東日本大震災日記




 2011年3月11日金曜日。

 この日は永遠に忘れられられない日となるだろう。

自分をはじめ多くの人々が、もはや3月11日以前の日常へ二度と引き返せないと感じている。

ずいぶん遠い所に来てしまったな、、、。


 今回の大震災は、実はたくさんの予兆があった。
3/9の地震はその典型で、なぜ多くの研究機関、研究者を擁しながらひとつの警告も発せられなかったのか。無能、鈍感というほかない。
 (ネットで観てみても例えば大震災の10日前に茨城県鹿島沖に数十匹のクジラの死体が上がっていたことが報じられているし)。

 自分の周辺でも様々な見過ごされがちな予兆が見られていた。ただしそれが何を意味するものなのか。まさか地震と津波がくるとは解からなかったのだが。

 我が家の玄関口東側には魔よけの木として「オニヒイラギ」が配してある。しっかり根付いて年を追うごとに大きく育ってきていたのだが、どういうわけか、2011年に入ってからいっきに枯れはじめてしまった。虫のつく初夏ならばともかく、冬に枯れるとは原因がわからず、不吉なものを感じた。東側から何か災いがやってくるのではないか?それを家内に言うと、「またーそんなはずないでしょうー。そういうネガティブ発言があんたの良くないところ」と笑われる。ちょうど今回の震災の震源地になった宮城県沖が真東にあたる。魔よけが犠牲になって災いを遮ってくれているとすれば、それは良しとするほかない。


 ところで、実を言うと、信じてはもらえにくいことだと思うが。自分は、一週間前からこの3月11日のことがどうしようもなく不安だった。それをものがたるようにカレンダーに印しが残っている(震災後家内が、めくっていなかった1月と2月のページをめくり発見し悲鳴を上げた)。自分の中では理由のはっきりしない不可思議な緊張状態が一週間続いていたのだった。
 全ての事柄がどういうわけかその週の週末3/11に集中していた。この日があらかじめ何か特別な日ででもあるかのように、、。この日に向かって何もかも流れ、この日の後、向こう側には何故か何も想像できなかった。自分の中の動物的本能が何ものかを確かに強く察知した。どうしようもない不安の正体がつかめないでいた。数日前からなぜか胃がしくしく痛んだ(数年来胃が痛むということは無かったのだが)。本当の敵がなんであるのか最後まで解からずに。

 この異常な自分の1週間をあえて克明に記しておきたい。




3月4日

 今年の5月に控える二つの展覧会作品に関して、「材料」が足りなくなり、亘理町荒浜・鳥の海へ出かける。寒い寒い日。3時ころいつもの浜辺へ到着。駐車している車が一台もなく閑散としている。いつもと雰囲気が一変しているのに驚く。陸地の部分が狭くなっており、廃材は極めて少なく、人影が皆無で、とても暗い。風は強く波がすこぶる強い。水かさが何時になく多い。
 しかし展覧会も近く、なんとしても所望の廃材をかき集めなければならず、浜辺をはいずりまわる。普段おびただしいほど埋め尽くされているはずの廃材がかき消えているのは、もしかすると大波が来て全てさらってしまった直後だからなのか?あまりの波の強さに珍しく身の危険を感じ、記録する。上空を何度もヘリコプターが行き来する。浜辺にいるたった一人の自分に注意を即しているかのようだ。この日は珍しいことに赤色のパイロンの破片ばかり沢山手にする。パイロンをテーマにした修復作品のシリーズにと内心思う。ウミガメの死骸を発見。白骨化しており、頭蓋骨を収集する。南無阿弥陀仏。昨年の異常気象のせいか、最近とにかくウミガメの死骸が多くて気持ち悪い。ちょうど空には奇妙な雲が立ち込めそれも記録する(これはいわゆる地震雲ではないだろうか)。この日の浜辺は暗く死の匂いに満ちていた。妙に寒々しくわびしい気持ちで浜を後にする(当然ながら震災後この一帯は跡かたも無く水没した)。


3月5日

 従兄の結婚式出席。新郎をはじめほとんどが女川、東松島(矢本)、石巻の親戚達。自分にはけっこうたくさん従兄がいることにあらためて気付かされる(数日後そのほとんどが被災することに)。とりわけ松島基地勤務の自衛官である年少の従兄には、そのつどお酒をついでもらったりしてお世話になり、立派になったもんだと感心する。


