オマージュ宮古―我が心のふるさと・その再生を期して―



 三陸沿岸にキラ星の様に続く個性的な美しい港町の数々。

 今回の津波はここではかりしれない猛威をふるい、そのほとんどを飲み込んでしまった。

 特に岩手県宮古市は家内の実家であり、我が家の子もみんな宮古生まれということもあって、大きなこころのよりどころを一瞬に失ってしまうような喪失感にさいなまれている。
 家内の実家であり同時に明治以来四代続く衣料店が破壊され、さらには由緒ある鍬ヶ崎の町そのものが壊滅してしまう。そして手作りの鮭やハラコ、米を送ってくれていた、津軽石にある家内の祖母の家も水没してしまう。ただ命が無事であったのを良しとするほかない(祖母の妹が亡くなってしまったのだが)。

 はじめて宮古に来たのは、家内の両親へあいさつしに来た時、おそらく1993年ごろのことだった。
 盛岡―宮古間の106号線は、早池峰山系を横切る閉伊川に縫うように蛇行する、まるで自然でできた迷宮の様な道。トンネルが20個ほど続き、アップダウンをくり返し、平衡感覚や上下感覚を喪失させ、その道筋はさながら縄文土器のうねりを身を持って体感するようなものだ。いつもここを通る人たちの身体にはこの蛇行のリズムが備わっているに違いない。深い山々を2時間余りで走り抜け、ようやく辿り着くのが太平洋に面した港町・宮古である。ここで視界は一気に広がる。
 緊張して来た自分の心持を美しい海辺の景色がやわらげてくれた。そうして全員B型である実家の方々は、新参者の自分を温かく迎えてくれかつ圧倒した。義父が最初にはなしてくれたのは、津波の話。何時の津波でどこまで波が来たか。どの街がやられたか。どこへ逃げたか。といった津波にまつわる宮古地方の歴史である。津波を知らない自分にはどこか遠い世界の話に聞こえたとしてもご了承いただけるだろう。
 家内は故郷のいろいろな場所を案内してくれた。目の前の宮古漁港、浄土ヶ浜、ここから眺めると景色が良いいという橋、たこの浜海岸、鍬ヶ崎商店街の店々、母校の宮古高校、何処よりもおいしいというラーメン屋たらふく(本当においしい)、山田町(「やあまだ」というイントネーションがドカベンの岩城の「やーまだ」みたいで面白い)、市場前にそびえる月山という半島、幼友達の家々、親戚の家々、おくまん様(熊野神社)、、、そのすべてに具体的な色があり匂いがあり歴史があり潮の香りがあった。そうしてそういう空気を存分に吸って彼女は成長してきたんだという、あたりまえの事実にはじめて気がついた。三陸屈指の漁港市場の眼前で代々店を張ってきた服屋(タバコ屋でもある)の長女(しかもB型)。はたしてこれほど自分と違った環境に育った人間であったか、、ということに感銘する。

 その後宮古を訪れるたびに様々な新鮮な体験をすることができた。お盆には仙台でほとんど見られなくなった「松灯」を焚いて仏を迎えかつ送り出す。正月には市場で買ってきた「飾り絵」を飾る。隣町の釜石では、最後まで残っていた新日鉄釜石高炉に登ったり、橋上市場(現在は法律違反ということで撤去された)や釜石大観音へ行った。家内の母方の実家のある津軽石では全国的に珍しい鮭祭りを体験することができた(祖母は鮭づくりとハラコづくりの名人であった)。
 さらに隣町・田老の三王岩にことのほか自分は親しんできた。大きな不思議な岩が三つ海岸にそびえたつ迫力の景観。周囲は浅い磯になっており、様々な珍しい水生生物を見ることができる。油絵にも描き、さとう衣料店に飾ってもらっていた。田老の町は過去の津波で壊滅的被害を受けて以来、防災につとめ、日本一高いという城壁のような防波堤が、しかも二重にはりめぐらされている独特の景観だ。町に防波堤があるというよりも、防波堤に町がある様な、まるで中世の古城のような、ものものしい緊張感に包まれているその町の雰囲気がとても好きだった。今回の津波はこれほどの防波堤をも超えて町をなぎ倒したという。「タァローもダメだった」と聞いて強烈なショックで涙がにじみ出た。あれほどの努力、あれほどの犠牲、あれほどの備えをして、しかも通じなかったとしたら、もはや人力では防ぎようがないのではないか。「絶対大丈夫」と逃げずに死んだ人も多かったそうだが、それを「過信」ということはできないと感じる。おそらく自分も田老に住んで防災の準備を担ってきた一員であったならば、やはり残っていたかも知れない。それは「大丈夫」という感覚よりも、「ここまでやってだめならもうどうしようもない。それは世界の終りだ」。という感覚だろう。だが本当にその世界の終りがやってきたのであった。そうして世界が終っても人は生きなければならないのである。
 

