<郷土人形について>
はじめに
「ヒトガタ」に由来する日本の「人形」の本質は、西欧の「フィギュア」とはまったく異なっているということは別な場所で述べている。
そもそもそれは、通常、西洋におい「彫刻」―芸術。「人形・フィギュア」―キッチュ。という図式が成り立ち、それを他国の文化―日本にあてはめ、日本の「人形」=「キッチュ」として程度の低い、非芸術的なものと捉えがちな「先入観」を批判するための主張であった。
ただ日本の「人形」は、そのまま古来の「ヒトガタ」的なものだけで理解することは、もちろん不可能である。後年、「人形」なる造形文化は、フィギュアとも彫刻とも、そうしてヒトガタとも異なる、一種独特の美を獲得するにいたったと考えられる。
明治時代、ブルーノ・タウトが日本に来て「人形―こけし」に注目していることはよく知られている。別にそれでどうこう言うつもりはないけれど、彼が、日光東照宮や官展にならぶ「日本画」を「キッチュ」と断罪する一方で、職人のつくり出す前近代的で素朴な人形に、固有な美を認めていたというのは面白い逸話である。それでは、その固有な美・魅力とはどのようなものだったのだろうか?それはもしかすると「日本美術」の系譜からは抜け落ちてこざるを得ない、しかし大変重要な「美」だったのではないだろうか?そのへんのところ、少々ここで考察していこうと考えている。
1・人形の歴史
まず簡単に日本列島における「人形」のバリエーション、流れを以下大雑把に書き出してみよう。
・縄文―土偶
・弥生
・古墳時代―埴輪
・古代〜中世
ヒトガタ(陰陽道の影響?)
仏像
神像
操り人形(操る人形を操る遊芸人・かいらいし、くぐつ)―シャーマニズムの依りまし・神遊び
・中世〜江戸
禍や穢れを吸いつけ流す「ヒトガタ」の文化、仏師や能楽面づくりなどの技術が融合。
・天児―(天禍津霊から)
・ほうこ(這子)―(這い這いから)
・雛人形―ひいな(大きなものを小さくまねる)―流し雛、紙雛、立雛、享保雛、古今雛
・嵯峨人形―這い這い人形―「御所人形」へ
・衣裳人形
・芥子人形
・御殿玩具・有職玩具
・武者人形
・伏見人形(江戸時代)―全国各地の「郷土人形」へ
・「郷土人形」―張り子(三春人形)、木地人形(こけし)へ、、、、、
主題
・雛人形、御所人形、衣裳人形、武者人形―上手人形の題材(ほとんど京都)
・神仏(恵比寿、大黒、天神、稲荷、山の神、蚕神、観音、地蔵、不動明王、、)、
身のまわりの風俗、年中行事、当時の枕草子、錦絵(浮世絵)、歌舞伎、相撲、戦争など
*その他
人形浄瑠璃
からくり人形
テルテル坊主
案山子
ほか
・明治〜現代
近代文明・工業製品としての人形へ(ブリキ、プラスチック、化学繊維、、、)
2・信仰と鑑賞
当初、禍や穢れをのりうつらせて処理する「ヒトガタ」的な文脈を踏まえつつ、宮中、公家などの間でより「造形的」な「人形」が形成されてきたとされる。
「ヒトガタ」とは言ってみれば「依りしろ」なので、中身に空虚が内蔵されていなくてはならず、当初は天児・這子、紙雛、立雛など、見えない領域との緊張関係を背景とした、「ヒトガタ」特有の精神性を宿していた。その範疇にある限り、それらの人形は、単なる愛玩物を越えた独特な存在感を持つことができている(*「天児・あまがつ」とは、赤ん坊のそばに置く、言わば避雷針の様な人形で禍の身代わりとなる。「這子・ほうこ」も、子供に与える人形で、子供の災いの身代わりになってくれる)。
「ヒトガタ」的な本道からすれば雛人形も、「流し雛」や「紙雛」の方が理にかなっており、起源が古い。薄っぺらく小さな―表情もうかがい知れない抽象的な「紙雛」が「立雛」になり、やがて360度肉付けされた現在目にする座った雛人形が形成されてきたと考えられる。それゆえ、子供が折り紙でつくる雛人形―紙で素朴になぞる―折り紙的人形は、たんなる稚拙な遊びで片付けられないものがあり、我が国固有の文化として現在知られる、「折り紙」文化のルーツはまさにここにあるのかもしれない。