3月6日

 SARP会議。河北新報主催の「春の散歩道」の件。今後のことを考え運営委員会の中に事務局を設けることなど話し合う。運営委員会、事務局其々のメーリングリストを立ち上げたりして、より活動しやすい仕組みを稼働させる準備がはじめられようとしていた。

3月7日月曜日
 朝早くから健康診断で結核予防センターへ。市の来年度採用に向けて3/11金曜日までに健康診断を受けなければならないことになっていた。10数年間毎年来ていてはじめて駐車場がいっぱいで停められなかった。どこも悪くないけどメタボに気をつけてと笑われる。すきっ腹のまま雨なので書籍&カフェ・マゼランへ向かう。これから作並に戻るにあたり、今後何時顔を出せるかわからないと思い暇乞いといったニュアンス(ちょっとオーバーだが何故かその時はそう思ったのであり、事実そのとおりとなってしまった。震災後のガソリン不足のためいまだに顔を出せないでいる)。自分一人で作並帰宅(家族は仙台・八木山)。着替えや食料を持ってくるのを忘れていたことに気付く。仙台に戻るのも大変なので、週末までとにかくぎりぎりきりつめてやりくりしながら、懸案山積する仕事を消化していくこととする。この日から1日ほぼ2食、缶詰ももはやなく、フリカケ等で食いつなぐことに、、。

3/8日火曜日
 この日、非常勤講師をしているS高校の教務部長から電話が来る。来年度の教材に関して、担当のS先生と会って直接打ち合わせしてもらいたいので、ぜひ学校に来てくれとのこと。明日9日は受験の採点。明後日10日は@@@。できれば11日昼休み時間ころ職員室に来てほしいとのこと。1時から会議だそうなのでその前にということ。作並からわざわざ昼にちょっとでも宮城野原に出向くとすると1日つぶれるので、どうしようか困る。「次の週の月曜日ではどうでしょう?」と聞くと「来週だとちょっとおそすぎる」と言う。教務部長のもの言いはクールながら予断許さない様子。しょうがないので3/11日昼に伺う約束に。
 なんでたかが来年度の教材の件ぐらいで呼びつけられるのだろうか?動悸が激しくなる。
 思い当たる節があった。おそらく教材の話は付録で、本当は来年度の時間割に関することだと直感する。来年度は掛け持ちしている他校の時間割が大きく変わり、そのあおりでS高校の時間割とぶつかり、以前から頭を下げてかなり大変な調整を依頼していたのだった。どうせそのことだろうと思わざるを得ない。わざわざ呼ぶということは、やはり調整がうまくいかず、要望がかなえられず、下手をするとどちらかの学校をやめなければならないこともあり得る。このS高校は大学を卒業して以来長い間続けることができた主たる収入源で、なんとかここまで自分が綱渡りしてこれた源泉であった。この時期に失職するとなると大きなダメージを受けざるを得ない。考えれば考えるほど動悸とめまいを覚えた。不安がつのる。不安をよそにとりあえず11日に仙台の街へもどらなければならなくなったので、それに合わせて今週末の予定を立てていくことにする。山積している懸案事項を全て11日近辺に照準をあわせていくようにする。急転直下にわかにスケジュールが立てこみ大変忙しくなる。