震災後・訪問

 
4月に入るとようやくガソリンが入手できるようになり、さっそく家族全員で宮古へ見舞に出発した。
東北自動車道・築館〜一関間は修復されたとはいえかなり道に段差ができていた(その夜の余震でさらに悪化。帰路はインドの道のようにガタガタに)。盛岡―宮古間の国道106号線は、ところどころで山の木が倒れ崩落していた。陸続と自衛隊車両が走っていて壮観である(この106号線が無事だったために、宮古はとなりの釜石などに比べ復旧が順調に行くのではとの声もあった)。
 宮古の町に入るとさっそく陸に乗り上げた廃船がお出迎え。遠足気分ではしゃぐ子供達をどなりつけ、これから被災地へ入る心構えを言って聞かせ、「黙とう」させる。ようやくここまでたどり着いたのだが、いざ到着すると急に気が重くなり、惨状を見るのが怖くなる。
 実家の鍬ヶ崎への道は遮断され通行止めになっていた。やむなく浄土ヶ浜側から行こうとするがここもダメ。丘の上の現在避難している祖父の別荘(現在義弟宅)へ車を駐車し、義父に導かれながら徒歩で鍬ヶ崎へ。なんとちょうど実家の取り壊し作業中だという。あいさつもそこそこに足早に山を先頭になって降りる義父の姿にただならぬものを感じさせられる。途中鍬ヶ崎の町の全景が見えてきて唖然となる。いつものような青々した海と空に対して、やたらに建物が少ない異様な光景。残っている建物のほとんどもボロボロになっている。ほぼ全滅状態だ。「あっ!ちょうど家のトイレのところを壊している」と、義父と家内は言うのだが、自分にはどこがどこやらわからないほど瓦礫化が進んでいる。実家は、津波で消滅はまぬがれたものの、大きく傾き道をふさぎかけていたのを、早々に自衛隊が道路確保のため、道側半分(ちょうど店舗部分)を壊して道の両側へ寄りわけていたのを、改めてこの日完全に壊して瓦礫を撤去しさら地にしようとしていたわけである。
 自衛隊のシャベルカーと土建屋のダンプに取り囲まれている実家(跡地)では、ヘルメットをかぶった義弟の邦彦君が奮闘しているところだった。久しぶりの再会ではあるがなんと言葉をかけてよいやらわからない。明治から続く衣料店を受け継ぎようやく軌道に乗ってきたところでのこの被災である。他に邦彦君の奥さん、義母が自身の家の取り壊しを見守っていた。突然大変な場面に来てしまったものだ。
 しばらくすると、自衛隊はただ壊しているわけではないのがわかってくる。少しずつ点検しながら壊している。まだ行方不明者がいるかららしい。その過程で様々な貴重品をよりわけていく。亡き祖父の大事にしていた遺品やまだ使える家具などいろいろなものが道路わきによりわけてある。子供達が興味しんしんに瓦礫の中に入っていくのをとどめ置くのが大変だ。
 やがて道を挟んだ向かい側の瓦礫の山をこともなげに眺めていた時、ボロボロになったアルバムの様なものを見つけ、なんとなく開いてみると家内が高校時代アメリカへホームステイしたときのアルバムであることがわかった。家の半分がよりわけられて対岸に瓦礫になって寄せられているのがあらためて認識される。それでもう少し探してみるとすぐその横にも同様の汚れ果てた家内のアルバムを発見する。そこで子供も一緒に夢中になって探し始める。息子は「さとうって漢字でどう書くの?」と汚れたノートを見つけてくる。そこには佐藤由美子とはっきり書いてある。「お母さんの小学生の時のノートだあ」と喜ぶ子供。ほかにも作文や文集、義弟、義父の賞状、通信簿まで瓦礫の中に広く散乱しているのをいちいち拾いだす。やがてやはり何の気なしに白い紙で包まれた布地の塊を見つけ収集しておいたのだが、義母に見せると「祖母の形見の帯」だそうで喜ばれる。実は義母がもっとも気にかけているのが、この種の先祖伝来の着物類で、取り出せないまま瓦礫の中に紛れ込んでしまっていた。全部合わせると数千万円分あるというから大変だ。義母はその旨を担当の自衛官にお願いして丁寧に壊しつつ探してもらっていたのであった。
 夕方になり、家内をつれて、取り壊されている実家の向かい側の漁港の方へ行ってみる。やっぱり宮古漁港から海をみないとここに来た気がしない。義母が言うには、津波の後はウニが大漁になるという言伝えがあるらしい。ウニは津波で流された死体を食べるからだそうだ。だから近隣の住民は津波の後でウニは食べないのだそうだ。なんともナマナマしい話である。
ところで、この漁港市場もそうとうに破損し屋根が崩れかかっている。通常では絶対立ち入り禁止になりそうな倒壊しかかっている建物でも、手つかずのまま出入りできてしまうので、かなり危険だ。自衛隊車両(ジープや8輪装甲車や戦車)や自衛官がところせましと行き来している中、解体住居関係者ということで、自由にこの場に居合わせることができ、まさに戦場に紛れ込んだかのような不思議な気持ちになる。従軍カメラマンなどはこんな感じなのだろうか。
 やがて、実家からけっこう離れたところに仰向けになっている壊れた車に妙なものを発見。引っ掻かているシャツを手に家内が、「このシャツは家で売っている商品だ」と言う。ようくみると他に靴下やハンカチやいろいろ引っかかっている。なんでこの車に沢山くっついてるんだろうと?と、タイヤの間や、排気管の間、潰れた車内などいろいろなところから山の様にさとう衣料店の商品を収集。邦彦君がやってきて「あーこの車は津波の時、店に突っ込んでた車」、「中に死体がありそうで怖かったんだけど」と説明してくれる。

