<修復論>―1995年



 1・修復跡から見えるもの

 私はこの数年来「なおす」といういとなみの様々な意義に興味を持ってきた。
 その発端は近所のコンクリート壁で見かけた壁の修復跡に目が止まった時からであった。ワレた穴やヒビに新しいコンクリートブロックやセメントが無造作に埋め込まれているもので、何かとても人間臭いナマナマしさを感じたのだった。「ナマナマしい」というのは、もともとの部分に対する修復された部分の「新しさ」からくるものだろうし、「人間臭い」のは、新しい修復部分に、人間の真新しい「行為性」を感じ、無機的なばかりの壁に「ズレ」が生じたからだろう。この「ズレ」は物理的には形や表面にわずかな違いをつくるだけなのだが、心理的に見れば、新/旧―現在/過去の対比のもとに「時間性」を内在させ、無機質な全体に対する手ワザとしての「行為性」を表出している。そして均質な「固定化」した全体像が消え、「流動化」し揺らいでいく全体像に変質していく。このような私の印象ないし観察において、「なおすこと」そしてその「痕跡」には、人間の感覚や精神に働きかける何か重要なものがあるのではないかという思いにかられたのだった。その後も様々な角度から「なおす」という行為をとらえかえし考察を続けているが、その思いはますます確かなものになってきた。「つくる」いとなみが担う創造性とは異なった意味で「なおす」いとなみにも、積極的な意義、クリエイティブな側面があるのではないか。また「なおす」いとなみをとらえなおすことによって「つくる」いとなみ、「こわす」いとなみという人間の根源的な行いを相対化し、またどのような関係があるのか、あるべきかを考えて行くことができるのではないかと思っている。今回の文章は各個のつっこんだ考察よりも、その全体的なスケッチを意図している。



 2・修復の普遍性

 「なおす」といういとなみは人間およびその社会、それを越え「秩序」、全体像、あるまとまりを持ったあらゆるもの、ことに見られる現象である。先に触れたコンクリート壁に限らず、人間の創ったもの、ことは破損すればただちに修復される。それは建造物、街並全体、室内空間の配置といった物質的ハード面のみならず、社会秩序、人間関係、自らの世界観、価値体系というソフト面、さらに人体、生命体、細胞という次元まで考えられる。生きられる秩序、全体はつねに「外部」の秩序ならざる領域と接触し戦っていると考えられる。「外部」の秩序ならざる領域とは、戦争における敵国だったり、共同体に対する異人、よそもの、犯罪者だったり、自らの世界観を危うくする別種の価値観だったり、人体に対する病原菌だったりする。これらの攻撃、新職、侵入により、破損、破壊 、および何らかの影響に対し、秩序側は「なおす」いとなみによって、修復、修正、復元、再編成、再組織化を行なう。このような「外部」との接触とその「影響」にもとづく「なおす」いとなみは、つねに秩序につきまとうことである。以下様々な次元の生きられる秩序に関する考察を記した文章によって、「秩序」が生き生きと存続するためには、つねに「外部」の影響のもとに「ゆらいで」いなければならないこと、そして「なおす」いとなみとは、広義に考えれば、内と外、秩序と秩序ならざる領域の影響、交流に深い関係があることが示されるだろう。