3/9水曜日

昼間にやや強い地震あり。
しかしほとんど意に介さず。

 その後本格的に週末の予定を構築し始める。いかに合理的に効率良く予定を組むことができるか。
まず、確定申告に関して。パソコンで申告しようとしていたのだが、この日になって自分のパソコンでは無理だと判断。また今年も宮城総合支所に出向かなければならないのか?と思ったが、今年から住民票を太白区に移してしまっていたので、混雑が予想されるなれない街中の税務署に行かなければならないような気がして動揺する。期日は3/15火曜日で、ギリギリだとさらに混むので、なんとして今週11日金曜日に済ませたいと思う。仙台にいる家内へ電話し、太白区役所へ行ってもらい急遽住民票を自分だけ青葉区新川に戻してもらうように頼む。茶箪笥などを探して源泉徴収書などをかき集める。次に新年度非常勤講師に関する学校提出用書類をS高校の分とT大学の分2セット作成する。また家内へ電話して必要な振り込み用口座手帳のコピーをファックスで送ってもらったり、交通費関連の家から職場までの地図を書きだしたりする(自分はこういう書類づくりが大の苦手)。つぎに以前から構想していた友人佐々木健くんのお祝い会の日取りを調整(県の美術館における企画展参加に際して)。まず主役の佐々木君へ電話し3/12土曜日夜予定で承諾を得る。次に今回のお祝い会を提案してくれていた佐立さんへ電話。「大丈夫でしたか?」と聞かれ、何のことだろうと思ったが、さきほどの地震のことだと知り、大げさだなあと感じる。佐立さんが11日金曜日はバイトなのを知っていたので、12日土曜日でお願いする。が、土曜日は予定があるとのこと。それじゃあしょうがないのでもう少し後にしようかと一たんはあきらめかける(13日曜日はおそらく作並に帰宅してしまってるだろうし)。佐立さんが「先約を取り消してもらうよう頼んでみる」と言って、電話をかけなおしてくれる。すぐに12土曜日で大丈夫と電話をもらう。この辺の微妙な推移が後に自分の命を救うこととなった。
 それから今年5月予定のグループ展に関して、さいとうよしともさんから電話があり、近いうち仙台で会いたいとのことで3/13月曜日午後〜はどうかと提案される。おそらくそのころには作並に帰っているので、3/11金曜日夕方〜ではどうかと逆にこちらから提案させてもらい、調整してもらう(結果的には調整できず実現しなかった)。さらに2010年宮城県芸術年鑑洋画の部の執筆期限がきていたので、いそいでそれをほぼ完成させる。その上で、掲載予定の写真データ―をまだ受け取っていなかった斉藤道有くんへ催促のメールをしつつ、宮城県庁消費生活課へ電話する。3/11金曜日午後県庁へ直接伺い、執筆した文章および掲載する写真データ―をメモリスティックで持参したいと申し出る(データ―が重すぎて自分のパソコンからは送れないので)。担当者は11日はちょっと都合がつかないし、まだ実は時間に余裕があり月末で大丈夫なので、最後のひとりの写真データ―が集まってからで良いですと言われてしまう。担当者は以前会ったときの印象と異なり、暗くやる気のない感じでやや当惑する。もしかしたらこの3月で人事異動が内定しているのかもしれないと思ったりする。こちらとしては面倒なこの仕事をかたずけてしまいたかったのだが今回はあきらめる。
以上の様な調整作業を続け、おおよそ以下の様なスケジュールを組み立てることになった。


3/11金曜日
朝7時起床。8時出発。
9時宮城総合支所着。確定申告開始。
12時半S高校着。教務部と話し合い。
S高校新年度書類を事務へ提出。さらにT大学書類を郵送。
午後はS高校美術室掃除。生徒作品資料データ―化し新年度授業資料作成作業。
夕方仙台アーティストランプレイスへ。杉崎さん個展拝見。
夜八木山宅帰宅。

3/12土曜日
午前中宮城県美術館「アートみやぎ」展見学。
午後仙台市若林区荒浜へ廃材収集へ向かう(先日の亘理町・鳥の海では予定外に収集物がそろわなかったので、今度はもう一つのなじみの場所で、目的をはたそうと計画する)。
夕方6時八木山動物園前セブンイレブン前でSくんと待ち合わせ。その後お祝会。
夜八木山宅帰宅。

3/13日曜日
朝出発。作並宅帰宅。制作活動再開。

以上。




3/10木曜日

 一応可能な限り現時点での計画を合理的に立て終わりひと安堵。
 それにしても3/11金曜日は勝負の日となり(大変稀なことだがカレンダーにも印しをつける)、数日前から神経質になっている自分に気付く。そもそもなんでこんなに不安なのだろうか?ようく考えれば考えるほど解からない。S高校の時間割がそんなに問題なのだろうか?うまくいかないとしても1時間〜2時間ほど重なるとか、予定していた休みの曜日が確保できなくなるとか、、、それ以外にいったい何があるというのだろうか?これほどの不安を生じさせる問題とは一体何なのだろう?何が待ちかまえているといのだろう?「いやな予感がする」と家内に電話をすると「べ―つに大丈夫でしょー!」と脳天気な一言。何故か救われる思い。いつも彼女にはそうやって救われてきた様な気がする。ほとんど臨戦態勢でやるべき仕事をこなす。
 この時期自分は完全に分裂していたようだ。動物的レベルの感覚と実利的計算の意識が水面下でそれぞれ、まるで別な生き物のように何かに脅え右往左往していた。動物的レベルではこの段階で確実に何かをキャッチしていた。ただそれがなんなのか、凡庸な意識が捉らえきれないで疑心暗鬼になっていたのである。
 夜何度も家に電話する。問題の「明日」を目前にして家内や子供の声を聞いておきたいと珍しく思った。何度かけてもつながらず、夜中の11時半まで何度もかける。通常では子供にあわせて起きているはずの無い時間帯であったが、迷惑も顧みずの不可解な行動である。この夜は布団のなかでまどろんだだけでほとんど眠れなかった。




