせきのやまだろう。「菌」を徹底的に排除した世界というのは、あらゆる神話を失ったよそよそしい対象物でしかない。実際は「菌」を死滅させることなんてできることではない。なぜならそれはそもそもが「菌」といったものではなく、もともとそのものの重要な一部なのだから。
このように身近な川という具体的体験を通して「水」を考えてみると、「ながれ」と「たまり」という対極的な観点が僕には重要に思える。そうしてそこから独特で呼びようのない物質観が導き出されてきて、それをいちおう「熟成」という言葉で呼び考えてみたわけである。僕にとって川のながれは、上流から下流へ何か大切な物が、どこかからどこかえへ流れつづけているように感じられるのにくらべ、「熟成」した「溜まり」ではそのものの内にしっかりと何かあるように思える。僕が川よりも湖、川の中では淵、溜まりにひかれるのはそんなところに起因するのだろう。
雑誌『インファンス』bX・2003年掲載