やがて、そのような呪術的習俗と関連していた「ヒトガタ」が、宮中、公家、大名など豊かな特権階級の生活で、より豪華な装いにより、今日しられるような「人形」(雛人形、嵯峨人形、御所人形、武者人形、、、)を形成していくことになる。それらの多くは、大変豪華な布生地衣裳や精緻なつくりの木製頭部、本物の毛を使った髪の毛部分などの複合的な構造を有するに至る。
そこでは、穢れを落としたりして「使用するもの」だった人形から、「飾るもの」―鑑賞品としての人形に様変わりしていくことになる。飾るといっても今日でいう単なる「飾り」―装飾ではなく、年中行事や縁起にちなんで特別な日に特別に飾られる非日常的なものである場合が多いわけだが。
このような文脈で最高度の技術が屈指され、かつもともとの「ヒトガタ―ホウコ的」エッセンスを維持している優品こそ、日本における「人形」の最高傑作とえるポジションにあるだろう。が、どうしてもそれはやはりどこまでも「人形」なのであり、また、後年多くは、豪華さや技巧に偏り、愛玩物、工芸宝飾品化し、「ヒトガタ」的エッセンスを無くしていく様に思われる。それらは「キッチュ」となり西洋のフィギュアや愛玩用人形に近づいていくのである。
このような豪華な人形は所謂「上手人形」と呼ばれている。
3・郷土人形の芸術性―到達点としての堤人形
2012年初旬、「東北古人形の美」カメイ美術館(仙台)の展示に陰ながら少しだけお手伝いさせていただく機会を得た。
その間、高橋五郎氏の所蔵する全国有数の優品に接し、芽生えた確信が核となり、この文章をしたためてみることにしたのだった(写真の堤人形、三春人形は高橋五郎氏所蔵)。
この東北の古人形―「郷土人形」は、京都伏見ではじめられた「伏見人形」を起源とすると言われている。
安価な素焼きの型抜き人形で、胡粉に着色される。もともとは上述してきた公家や大名で親しまれてきた、「上手人形」(雛人形、嵯峨人形、御所人形など)を手本としてきたものだ。題材はそれら「上手人形」に倣うものから、さらに幅を広げ、神仏、縁起物、年中行事にまつわるもの、身のまわりの風俗、当時の枕草子、浮世絵、歌舞伎、、、など広範囲にわたった。伏見人形を手本として全国各地で同様な形態、技法、題材で土人形がつくられた(それらをまとめて「郷土人形」という)。「上手人形」を手本として広がったこれら伏見・郷土人形は、しだいに固有な持ち味を発揮し、「上手人形」とはまったく別物の美意識を育んで行くことになる。その中でも東北の「郷土人形」―仙台の堤人形、花巻の花巻人形、米沢の相良人形、三春の三春人形(これは和紙による張り子)は、大変評価が高い。
「上手人形」をあくまでも模倣しようとした土人形は、ややもすると、ごわごわともったいぶった嫌味な野暮ったさがあり、それこそまさにキッチュなものとなりかねない。上品ぶった最近の伝統工芸品としての土人形などはその典型であろうか。
そもそも、豪華で上等、上品、高質な「上手人形」とは異なる、軽快かつ洒脱で愛らしい親しみやすさこそが、これら「郷土人形」の基本線なのである。それはある意味で「上手人形」―上等な美―芸術。郷土人形―庶民的な美―大衆芸術。という区分に該当するだろうか。それぞれの持ち味がありそれなりに注目すべき点であるが、まあそれだけならばわざわざここにこのような文章を書くことはなかっただろう。
どうも、「郷土人形」における、東北の古人形達、、特に堤人形(あるいは三春人形)の優品に至っては、さらなる高みに達していると考えられるのである。
仙台の「堤人形」というのは、つくづく奇妙な人形である。
何かがあきらかに他の郷土人形達と異なっている。誤解を恐れずに言えばぜんぜん「面白み」がないのである。快活でも愛らしくも華やぎもない。いわゆる通常の「人形」らしい魅力に乏しいのである。「分に応じて」おさまるべきところがよくわからない。そうして、これまでの自分の実感としては、「堤人形」はかなり当たり外れがあり(それが作者によるものか時代によるものかは不明だが)、さえないものも多く、その「冴えの無さ」はそれ自体注目に値するほどである。
しかしその反対に、「堤人形」の優品においては、全ての土人形を凌駕するほどの何かがあるように感じられる。