3/11金曜日

 朝7時30分ころ起床。寒くてお湯が凍って出ない。様々な書類、海辺へ行っても寒くない完全武装を用意し、8時20分ころ出発。9時5分ころ宮城総合支所へ到着。駐車場が割合あいていて、さい先良いと感じる。書類持って建物内へ駆け上がる。まだすいているのを確認して手続きする。パソコン入力コーナーへまわされ、アドバイスを受けながらパソコンにて確定申告をする。思いのほか順調で30分ほどで完了してしまう。10時前に出発。第一関門突破である。S高校の約束の時間には早すぎるので、今のうち明日予定していた宮城県美術館へ行こうと思い立つ。美術館横のコンビニで菓子パン購入。あとで、S高校美術準備室でお湯を沸かしてお茶しようと計画する(この辺の些細な行動も後で微妙な影響をかもしだすのだが、、)。
 県美術館「アートみやぎ」では初日の内覧会時によく見ていなかった映像作品を中心に見ておこうと思っていた。まず一階トイレに行くと、普及部の菅原さんとばったり会う。今日調度佐藤時啓さんが公開制作にきているからぜひ見によってと誘っていただく。菅原さんと話すのは実に6年ぶりでなつかしい。佐藤時啓さんとも以前何度かグループ展で一緒に出展したことがあった。珍しいこともあるものだと、とりあえず「アートみやぎ」展会場へ行ってみると、なんと目当てのインタラクティブな映像作品が故障のため、インタラクティブしないとのこと。内覧会の時はインタラクティブ作品と知らずに遠巻きに見ていて体験できなかったので、またしても駄目かと激怒する。しょうがないので、明日お祝するつもりの佐々木君の絵画をいつになくじっくり観る。するとにわかに新たな特筆すべき重要な観点に気付かされ一人やや興奮する。彼と付き合って20年ぐらいたつがはじめてのことであり、今考えてみれば不思議なことである。また志賀さんの写真をよく見る。様々な場所におもむきアクティブに反応している姿に感銘する。特に漁船の水揚げ、大きな廃船のある浜辺、皮を剥がれる動物などの写真が気に入る。こういうすごいロケイションへ行動的におもむかなければけっしてとることのできない写真。現在の身近な空間に規定されている自分を省みつつその違いを大きく感じる(数時間後の大震災でまさに自分の身辺がそれ以上の光景に変貌するのだが)。さらに友人の椎名さんの火山焼き映像を時間をかけて観る(特に火山焼きの最中岩に引っかかって、粘土作品が取り出せなくなる悪戦苦闘のところがとても面白い)。かなり各作家作品をじっくり観ていたら、目当てだったインタラクティブアートの修復がはじまっており、担当学芸員の和田さんと会う。なおったばかりの当のインタラクティブ映像も体感することができた。自分自身が泡の一部になる様な妙なイマジネーション。出口で斎さんに会う。普及部の公開制作を見学する時間がなくなり、S高校へ出発。外で再び斎さんとすれ違う。

