造形における「虚」の働き
はじめに
ふつう「虚」の反対には「実」が対置される。
なので、もともと「実」材をもちいることになっている「造形表現」にとって、「虚」は対極的なもののように受け取られがちである。他の表現ジャンル、音楽、映像、文学などと比べると、「造形芸術」の「物質性」はとても際立っている。いわば、具体的に手で触れる「実」としての即物性は、造形芸術という形式に内在する、もっとも基本的な本性であると言えるかもしれない。
しかしそのような「造形表現」では、実は逆説的に「虚」がとても重要な役割を果たしてきた様に思われる。
それどころか造形表現というものの本性―実材・物質性は、その反対の「虚」との関係で考えなければ、その本当の意味が見えてこないのではないだろうか?と日ごろ自分は考えている。以下簡単にその論旨を述べてみる。
造形の特性
「物質性」と「人工性」。
一般的に言ってこれは「造形」のもっとも基本的な特性である様に思う。
それは具体的、即物的、実在的、視覚的、集約的でありながら、反面において、限定的、固定的、人為的な性質を「造形」が本質的に内在させているということでもある。宇宙や世界の広がり、神々の超越性、世界の複雑さに比べれば、元来造形という存在が、具体的で身近なものであるとは言えるけれども、いかにも矮小で卑近で非力なものであることがわかる。もともと自然信仰や様々な宗教−仏教、イスラム教、ユダヤ教、あるいはキリスト教でさえ、基本的に信仰対象の「造形」化に消極的、懐疑的なのはそのためであろう。
かつて人類は自分達を取り囲む未知なる広がり―絶大な脅威に対し、全力で対処し続けなければならず、またそれを絶えず意識しなければならなかった。直接的な脅威をより間接化し、より制御可能な方向へ関係構築し、それを維持していく必要があった。そして、そこでは常にこの「造形」という形式が役に立ってきた。それは今日でいうところの「実用レベル」だけでなく、「象徴レベル」においても同様だった。先述の「造形」本来が持っている「矮小」で「卑近」という一見ネガティブな性質が、特にこの「象徴レベル」の造形でフルに活用されてきている。この「象徴レベル」の造形は、その後の「造形表現―造形芸術」の源泉となってきていると考えられるので、このことは大変重要な問題をはらんでいると考えられる(もちろん実用的と象徴的なものの区別はあいまいで、かつて両者は切り離せないものではあったが、ここではあえて便宜的に、分けて論旨を進めていく)。
実用レベルの造形
「実用レベル」の造形は、言ってみれば、人間の身体能力の延長でありその補強から始まっていると考えられる。様々な防御壁(壁、家、服、靴、、、)武器、道具は、そのまま人間の皮膚や骨、筋肉、爪、歯、五感能力の延長線上に生まれた。弱い身体能力であるホモサピエンスは、大脳を発達させ、ものを使う、作ることによって、自身の身体能力を補ってあまりあるものにしている。様々な「造形」の開発、進化は、様々な他生物に見られる身体上の進化、分岐に対応する。「実用レベル」の造形は、それぞれ一長一短ある様々な素材や作り方等を使い分けしながら、時と場合に応じて上手に外界に対応していこうとして生み出されてきたものである。
それを先述の「造形物」の特性−「物質性・人工性」に照らし合わせるとすれば、まず「物質性」としての様々な素材の特性が巧みに生かされているのがわかるだろう。例えば石の硬さ、骨の鋭さ、木材の弾力、長さ、粘土の可変性、セラミックの防水性、毛皮の保温性などなど。その上で、「人工性」なので、いくらでも必要なだけ思いのままつくることができ、壊れたらなおすことも取り替えることも可能となる。改良を加えより便利なものに修正することもできる。自身の体を傷つけることはない。これまで人類は、自身の体を鍛える以上に、自身の外側に、役立つものを「造形」することによって自身を発展させてきている。
象徴レベルの造形・よりしろと供物