 17時解体作業終了。向かい側によりわけられた瓦礫は明日8時〜ということに。
 夕日が沈む宮古港を背景に帰路につく。途中偶然に瓦礫の中から戦争当時軍事教練に使用されていた、ライフルを摸した木製の棒を拾う。以前盛岡の骨董屋で買おうとしていた種のもので、不謹慎ながら心中ほくそ笑む。
 高台に来ると、「ここから見てると何もなかったみたいだね―」と家内がしみじみと口を開く。漁港の前の美しい海と月山が見える。瓦礫は見えない。本当にこの町は瀬戸内海の、例えば尾道の様でもあるなあと感じいる自分。

 夕食では、なんとこの日、店のレジ―と帳簿が発見できたとのことで、みんな表情が明るかった。特に帳簿は貸しで売ってきた過去の記録が全部残されているので、かなり重要であるとのこと。いくみさん(邦彦君の奥さん)が、シャベルカーのつかんだ瓦礫の中に瞬間的に見つけてストップをかけ間一髪救出できたとのこと。レジ―の中にあったお金は子供がはりきって1枚1枚かわかし数えあげる。この日の夜大きな地震があり、停電に。さらに津波警報が発令され緊張が高まる。ニュースで聞き覚えのある不気味な音声が真っ暗の深夜響き渡る。「宮古市に津波警報が発令されました」。まったくなんと因果なものか。


 翌日は津軽石川河口部にある義母の実家・祖母の家にお見舞いに行く。道中海岸線を走らせるが、思い出のレストランや集落が瓦礫と化しているのに驚かされる。特に祖母の妹が亡くなった集落は跡かたも無くさら地になりはてていた。リューマチで逃げられなかったのではないかとのことだ。
 祖母の家は2階まで浸水したのだが、幸い残っていて修復可能であるらしい。ちょうど家族総出で片付け作業中であった。いつもくれる米をつくる田んぼはヘドロで痛々しく破壊されていた。津波がひいた後ここに死体が残されていたそうだ。商売屋の鍬ヶ崎の実家に比べ、米や野菜、鮭等をつくるこの家の雰囲気は全く異なっている。押し曲げられた巨大な米櫃が残っている作業小屋に通された。壁には鮭がつるされている。やっぱり鮭があるとなにか元気が出てくるから不思議だ。ひさしぶりに瓦礫やヘドロと無縁のみずみずしいまっとうなものに出会ったような気がした。なんと言っても鮭は津軽石のシンボルである。お見舞いに来たはずなのに、子供たちにのみものやお菓子、亡き祖父の遺品から出たという古いお金、様々な食べ物をいただいてしまい恐縮する。祖母は今回の津波が3回目だそうで、地震直後ただならぬ予感がしてまっさきに避難場所へ向かい一番乗りだったとか。復興作業をがんばる津軽石の人たちを見て少し元気づけられる。