 S高校へは12時半ころに到着。深呼吸し気を引き締める。いっさいの妥協も許されない。いよいよ勝負である。すぐに2階職員室へ。良い具合に教務部長ではなく、直接の担当であるS先生が一人仕事をしていた。自分が入っていくと、お待ちしていましたという感じでイスを出された。電話のとおり新年度の教材に関しての話がはじめられた。いくつかの確認事項の点検にすぎずすぐに終了する。ただ指定の教材屋へ値段や納品時期の確認の電話を早々にしておくように頼まれる。そのあといよいよ「さてっと!」とやや強めの掛け声とともに「あと時間割に関してなんですが」と思った通り本題を切り出される。「部長から聞いていたんですが、、、」と以前提出した要望書を探し始める。見つからないので、あらためて、自分から来年度の時間割希望を目の前でしたためて説明する。思いのほかすんなり納得してくれ、赤ペンで「解かりました。とにかくここに入れればいいんですね」と印しをつけてくれる。「なにしろ青野先生の1年生の美術が決まらないと何も決められないので、、」となかなか頼もしいもの言い。あっさりそれではそういう方向でとはなしがついてしまった。10分ほどのこと。「なんだこんなことで1週間もくよくよしていたのか」とバカバカしく思いながらひと安堵する。「それではせっかく来たので、美術室の掃除をしていきます」と、鍵をとろうとしたが、いつものところにない。すると「あーすいません。前もって言っておけばよかったですね。今日はこれから美術室を待機場所で使わせてもらう予定になっているんです」と言われる(後述するようにもしも前もって言われていたら大変なことになっていただろう)。美術室が使用できないことがわかり、予定外に用事が早々となくなる。事務室へ書類を提出し、午後は何をしようかあらためて考えてみる。美術室に入れないと教材屋の電話番号もわからないし、電話もかけられない。それでは明日予定していた仙台市若林区荒浜への収集を今日の午後に繰り上げようかとも思った。県美術館に行くのも今日の午前中にすませてしまったし、今日1日で全てかたずけてしまうのもいいかもしれないと頭が考える。とりあえず、教材屋へ連絡してしまつをつけてしまいたいのと、ひと安堵してお腹が減ったのと、一山越えたこの気持ちを分かち合おうと、職場の家内へ公衆電話をかける。十円が2枚ほどしかなく、携帯電話にかけてでなければそれまでである。運よくすぐかかり(通常は携帯にもかかわらず出ないことが多いのだが)、これからカメイ(家内の職場)へ行くから降りてくるように伝えようとするが10円なので途中で切れる。最後の10円でもう一度かけ、今度は要領よく1時に行くから教材屋の電話番号調べて降りてくるよう指示する。

 1時5分前に仙台・五橋のカメイ記念展示館に到着。路上停車して待つこと20分ほど。宮城県美術館わきのコンビニで買っておいた菓子パンを食べる。家内7階から降りてくる。お願いしていた教材屋の電話番号は解からなかったとのこと。「じゃあ私すぐもどらなっきゃならないから」と帰りかけるが、また戻ってきて、「それとも昼いっしょに食べてく?」「それなら1時半まで待ってて」と言われる。菓子パンは食べたけれども、ちょっと落ち着きたいので待つことにする。そうしてやっぱり荒浜に廃材を拾いに行くのはちょっと難しいかなあと思う。今日は寒いし、明日から暖かくなると言うし、しかも、何といっても明日も佐々木くんのお祝会でこっち(仙台)に泊まることになってるし、荒浜には予定通り明日の昼間に行けばいいか、、。と頭を巡らせる。今日はこの一週間の緊迫した極限生活を癒すことにしようと考える。何を食べようか思いを巡らせる。中華の@@@かタイ料理の@@@か、、、、。久しぶりにまともなものがゆっくり食べられると期待する。1時45分ころ家内が降りてくる。かなり遅くなったので完全に荒浜へ行くのはあきらめる。車をカメイに駐車し、歩きでホテル・ホリデイ・インへ向かう。疲れているので、広い静かな店内ですこしゆっくりできるところにしようということになる。家内は携帯で何時までランチタイムか確認する。車の騒音でよく聞き取れず何度かかける。ホテルレストランまでの道のりはとても寒く長く感じられた。
 ランチメニューは、いくつかの料理メニューのほか、お粥、野菜、などがお代わり自由で、コーヒー、デザートもつく。家内とこのような時間を持つのは、子育てと仕事に追いまくられる最近では本当に久しぶりである。薄曇りの天気に奇妙な静けさをたたえた店内。ウェイターのことばはどこか現実味を欠いて遠くから聞こえてくるような不思議なひととき。後から思えばこれは「最後の晩餐」であった。二度と帰ることのできない3月11日以前の世界へのお別れの儀式、、、この最後のかけがえのないひと時を妻と二人きりで過ごすことだできたのはせめてもの救いであろうか。
 だが表面上は新年度の時間割もうまくいきそうだし、なんとか今年もやっていける見込みがついた安堵感に包まれていた。この日常が続くことを確認する至福の瞬間。「終わらない日常」。「退屈だがかけがえのない日常」。と心の中でつぶやく(自分は確かにこの時本当につぶやいたのである)。この数日の不安と動揺は何だったのだろう?とはいえ、依然として奇妙に地に足のつかない現実味のない感覚―不可解な不安感が持続しているのだった。確定申告で源泉徴収分からもどるお金を何に使おうかなどという近未来のつつましい話をする。春休みで子供達を親元の宮古にあずけることになるので、やはり北方面で小旅行ができないか等検討する。最近ではこういった夫婦間の落ち着いた話し合いすら久しくままならない状態であった。喰いだめはできないのだがかなり沢山食べて、会計に立ちあがる。2時40分ころのことである。