不可知な宇宙―自然の脅威に対処するためには、先述の「実用レベル」の対応だけでは不十分であり、「象徴レベル」の対応が必要不可欠であった。そのような象徴的次元において施されてきたいわゆる「コンタクト回路」(「祭り」やもろもろの祈りの儀式等)では、例えば「よりしろ」や「供物」といった「象徴レベル」の造形に極めて重要な働きが担わされている。「物質性」と「人工性」−「矮小」で「卑近」なるものとしてのネガティブな性質がここに強く反映されており、かえってそれが機能上非常に都合のよいことだったと考えられる(もちろん「造形物」ではない「よりしろ」や「供物」もあるわけだが、やはりそれらが「よりしろ」や「供物」として機能する以上、同様の造形物的特性が強く反映されている)。
例えば「よりしろ」は未知で不確かで流動する「何ものか」(カミ、霊、力、脅威、災い、、、)を、より確かで目に見える―制御可能な形式に置き換えようという目的を持つ。そうすると、具体的、視覚的かつ矮小(コンパクト)で卑近(身近)な存在である「造形」物としての形式が、そういった変換にもってこいの形式として採用されるのがよく理解できる。
一方「供物」は、人間側からの「贈り物―捧げもの」なので、やはり同様に、人間的―人工的で具体的なものが要請される。それは常に外界からの「恵み」や「災い」の強大さに対置されており、人間存在の象徴的反映として、かえって身の丈に合った矮小さ(それこそ「造形」の特性であるところの)が表現されている。それは、受け取るのと同じ量を捧げるのが不可能なことにより、量的均衡ではなく、象徴的均衡をはかろうとするためでもある(いかに豪華な供物であってもそれは基本的にはかわらない)。捧げられる収穫物や労働そのもの、あるいは生身の人間そのもの(人身御供)も「造形」ではないが、基本的には同様の特性に基づいている。
このように象徴レベルの造形(よりしろ、供物)では、実用レベルの造形とは異なる点において、「造形物」そのものの特性に基づいているのが理解できる。それはしばしばネガティブな側面として受け取られてしまう部分を、逆手にとって活用しているところが重要である。
「虚」に招き入れる・「虚」を差し出す
基本的に言って、実用的造形物は、日常生活上の実際レベルのものごとに対応し制約されあらかじめ条件付けられている。例えばそのスケール、強度、耐久性、クオリティ等々の面において。
一方「象徴レベル」の造形も、非日常の象徴レベル、つまりあらゆる脅威の「絶大さ」、「不確かさ」を常に前提としそれに対応しようとしている。スケール、強度、耐久性、クオリティ、、あらゆる面において。それゆえに実用的造形と象徴的造形では、大きさや素材、作り方、密度、、、において基本的な違いがある。
「象徴レベル」の造形は、日常的な実用の要請から外れている。役に立たない耐久性のない素材、作り方、大きさだったり(泥、藁、紙による細工、棒、入れ物、人形、絵、様々な日常品のミニチュアあるいは巨大化)、逆に不必要不経済不合理なほどの高価で恒久性のある、もしくは扱いにくい素材、手の込んだ作り(大理石などの石材、金属、ヒノキなどの特別な木材によるもの、過剰な飾り、装飾模様の導入、あるいは高度で洗練された加工、、等)だったりする。実用水準をマイナスにもプラスにも逸脱し、どちらも日常的にはあまり「役に立たない」ものである。
そうすると、実用レベルの造形が「実」際に役に立つ、現「実」的―「実」の造形に終始しているのに比べ、「象徴レベル」の造形は、役に立たない、現実から「逸脱」した、「実」の外側、、、いわゆる「虚」の造形に終始する。
そういった「虚」の造形ではさらに、「虚空」の造形と「虚構」の造形の二つに分けることが可能だ。「虚空」の造形は、実用水準を素材、スケール、加工等の面で下まわるもの。逆に「虚構」の造形は、実用水準を素材、スケール、加工等の面で上まわるものである。
「象徴的レベル」の造形では、大まかに言ってこの二種類の「虚」が大きな働きをしていると想定できるのではないだろうか(もちろん両方を兼ねているものもある)。
両者はベクトルが違う。「虚空」は「ある」ことが前提となる空間における「無い」こと。「虚構」は何も「ありえない」ことを前提とした空間における「ある」こと。どちらも物質的、人工的な「造形物」でありながら、「脱実用」の大きな「虚」を抱え込んでいる点では同じだ。「虚」を必要とするからと言って、初めから何もしない、造形を放棄するというのではない。むしろ、実材による造形化によって、かえってその非現実性―「虚空、虚構性」が対比的にきわだてられることになる。