 3・修復の言語論的位相

 「こわれたもの」という言葉を用いる時、何がこわれたのだろうかということを考えてみたい。物質的な実体からしてみれば、「こわれる」というよりも一つの「変化」である。例えばコップがこわれたとすれば、こわれたのはあくまでも「コップ」というコトバに該当する特徴をそなえたあるまとまりについてである。「コップ」を組織しているところのガラスの成分にしてみれば、全体としてのまとまりが「変形」または「分化」されたにすぎない。つまり「こわれる」とは我々が心の中に持っているところの「コップ」というイメージ―コトバの意味するものが「こわれた」わけである。「こわれる」ことによってコトバと実体が分離してしまうのであると思う。しばしば人々が「こわれた」ものに対して受ける強いショックはコトバから分離した実体(名前すらつけることができない)に直面することになるからだろう。既成の呼び名というベールを失ったその実態は、「日常的なコード」(価値の体系)とは別の次元を開示することになる。その次元はコトバの通用しないコトバを越えた領域なのである。「世界」あるいは事象はつねにこのように変化し流動している。事象は腐り、崩れ、こわれ、成長し様々に変質し続ける。このような「中間的」とも言える事象の本質は、つねにコトバからなるコード(価値の体系)を根底から揺さぶり、コトバの恣意性、見せかけの日常性を露呈し続ける。「なおす」いとなみとは、ガラスの破片をつなぎ合わせ「コップ」という概念にもとづいて再生させるという次元にとどまらず、つねに揺るがされているコード、つまり世界そのものをなおすことにほかならない。つねに世界観―価値体系は「外部」の力、新しい、別種の価値、ものの見方、あらわれ、情報に揺らぎながら、修復修正、再編成を
くりかえし変質し続けながら生きている。そして「なおす」いとなみとその経験は、より柔軟で幅広い、適応力、応用力を脳へ与えると考えられる。それに比べ、非言語領域と断絶し、閉鎖した態度は、コード(価値体系)を硬直させ、オートマティックな儀礼的、形式的反応しか示せなくなり、適応力、応用力を乏しくする。場合によっては自らの世界観に非言語的領域が侵入するのにこらえきれなくなった時、一挙に大混乱し、解体、衰弱してしまう。さらに「なおす」いとなみによって、組織の解体をまぬがれるだけでなく、非言語的領域―「外部」と直接触れ合うことによって、恣意的存在である自らの限られた組織をを自己確認し、より強固に(外部との記号論的対立によって)再定義、再成立させることへ結びつく。このように、変化流転する事象の本質と人間のコトバのシステムとの交わりの中に、「なおす」いとなみがあるのであり、同時にこの交わりの中での「なおす」いとなみそのものからコトバのシステム―価値体系および現在の人間が形成されてきたのだと言える。


 4・民俗にあらわれる修復の記号論的考察

 先に自らの内側の秩序に関して触れたが、今度は外側の秩序およびその修復について述べて行きたい。
 前近代的な「家」組織や共同体では、様々な災い(例えば、病気、死、日照り、凶作など)がおこると、様々な対応の一つとして「厄祓い」を行なう。それは家単位の少人数で行われる場合もあれば、「御霊会」などとして国家的スケールで行われる場合もある。このような災いはいつなんどき襲ってくるか知れず、社会秩序は常にその対応に追われ揺らいでいる。これは言ってみれば混乱し破損、衰弱する組織の修復再生であり、先に述べた個人の価値観の修復、修正などと対応している。このような不測の事態における対応としての種々の儀式の他に、定期的に行われる村や国家の「祭り」についても考えてみたい。ここで具体的に述べられないが祭りの多くは、日常的な価値基準を一度ご破算にしてカオスの中から再び価値基準、秩序を再生させ、人々の心を刷新し活性化させる役割を持っていると考えられている。そこでは、村なり国家の始原的な創造神話なるものが、神との儀礼的な交わりのもと、象徴的に表現、演じられ、秩序の始原的創造が再体験、追体験される。つまりあらゆる組織秩序は、無秩序のカオスの状態からいかに今日の秩序、社会が生まれたかを示す創造神話のごときものを持っており、定期的な祭りにおいてそれが再現されることになる。同時に五穀豊穣、子孫繁栄等々という願いと感謝が込められる。この世な願いは神との間で結ばれた社会秩序が正常なリズムを刻んでこそ成就すると考えられ、定期的な祭りの運営そのものがそれを保証、再認識するものと考えることができる。祭りも、始原的創造も、不測の事態の対応(厄祓い)も、みんなカオス(外部)と秩序の交換関係として連関的に考えれば、「なおす」いとなみそのものと同質の性質を内在させていると言える。とすれば祭りや不測の事態に対応する様々な厄祓い的儀礼は、「なおす」いとなみの社会化、意識化、自己予防化したものととらえることも可能であろう。さらに前近代的共同体の様な閉じた体系の中では、始原的創造の再現(コピー)として定期的な祭り的なおすいとなみがあり、さらにその再現(コピー)として厄祓いや日々のなおすいとなみがあったと考えられる。そしてこの始原的創造は実際的なものというよりは、きわめて心的、理念的なものであり、修復―再生という実際的な「なおす」いとなみによってのみ懐疑的に体験されるものであった。この様に民俗において「なおす」いとなみはつねに個人、家、共同体、国といったあらゆる組織に密着し続けたもので、それは「外部」と「秩序」の記号論的対立および交わりの場と共に存立するいとなみであった。ゆえに「なおす」いとなみには、「外部」との交流と秩序の再定義という二つの大きな意義が内在しているととらえられよう。それは「新しい何かをつくる」ことを目的とし、ひたすら手つかずの「外部」を切り刻みつつ分節化し排除したりするのではなく、未知なる領域をそのまま抱え込みながら、「外部」との交流をはたし循環する輪のシステムとして考えられよう。祭りなどに内在する「なおす」いとなみの意義に注目しつつ「循環するシステムの輪」として全体をとらえなおすとどんなことが言えるのだろうか(ここで図1を参照していただきたい)。「秩序」は「外部」があってはじめて成立し、輪の一部にしかすぎない。また「創造」(より良い秩序構築)のみが中心に位置するのではなく、「破壊」によって相対化されやはり輪の一部となる。人の生はまさにこの循環する輪そのものであることが意識される。この循環する輪における生の全体性の表出こそ「なおす」いとなみに内在する最大の意義であろう。