 午後からふたたび鍬ヶ崎の実家撤去へ立合う。向かい側の瓦礫の山がかなり無くなってはいたが、まだ着物類が出てこないとのこと。義母は朝からずうと張り付いている。着物の中には家内の晴れ着なども含まれているらしくなにしろ気合いが違う。大きな桐ダンスに入っていたとのことで、このぐらい丁寧に見て行けばかならず出てくるに違いないと思われた。そうこうしているうちに店の前に置いていた煙草の自動販売機が出てくる。扉を開けて中身の煙草とお金を回収しようとする。自衛官達がバールでこじ開けてくれようとするが、全体が歪んでしまっていて上手く開かない。邦彦君が家に戻ってカギを持ってくるが、カギでも開かない。最後にシャベルカーで扉を壊して開けてもらう。数十個の煙草と結構なお金が出てくる。こちらは誰も吸う人がいないので、自衛官にあげようとするがなかなかうけとろうとしない。本当にまじめな良い人たちだ。それでも最終的には丁寧に探しものに付き合ってくた感謝の気持ちで受け取ってもらえたようだ。
 かんじんの着物の方は結局出てこなかった。最後の瓦礫の撤去を悲痛な思いで見る。どう考えても出てこないはずは無いので、おそらくプロの泥棒に持って行かれたのではないかと話し合う。瓦礫表面に祖母の形見の帯が露出していたことからも、おそらく桐ダンス本体が露出しており、見つけられ、桐ダンスごと盗まれたのではないだろうか?ちょうど実家の隣のとなりが宮古信用金庫でもあり、この一帯が狙われたのかもしれない。
 翌朝もこの場所に来てみると、近所のおじさんが邦彦君のところにやってきて、「これ、さとうさんところの」と、汚れた煙草3箱と落ちていたという数十円のお金を渡そうとする。地域の人たちはとてもまじめで泣けてくる。

 今後この鍬ヶ崎の町はどうなるのだろうか?もともと鉄道ができるまでは、宮古の中心はこの漁港地域だったそうである。
なんとか鍬ヶ崎の町には復興してもらいたいものである。なにしろ我が家族の心のふるさとでもあるわけだし。
義弟の邦彦君はこの場所で地域に根差したとても魅力的なこころみに着手していたところであった。彼は「これで踏ん切りがついた。鍬ヶ崎でうちが一番初めにきれいに片付いた!」とサバサバと頼もしい(義母は「自分のところだけきれいに片付きすぎるとまわりから何か言われる」とあいかわらずの商店街的気配りというか心配をしていたのだが)。ぜひとも何らかの形でその意義深いこころみを繋げて行ってもらいたいと祈るばかりである。


さとう衣料店ホームページ

You Tube・ありし日のさとう衣料店「雅ショ―」2010(まさにユートピア。涙なしには見れません)

月刊みやこわが町・ホームページ(義弟・邦彦くんが毎月すばらしいコラム・イラストを連載)

うみねこチャンネル



You Tube・鍬ヶ崎実家修復映像2009―1       2011(自分の「修復」跡もほぼ消滅)
 

You Tube・鍬ヶ崎実家修復映像2009―2       2011
 

You Tube・鍬ヶ崎実家修復映像2009―3        2011
 





 宮古こけし

 我が家の「青亀堂コレクション」で現在実費的にもっとも価値のある品は?と聞かれたら、おそらくそれは、坂下権太郎の宮古こけしと答えるだろう。坂下権太郎は「宮古こけし」の創始者である。温泉でも山間でも木地師部落でもない漁港にこけしが古くに誕生していたことは、希有なことである。こけし研究家深沢要は端的にそれを「宮古にこけしがあるのはうれしいことである」と表現している。このこけしは家内がこけし学芸員に勤め始めのころ、とある東京のこけしコレクターにいただいてしまった物である。新米だった宮古出身の家内を激励してくれようとした破格の贈り物だった。かなり黒ずんではいるがはっきりと描彩のわかるすばらしいものだ。地蔵さまに近い形態のこけしで地蔵こけしともいわれる。よく使われる青い色彩はまさに三陸そのものの象徴である(イラストのものは赤色の独特な模様が描かれているが)。宮古こけしとは海から生まれた唯一のこけしと言え誇るべき遺産である。その後息子の坂下隆蔵のこけしを、これまた別な東京のコレクターの方から譲っていただいた。さらに三代目の坂下隆男のこけしはしばらく休止中で手に入らなかったのだが、家内が高校生のころ偶然宮古駅前で購入したという小さなタイプが家にのこっていた。そういうわけで我が家には大変幸運なことに親子3代の宮古こけしがそろっていることになる。この坂下隆男は最近になって一時的に再開し、さっそくお祝用の大きなものを1本注文して、実家のさとう衣料店へ送り、店頭に飾られていた。その後隆男はふたたびこけし作りを休止してしまい、以後ほとんど手に入らなくなっている。
 震災後、義弟から連絡があり、崩れた店のせまい隙間から、自分が描いた「田老・山王岩」の絵をなんとか取り出してくれたという(本当に大変な状況下でなんと言ってよいか。大恐縮。涙)。
 残念ながら宮古こけしは他の多くの貴重品同様取り出せなかったそうだ。もしかすると三陸沖の黒潮に乗って太平洋の大海原へ流れていったのかもしれない。

 宮古の再生を期して、三たびこの地蔵こけしを復活させてもらいたいものである。
 近いうちにお願いしてみるつもりだ。


                                  
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