「象徴的造形」は、不可知な自然界の絶大さに対して、実材をもちいながら「脱実用」(非実用・超実用)によって対処しようとする。どちらも「実」でありながら「虚」でもって、その無限定な強大さに立ち向かおうとする、一見入り組んで複雑な人間文化の妙を見せてくれる。
例えば造形表現としての「埴輪」は空洞で中身がない。「人形」は具体的なその実材性に比べ、表情が希薄でけっして動くことのない魂のぬけがらである。お社の中はたいがいガランとしている。あるべきところにあるべきものがない。だからその内側に「虚空」が生まれる。
あるいは人里離れたの深山につくられた門や建物(いわゆる神社)、誰もいない、見えない相手に対するお供え物。人間が住むことのできない焼かれるための藁製の小屋。人間の履けない大きな草鞋の供物。あり得ないところにあること―そこに一種の「虚構」が立ち上がる。
そこでは「造形」物が、わざわざ「虚」を生じさせるためにつくり出されていく。物質的・人工的に「虚」を生み出し、人知を超えた無限定で絶大な自然・宇宙へそれを通じ合わせようとするために。
だから人形は人形でいいのである。代用物は代用物でいいのである。中身の空洞・空虚に目に見えないいろいろなもの―霊や災いやなにかを吸いつかせるために。あるいはその「造形」が「ほんもの」らしくなく、実用では役に立たず、時に飾りも派手に虚飾めいていてもよい。豪華な装飾や特別な形式は、我々の実用生活とは無縁の、神々のためだけに捧げられる供物である。そうでなくては現実を超えた広い世界と通じることができないし、現実としての「実」を確保できない。
「虚」に招きいれようとする「よりしろ」
「虚」を差し出す「供物」。
「よりしろ」は「虚」をもちいて、宇宙を呼び寄せ「実」の世界に翻訳しようとする。
「供物」は「虚」を宇宙に差し出し、見返りに「恵み」で「実」を満たしてもらおうとする。
この世とあの世は「実」を超えた「虚」によって通じあい、柔軟な対応関係を作り出す。
どちらも無限定で絶大な「何ものか」を呼び込み、制御し、関係をつくり、安定した「実」を形成せんがための「虚」である。いや「虚」を内包させた「造形物」である。
絵馬と絵
ここで「絵馬」という具体物を例に、先述してきた「虚」のメカニズムをさらに考察していこうと思う。
神社に「奉納」される「絵馬」は「供物」の一形態である。名前こそ「絵馬」だが、実際に馬が描かれているものは一部で、それ以外のもの、例えばお願いするジャンルに応じてそれぞれ違った主題やモティーフが描かれている。支持体は板が多く、立派なものになると縁が額縁の様に付けられ神社に飾られる。「絵馬」は、日本の民衆の中に最も根付いている「え・絵」のありようを示しているものとして大変興味深い。
もともとは本物の「馬」を奉納するところからきており、それが木製の彫刻や焼き物になり(いまだに木馬を奉納する地域が残っている)、絵に描かれた馬の絵がささげられるようになり、しだいに馬に限らず、もっと直接的で具体的な願望を反映させた様々なモティーフの絵が多くなったと想定できる(実際の歴史はもっと入り組んでいると思われる)。
元来、馬という動物は貴重で、貴人ののりものとされる。兵隊でも馬に乗る人物は身分のある者である。馬は足が速く、当時では最も早い、移動手段、伝達手段としても使われてきた。つまりこれらのイメージを総合すると、当時における最も有用かつ上等な「メディウム」・媒体だったと考えられる。
メディウムとしての馬は、常に「何ものか」を背中に乗せて移動する。背に乗せる「何ものか」は目に見えるものとは限らない。ある種の重要な伝令、メッセージ、霊、カミであったりする。それでしばしば何も乗せていない馬の背−すきま―「虚」が聖視されることになる。山の神を里に呼ぶ儀式では、誰も乗せていない馬をつれて山に登り、そのままただ降りてくるというものがあると聞く。言ってみれば高級ハイヤーでの送迎を、空の馬で儀式化しているようなものだ。