それは他所の「郷土人形」と違って、軽快かつ洒脱で愛らしい親しみやすさにとどまらない、けっして豪華ではないのに、「上手人形」に負けず劣らず上等で高質なものが垣間見える。その高質さは、あきらかに「上手人形」とは異なる別な高質さである。つまり土人形ならではの固有性に立脚した上での、もうひとつ別な高質な美に達している「気配」がある。まさに「郷土人形」の、、というか人形文化の最終到達点を指示していると観ても過言ではないとさえ感じている。(一方、華やかで量感のある花巻人形、軽快で端麗な相良人形、、、其々魅力的ではあるが、どうしても「人形」、「庶民的美」という範疇にとどまらざるをえない)。
一般的に仙台の堤人形に関して「どこか愁いを帯びた情感」などと称されるわけだが、それ自体泥臭くヴァイタリティ―溢れる「民衆文化」・土人形にふさわしいものとは言えない。その奥ゆかしい情味はどこからくるものなのか。仙台の風情に由来するものなのか。いづれにしてもかつての伊達藩というのは、なかなかのものだったというのがよくわかる。現在ではほとんど思いもよらないところである。
主観的な感想ばかり先行してしまったが以下、いくつかのポイントでその固有なる到達点を述べよう。
4・固有な質
型―大量生産
それにしても、現在でもこのような「郷土人形」―土人形は多く流通している。
骨董市、古道具屋、リサイクルショップなどでもかなりの程度見かけることができる。江戸期にかかるものであればやや高額だが、明治大正になると1000円〜から売られていて、現在つくられている新しい土人形よりもはるかに安い。
つまり何が言いたいかと言えば、それだけ数多く今なお残されているわけで、庶民の暮らしの隅々に大量かつ身近に存在していたことが実感できる。ある意味でもっとも我が国の民衆の生活感情に寄り添ってきた造形物であり、あらゆるものごと、興味関心、生活習俗、欲望のもっとも近しい受け皿―媒体となってきた「形式」ではないだろうか?その広範囲な在り様は、「浮世絵木版」と双璧をなすだろう。まずなにか話題の物事があれば浮世絵木版で刷られ世の中に出回り、やがては「郷土人形」でくりかえされる。「郷土人形」が「三次元化した浮世絵」と目される所以である。浮世絵木版と「郷土人形」は、その題材のヴァリエーションもつねに関連し重複していて、ある種の相関関係として観てみる必要があるかもしれない。
そのような普及性、適応力は、「型」を用いた大量生産が可能なその製法に負っているだろう。その点でも浮世絵木版と郷土人形は同じである。どちらも同じ程度のものを複製的に沢山生産することができる、安価で庶民的な造形文化なのである。
さらに重要な点は、その「型」を用いることによって、そのどちらもが、もともとの「1点もの」とは別な表現性を獲得するに至り、しばしばそれを凌駕しさえしてしまった点である。浮世絵木版は1点ものの「肉筆画」を下敷きにしているわけだが、結果的にはそれとはまったく別な木版じゃなければ生まれえない固有な美を生み出している。当時は大量複製品の木版は大切にされず、輸入品の包み紙として偶然ヨーロッパに知られることとなり、肉筆画以上の評価を獲得した。同じように「郷土人形―土人形」も、そのルーツである、上層階級の豪華な「上手人形」(雛人形や御所人形、衣装人形)とは別物となり、まったく異なる固有性を生み出すに至った。
「型」を用いることは、フォルムが大きく制限されることを意味している。
土人形づくりにおいては、極端な出っ張りや喰い込みは極力回避される。どうしても、丸みをおびた凹凸の少ないゆったりとしたフォルムになってくる。それは自ずと、余計なものを省く、単純で率直な抽象性を造形に与えて行くことにつながったと思われる。最も必要なものだけで、省略―凝縮して必要な造形表現を生み出す。
ぼったりとした丸みを帯びた愛らしさ、あたたかみ、素朴な味わいは、これら土人形の製法に由来する土人形ならではの持ち味と言えるだろう。その上であえて言わせてもらえば、仙台の堤人形では、ここから、流麗で精妙な動勢あるフォルムから特有の「情感」、「気品」を生み出すに至っており、土人形ならではのフォルムの上に立って、なおかつそれを越え出ているのである。