 5、修復の心理学的考察

 なぜ人は「なおそうとする」のか、というよりも、なぜ「それ」に不完全さを感じ不満を抱くのだろうか。
 「なおす」いとなみはつねに、その当事者本人の記憶における破損、消滅以前の完全な像によって方向づけられる。この「完全な像」その物があやふやだったり失われてしまったりしたとき、人々の「完全な像」はより意識化の深層へ向かうことになると考えられる。記憶は遠ざかれば遠ざかるほど抽象的であればある程理念性をおびてくるものである。その時人は「なおす」ことを通じて無意識の奥深い世界と接触を持つことになる。この接触を先に述べた民俗の「祭り」におきかえて考えるなら、それは「外部」−「神」との交わりにほかならない。人々は祭りにおいてひとたび日常的価値を消滅せしめカオスの中から再び神と取り交わした神話に基づく秩序を再生させるのである。この神話的秩序こそ、当事者一人一人の深層に眠る原型的秩序なのであろう。人々は神話や神を体験すると同時に、自らの深層のイメージに出会うのである。ユング派の心理学において人間の無意識における原型的イメージと、神話の内容の類似について様々な分析が行われてきている。特に英雄神話として始原的カオスとの闘いの中で秩序をもたらす英雄の物語などは、様々な困難の中から自己形成を実現する一人の心の成長を鮮やかに映し出すものであり、共同体秩序の再生がそのまま個人の自己の心的再生、再統合と重なり合うことになる。それでこそ祭り、神話というものが一人一人の中に生きられたのであろう。ユング派の捉え方では、さまざまな問題が生じたりして、心が退行期に入ると、意識から無意識に下向していき不安定な状態になる。しかしやがて新たな再統合を果たして再生してくる時、それは深い世界を抱え込んだより全体的な心の成熟を示すという。それはより長い年月、「なおす」いとなみを繰り返している秩序(都市、家、部屋、庭園、世界像等々)が、とても人間的な単純さと複雑さをあわせもち柔軟な強さを持っているのと対応するのであり、「なおす」いとなみに内在する「外部」と秩序、無意識と意識の交わりのゆえの同質の結果ではないかと考えられる。「なおす」いとなみは、このように無意識化のイメージを呼び起こし
そのイメージによって成り立つものであるから、当事者の心を無意識と触れ合いさせ、なおされる対象をより人間的に、より心的全体的に変質させていく可能性を持つと言える。