このような営みは、この「絵馬」奉納を考える上でとても示唆的である。カミが住まう山―神社の社殿に「絵馬」を奉納する。そうすると願い事がかなうという習俗。奉納した馬―絵馬に乗せられて願っていた果実がこちらにやってくるというイメージ。いわゆる「絵にかいた餅」が「本物の餅」になるのである。
なにも乗せていない馬の「空・から」の背にある「虚」は、「絵にかいた餅」であるところの「代用物」としての「絵馬・え」の「虚」と深く結びつく。
「供犠」を平たく言い表すとすれば、わざわざ「空・から」の造形を供物として差し出し、その上で、神々に中身を詰め込んでもらって再び返却してもらうことではないだろうか。まるで困窮する難民のように空の器を差し出し、施しを受けて食いつないでいくかのようだ。人身御供でヤマタノオロチの怒りを鎮めようとする供犠のイメージとはかなり違っている。そこから浮上してくる問題も当然ながら異なっている。
例えば、いわゆる日本における「え」の意義、機能と、この「絵馬」奉納のメカニズムが、深いつながりを持っていることにあらためて気づかせてくれる。
「絵空事・えそらごと」としての「絵」の虚―空虚・虚構性は、それが「え」である上での本質そのものであったと考えられる。「え」という形式は、この世とあの世を橋渡しする媒体として、あらゆるものを乗せることができるオールマイティーな「器」として機能している。
ところで、供物は正式には多くの場合、それなりの(それ専用の)容器に入れられた上で奉納されるのが普遍的だ。日常的に使用される食器などとは区別される。してみれば、いわゆる「え」という形式とは、元来そういった特別なひとつの「容器」としてとらえるべきものなのではないだろうか?「え」を描く、提示するとは、ある種の「願望」を、特別な「容器」に盛り付け、外界にむけてそれを提示―差し出そうとすることなのかもしれない。
神社やお寺などからもらってきて(買ってきて)、日常空間の中の特別な場所―神棚、仏壇、門、柱、カマドなどに貼りつけたり飾ったりする、お札や祝い絵などの「え」も同様な構造を持っていると予想できる。床の間に掛けるいわゆる日本の書画もその辺のところから考えてみなくてはならないだろう。
満ち欠け
「造形」―「人工物」そのもので世界に拮抗する、世界を覆い尽くす、世界そのものを構築する、、という不可能な夢をみてきた近代文明にとって、「造形物」はあくまでも「実」なものであり、「造形」は「実」で現「実」世界を充満させることであった。しかし今まで述べてきた「象徴レベル」の造形の在り方は、それとは真っ向から対立するものだった。しかもそれは、忘れられているとは言え、「造形」本来の特性に基づく根源的な機能だった。そこでは、わざわざ「虚」を生み出すために造形はあり、モノがつくられてきた。その場合、「虚」を埋め満たしてくれるのは人間ではなく「外界」だった。むしろそういった「外界」からの反応を引き出すためのきっかけとして「虚」が人工的につくりだされ、差し出された。それは、自分たちのありのままの状態―「満たされていない―欠落している」を「虚心」にさらし、逆に、広い宇宙に関わっていくための道具立てとして、逆手に活用しようとすることでもある。
満たされぬ欠落を提示し、満たしてもらうこと。満ちるものは常にすぐ欠ける。欠けるものは満ちることを望む。この永遠の法則は、恒久的なシステムを作り上げそれをいつまでも動かし続ける。つねに欠けている―満たされぬという本質、そして常に補完されよう、常に満たされようという本質は、そのまま人間という存在の本質であり、その分身であるところの「造形物」そのものの本質である。
今日の造形美術をみてみれば「虚」の機能を喪失してしまったものが多い。「虚」がけっして大いなる「外界」に結びつくことなく、文字通りの虚構的で空虚なまま閉塞し自己肥大に終始する。それは造形本来の特性(一見ネガティブに見える性質も含め)を忘却しかつ無視しようとしているからであり、つまりは宇宙の絶大な力、無限といったものに対する畏敬を喪失しているからであろう。
雑誌『インファンス』bP5・2010年掲載