均質性
さらに「型」抜きによる製法は、造形の「均質性」を踏まえることとなるだろう。
例えばルーツとなっていた「上手人形」において、布地衣裳部分、木製頭部、髪の毛部分と、異なる素材、実物による複合的、具体的再現性の造形としてある。
一方土人形では、全ての部分が同じ土製であり、一度に同様の製法で形成されていて、極めて均質な構造となっているのがわかる。それは上手人形に比べ、より抽象的、均質的、全体的造形であると言える。これは大変重要なポイントであり、上手人形がたえず、本物の布地や髪の毛とつくりものの顔や手の不均衡、分裂に脅かされたり、具体的な再現性追求に陥ったり、実際的な豪華さ(布地の材質など)に惑わされてしまうのに比べ、土人形ではそういった気づかいが無い。一個の造形物として、ある意味より一貫しており、自身の構造により即している。(*例えばそれは、かつてドガが踊り子の彫刻に本物のスカートを装着させて物議をかもしたのを想起させる)。そうした点で考えると、この「土人形」というものは、西洋における「テラコッタ」、塑像の類いに近く、「人形」(上手人形)よりも「彫刻」に連なって行く可能性があるかもしれない。「浮世絵の三次元化」と称されるのも理解できる。とはいえ3次元化―「3D化」が十分になされているわけではなく、正面性がつよく所謂「レリーフ」彫刻に近いとも言える。その意味でも浮世絵の完全な三次元化―彫刻はついに生み出されえなかったというもの、それはそれで我が国の文化の在り様をよく示している注目に値するところかもしれない。
さてこのような均質性、全体性の資質は、フォルム生形の上の着彩でも反映されることが大切である。
その点でも仙台の堤人形が優れているのが解かる。花巻人形ではどうしても顔部分など、注意がどこかに偏りがちであり、魅力的な顔が形成されたとしても全体生のバランスを崩しがちであり、極端な場合アンバランスで通俗的な「キッチュ」に陥る。あるいは、多くの郷土人形では、やはり顔―表情に力点がおかれ、愛らしい、面白い、生き生きとした、表情が表現されようとする半面、通俗に陥る場合が多い。堤人形では相対的に均質的で通俗的な媚は少ない。
近代主義的要素
前近代の職人技。ある程度の量産を前提とした生産工程におけるものづくりは、「土人形」に限らず、しばしば産業革命以前ではあっても、様々な点で、近代主義的特質、美観を所有している様に思われる。
上述の「型」による均質性、全体性、抽象性などはまさにそうなのであり、結果的にそれは、不必要なものを省いた、単純率直で直截な造形美を形成していく。
それはある意味純粋なフォルムと色彩と線の織りなす造形美であって、別な個所で実地に考察している( *「張り子とマティス」《青亀堂》参照)。
いずれにせよ郷土人形の固有な美は、貧しさから生まれた美である。限られた制限の多い製法と素材に由来するものである。それは素朴で親しみやすい庶民的な美を生み出した。その上で郷土人形伝播の北端である東北地方において、―特に仙台の堤人形(あるいは三春人形)において、所謂「庶民的な美」を凌駕し、ふたたびその起源である上手人形の美とも異なる、高質な美―芸術性を垣間見せたのではないか。
5・進化の最終局面としての「三春人形」と「こけし」
北端の「郷土人形」―東北の古人形達の中でも、三春人形は大変特徴的である。
それは、木製の型に和紙を重ねて貼り、乾燥後型を抜き取り、和紙の張り子に胡粉と絵具で着色する張り子人形である。張り子なので、後付けで様々な出っ張り部分、道具立て部位を装着することができる。それゆえ、土人形にくらべ、表現が多様で、変化に富んでいる。土人形にはできないダイナミックなフォルムを形成することができる反面、先述の均質性、全体性、抽象性という土人形の固有な特質が薄まってしまい、しばしば説明的で通俗的な趣に陥る危険性をあわせ持っているといえる。
だがその自由自在さと軽やかな流麗さは、その危険性を補って余りあるもので、他の土人形には無い三春人形ならではの固有な美をつくり出している。