 6・循環するシステムについて

 なおすことに内在し、なおすことで顕在化する「循環する輪」について先に触れた。今度はものの循環にポイントを置きながら、循環する輪に対する美術の位置を見てみたい。人間が実現する秩序というものは外と内に境界を生み出し(精神的にも物理的にも)ながら「外部」の自然の様々なもの(食物、生命力、土地、木ほか)を奪い取り込んで成り立っている。「秩序」はまさに「外部」の自然からもたらされたものであり、きわどい関係の中に成立していた。そこではつねに「外部」への「償い」「お返し」の回路が用意され、様々な自然の恵みの代わりに「供物」がささげられる。供犠によって取り交わされるこの一種の交換儀礼こそ「秩序」と「外部」の関係を取り持ち保証する。この供物と恵みの循環とその統御こそ「文化」そのものであり秩序の本質であると考える。それゆえ人間の文化の源はこの循環する交換の輪に由来し、相互に関連したシステムの一部となっていたと考えられる(以下図2および3を参照していただきたい)。

 外部―神が見えないものからしだいに見えるもの、実在的なものとして社会に取り込まれ世俗化していくと、それ自体の似姿として神像、仏像、イコン画、寺院等々がつくられる。そしてそれに費やされるエネルギー、経済的負担そのものが奉納品として位置される。西洋においてはなはだしいのだが、外部、神の世界がより実在的な様相を示し、ついに秩序と一致する時、世俗権力と宗教権力が一致し、循環システムがほんの儀礼的なものになってしまうか壊わされるかして、「外部」は排除、疎外される。様々な「めぐみ」としてあった自然の資源、人材資源、エネルギーは、世俗的神聖権力への「供物」として収奪される。もはや自然―「外部」は疎外され、公権力―秩序のための収奪領域に貶められる。一方向の供物の流れは王権などの一定のエリアのみ「めぐみ」を集中させていく。近代社会は、簡単に言えばこの一定のエリアへ集中する「恵み」を分配し、「神の国の秩序」からおきかわった「豊かで合理的な物質文明の秩序」を広げるだけ広げたにすぎない。より多くの人に「めぐみ」が分配され秩序は広がったが、あまりの集中的で激しい収奪に、自然や植民地が破綻しつつある。そこではいぜんとして循環する輪の流れが失われたままである。西洋美術作品のルーツは、循環する輪に由来する以上に、その輪の消滅を導いた「外部」(神の国)=現実の秩序という合体に由来している。神の国、理想の世界の現実的な実現の一翼を担ったのである。自己批判性によって様々な神話から脱却してきたモダニズムアートは、アートそれ自体のあり方、意義を曖昧にし、存立そのものを危うくしてひさしい。神話からの脱却に見えて、その基盤は神の国と現実の一致、合体を即したそのコンテクストから免れていないからであり、アートそのものの成り立ち、存在に対するより直截な自己批判に欠けるからであり、それこそ生の全体性としての循環の輪を無視することにほかならない。アートの蘇生は、アートを一度無に帰し、循環の輪としての生の全体性へ戻るところから始められなければならない。循環の輪の一部にすぎなかったアートの性質、欲求は、この輪そのものにならなければならない。この輪の全体性がアートに内在することこそ重要であろう。「つくる」いとなみに比した「なおす」いとなみへの考察がその一つの手がかりになればと思っている。これまで見てきたように、「なおすこと」は、カオス―再生のメタファーであり、神話、深層心理、様々な祭りなどの儀式、供犠、日常生活の掃除などに深く投影され体験されるものである。「なおす」という消極的な無目的性は、かえって「外部」を排除せず、交わり取り込む循環の流れを顕在化させ、静的な秩序を循環の輪の中に位置づけさせて揺らぎと活力を生成させえる。それこそ今までの「つくる」いとなみでは見えてこない「なおす」いとなみに内在する固有の生の全体性を具現した「創造性」ではないだろうか。