その上で人形の歴史を考えると、上手人形―伏見人形―郷土・土人形―三春人形と続くわけであって、その歴史の最終極点に位置していることがわかる。ある意味でもっとも進化した人形ということができるかもしれない。堤人形とは別な方法で、一度庶民の素朴な人形として広がった郷土人形を、ふたたび高度で高質な造形美の「人形」として進化させている。上手人形の豪華さやリアリズムとは異なり、あくまでも安価な素材と素朴な製法により、軽快かつ精緻な張り子特有の造形言語において、複雑進化させたものであった。
さてここで「こけし」にも注目しておきたい。
木地師がロクロ挽きでつくり出す木偶であるこけしは、伊達藩の堤人形の影響が想定されている。
高橋五郎氏(こけし研究家)の説に従えば、描彩や形態や呼び名や販売網の関連性からかなりの程度、両者の間に深い結びつきがあったと考えられる。
基本的には、こけしが先祖代々の「木地師」という特殊な職能者によってつくられる点と、その製法をロクロ挽きに負っている点、木でつくられる点が決定的に、それまでの郷土人形と異なっていた。もともと食器類の木地引き以外に木地玩具がつくられてきており、木地玩具自体は東北に限らず広範囲につくられてきていたわけだが、木地引きによる「人形」―「こけし」は、東北でしかつくられなかった。人形―「けし」人形、仙台「おぼこ」など先行する堤人形系の呼び名に、「木」がくっついて「木けし」「キボコ」(仙台での当初のこけしの呼び名)になったと考えられている。つまり「土」人形を「木」でなぞって「木人形」がうみだされることになったのかもしれない。結果的には、動きのあるゆったりとしたフォルムの土人形とはまったく異なる、垂直・直胴・球体・木製(中身の詰まった)の静的で求心的な、ある意味「ハイブリッド」というよりは一種の「化学変化」により、新しい形態の人形が誕生したのであった。
特権階級の上手人形からはじまって、京都の伏見人形で「土」でなぞられ、―東北の郷土人形と高められ、仙台の堤人形で一つの到達を見て、最後の最後に、伊達藩領内の木地師達によって、「木」によってなぞられながら、「こけし」がつくられたというわけである(現在の研究では作並が発生地として有力視されている。それ以外には遠刈田の名があげられるが、鳴子もふくめ全て仙台藩領内である)。
こけしは土人形に比べ、さらに安価で粗末に扱われた。湯治場の温泉土産として、あるいは子供たちのホウコ人形として、多くが使い捨てられたようだ。東北地方の山間や貧しい人々の間で草の根的に広がった、まさに最終形態の、もっとも大地に近い「郷土人形」の末裔だったと言えるかもしれない。
日本列島の人形の歴史は、その北端の東北で、質の高い郷土人形―堤人形を生み、独自な三春人形を生み、最後の最後に木地による「こけし」を生んだのである。
こけしの美は、それまでの上手人形、郷土人形、堤人形、三春人形そのどれとも異なる固有なものであり、最も安価で、もっともシンプルで、もっとも抽象的で、もっとも進化、深化した前近代最後の人形となった。
近代の勃興期において、ブルーノタウトは、仙台に来てまさにこの最終局面の日本人形を手にして感銘を受けたのであった。
6・題材の翻訳・変換と創造性
ところで、現在のサブカルチャー・オタクカルチャーでは、単独の作品や原作や媒体の自立性が、十分保てない状況になってきていることはよく指摘されているところである。
ひとつの「原作」が小説/マンガ/アニメ/イラスト/ゲーム/アニメ映画/音楽/キャラクター/フィギュア/コスプレ/実写映画/グッツ/カード/縫いぐるみ/玩具、、、と広範囲に同時多重的になぞられ展開されていく(メディアミックス)。そのどれが中心でもともとの原典なのか判別しにくい状況が生まれている。「原作」といっても、もともとが単なるイメージキャラクターのみからスタートするものもあれば、ゲームの設定として人気を博し、アニメ化、映画化されるというものも多い。さらにはミニコミ―同人誌レベルで私的になぞられアレンジされそれ自体も流通していくとなると、そのすそ野はかなり多義的広範囲なものであるのが理解できる。
そこでは、「作品世界」が、其々の別な媒体でなぞられることになり、当然のことながらその結果は同じものにはなりようがなく、アニメならアニメ、小説なら小説、フィギュアならフィギュアの固有な形式に沿わせられながら、そのつど異なる内容・質に転化していくことになる。もちろん「アニメはゆるせるけど、連載漫画はひどい」とか、「小説しかみとめない」とか、それぞれ出来不出来があり、受容する側も全てを網羅して把握していることはかえって少ない。
江戸時代・文化文政期の町人文化―大衆文化も考えてみれば同様の状況に直面していたのがわかる。というよりも、さらにその状況が深化し、特有の創造的な空間を形成していたとみることもできる。
江戸庶民が親しんだ、枕草子や浮世絵(錦絵)では、あらゆる事象がその題材となった。
そうして人気のある題材は何度も繰り返し継続的に表現された(歌舞伎の演目や縁起物、日常の風俗―美人画など)。その上でその同じ題材が全国に流通しながら「郷土人形」として再生産され、日常の生活空間に配され共有されていった。だから、其々順番はそのつど違うだろうが、日常風俗/歌舞伎/枕草子/肉筆浮世絵/浮世絵木版/伏見人形/郷土人形、、、という異なる媒体、異なる担い手達によって、同じ人気のある題材がくり返しなぞられ、其々の固有な形式を踏まえながら表現されていったというのが理解される。
それら変換される媒体の中でも、それぞれの土地でつくられた「郷土人形―土人形」こそ、もっとも庶民に身近な最終形態の媒体であったことが偲ばれる。かつて一般の日本人は、あらゆる魅惑的な事象をこの土人形に移し替え、自分の茶の間に持ち込み親しんできたのである。大多数の庶民にとって、おそらく土人形こそ、もっとも自分たちの血肉化した媒体だったのである。
*同じことがかつての西洋文化にも言える。
かつてキリスト教的題材、ギリシャ神話的題材が、様々な媒体と形式において、其々が深い関連性の基に繰り返し表現されてきた。例えば同じ聖母マリア像が、祭壇画、フレスコ壁画、レリーフ、モザイク、彫刻、書物の挿絵、置物、アクセサリー、、と多重同時的に繰り返されてきている。それらはやはり、其々の土地―都市国家、工房、作家によって様々に表現され、それぞれに受容されてきた。
その上で西洋でも、日本の「郷土人形」にあたる小物の置物、人形、イコンが各自の家の室内に持ち込まれ親しまれてきていた。しかし、それらの多くが、巡礼地土産などでみかける所謂「キッチュ」なしろものであり、一種の代用物、大衆的な「まがいもの」の水準にあったと予想される。西洋ではどうしても、メインカルチャーとサブカルチャー、芸術とキッチュに、「階級的」に分離していく傾向にある。
その点、冒頭述べている様に日本における大衆文化―「郷土人形」や「浮世絵」は、けっして「キッチュ」に陥らず、ある種の芸術性に到達していたことは特質に値するだろう。
*一方近現代のメインカルチャー・造形芸術における主題・モティーフは、多角化、拡散し、しばしば見失われ、あるいは背後に隠れ、上述の様な事態は有難い。
複製技術
今日のサブカルチャーにおける媒体変換の網の目は、所謂高度なデジタル技術としての「複製技術」をベースにしている。
媒体間での変化は、文字と描画、アニメとフィギュアという表現形式上の違い、あるいは作品ごとの担い手、プロダクションなどのつくり手間の違い、、、などの差があったとしても、一定の範囲内で制御されざるを得ない。作画の微妙な雰囲気の差や、いくつかあるゲーム内のスト―リ展開の違いが生じる(あえて別な物語展開にする場合もある)程度であろうか。
また、2D〜3D変換につきまとう「フィギュア」文化の絶大な影響も、このデジタル化と波長を合わせ、「変換」を画一的にしてしまう元凶であろう。その「変換」は文字通り「複製・ミニチュア化」そのものであり、基本的にそこで目指されるのは、それ以上でもそれ以下でもない。(*西洋において「フィギュア」文化自体は産業革命以前の手作業以来のものなのだが)。
一方で前近代・江戸期の場合、其々が手作業によるアナログなものづくりによっているので、媒体の違いと同時に、担い手の解釈、技術の差が大きく結果に作用することになった。
同時に、情報がグローバル化していない、知見に大きなムラのあった時代背景にもよるためなのか、同じ題材でありながら、結果的にほとんど別物に見えるものも少なくなく、変容の幅が大変大きい。同じ土人形というジャンル内であっても、例えば堤人形と相良人形ではかなりの差が生まれざるをえない。逆に言えば今日で言うところの「フィギュア」的な概念・「複製」は存在しなかったのであり、つねに当事者の主観による、「解釈」と「再創造」によって変換されざるをえなかったのである。
しかしそのことが、大変多様で豊かな結果を育んだのも事実であった。其々に独特な義経や和籐内や金太郎がつくり出され、其々が各所で堂々と売り出され流通していった。そこに模倣の意識やオリジナルに対する複製のやましさはどこにもない。そもそも題材に選ばれるキャラクターは、万人のもの・偶像(アイドル)として親しまれており、其々のイマジネーションで翻訳され、其々が其々に対して似て非なるものになっていたのだから、悪びれるはずはないのである。
著作権
今日のサブカルチャーにおける媒体変換(メディアミックス)は、意図的に経済的効果を計算して行なわれている。
多くの場合、おおもとの企業なり、プロダクションなり、原作者が背後で統括していることにはなっている。
それゆえ他人がかってに模倣して販売することは著作権法上できないことになっている。
例えば「キティー」の土人形を大々的に製造して販売することは通常できない。それがいかに似ていようが似ていまいが関係ない。キャラクターの使用は、サンリオにより統括されており、あらゆるキティー関連商品は、つねにサンリオの主張する基準値で、キティーの造形が精査され許可をうけなければ、キティーとして「世に出ること」は有難い。
いかに人気があり、いかに生活に根ざそうが、ミッキーマウスやクマのプ―さんがいかに子供の心性に血肉化されていようが、それらはあくまで統括者の所有するキャラクターであることにはかわりがない。
一方江戸時代における様々な人気キャラクター、題材は、誰か一定の人間や組織によって統括、管理されるということにはなっていなかった。
歌舞伎の忠臣蔵と浮世絵の忠臣蔵、地方の郷土人形の忠臣蔵は、其々の当事者がかってに呼応してつくり出し売り出してきたものである。
過去における、恵比寿やお雛様や弁慶や忠臣蔵や鯉つかみなどの様に、自らの血肉となっている物語やキャラクターを、現在では自由に扱うことが、一定範囲で制御されているという事態を認識しなければならないだろう。著作権法によって、私的な模倣、変換は趣味で個人的に行なうか、アンダーグラウンドで、、同人誌の様な形態で制御されざるおをえない。いかにコミケが活況しているように見えるとしても、実はそれは「制御」された「ガス抜き」の祭りにすぎないのではないだろうか。
中国の模倣流用された日本アニメのキャラクタ―「もどき」が失笑と怒りを買っているが、実はそのような中国の姿こそ、前近代的な健全な文化の姿なのかもしれない(ただし中国の場合それをまた自覚的に悪用してしまっているのだが)。
流用、アレンジ、模倣、、「二次創作」が制御される現在の資本主義経済社会の日本において、江戸期の様な底辺からの創造(例えば郷土人形のような)が普及し残されることは難しいだろう。
それが日本的体質にとって望ましいことなのか?創造性の芽を摘み取っていることになっていないのか?少々考えてもいいのではないかと、江戸期の郷土人形の豊潤さに接して痛感するところである。
*(かりに、具体的な作品キャラクターではなく、著作権法にかからない、ある類型的なイメージやあるいは所謂「萌え要素」、、女子高生、魔法少女、巫女、猫耳、戦闘美少女、メイド、戦闘ロボ、勇者、、、、などのより高次のカテゴリーにおいて、前近代の主題の様な一般性、普遍性を獲得できるとすれば、さらなる変換と浸透がありうるだろうか。本当の文化の成熟、爛熟はその時訪れるのかもしれない。)