 カウンターで家内が会計を済ませている間、自分はボンヤリホテルロビーの天井を眺めていた。みょうなデザインだなあと思った。と、その時、天井のシャンデリア等が激しく揺れ出す。
 「また地震か」と思い顔をしかめる。揺れは続き、しかも強まっていく。「これは強い!」と誰かの声が上がる。ようやくいつもの地震と違うのに気付き、支払いを済ませたばかりの家内をうながし、あわててロビー入口から外へ出ようとする。自動ドアが揺れで閉まりそうになるのを、手ではらいのけ道路へ出る。静寂のなかビルや電線の不気味なキシム音が響き渡る。ビルから離れて街路樹につかまる。他の知らない男性も同じようにつかまる。徐々に揺れがおさまるのを待つ。が、しかしおさまらない。どころかさらに強さをましはじめる。「おおー!!」と恐怖のどよめきが街にこだまする。これ以上揺れたらビルがもたない!!ビルが目の前で大きくしなりゆすぶられている。そのすぐ下にいる自分はただそれを見ているしかない。両脇は高いビルが立ち並んでおり逃げ場は無い。「南無八幡大菩薩」!「南無観世音菩薩」!と唱え続ける自分。横にいる家内を街路樹側に引き寄せようとするが、彼女は何故か逆に出てきたホテルに向かい何かぶつぶつ言っている。よく聞くと「世界人類が平和でありますように、、、、」と聞こえてくる。やれやれと思い、「早くこっち!」と促すも言うことを聞かない。
 それにしても長い地震である。こんなに長いのは初めてだ。通常の3倍から〜5倍は長い。よくビルが倒壊しなかったと感心させられる。おそらく震度があと1高ければだめだっただろう。
ようやく揺れが静まる。車は止まり、大勢の人々が路上に出て立ちつくす。まるでサイボーグ009の加速装置の瞬間のようだ。信号は消え、ビルから全ての人々が退避し外へ出てくる。まるで正月の初売り(例が不謹慎ではあるが)のように仙台の街中が人々でごった返す。
 展示館の「こけしが心配」という家内とカメイビルのところで別れる。この一帯の人々は五橋公園へ退避。自分は車に乗り込み、とりあえず路上へ出る。そうしてこれからどうしようかと思う。そういえばSARP仙台アーティストランプレイスの展示を見なければならないことを思い出す。自分がかかわっているスペースで、かならず毎週観ている。今日逃すと明日しか見れない。これから荒浜に収集しにいくというのもいいが、、、。どちらを今こなすか思案する。やはり今日のうちに展示をみておこうと、錦町へ向かう。信号が全て止まり、大勢の人々が溢れかえり、大渋滞ですすまない。五橋から40分ぐらいかけてようやくめあてのSARPへ到着。個展開催中の杉崎さんがちょうど彫刻作品を安全に寝かせ終え、ギャラリーを閉めようとするところだった。寝ている状態の人体作品を拝見。みなさんの安全を確認しおいとまする。「日曜日の午前中でもまたこれたら見に来ます」とこの時はまだ呑気なことを言っていた自分、、。

 その後はさらに大渋滞。カーラジオで、どうも津波の災害がすごいという情報をキャッチ。子供は学校や保育園で無事だろうし、とりあえず八木山に帰宅する前に、作並・新川の自宅へ確認にもどる。西道路も渋滞だが進む。が信号が止まっており大変。不気味な黒い縦状の煙の様な雲が幾筋も立ち上り始め、ウソの様な大雪が瞬間的に降って来る。まさに天変地異とはこういうことだ。もう薄暗くなって到着。停電なので、いそぎ割れたもののみ拾い、振動で開いた窓は閉め、崩れた家具類はそのままにして家を出る。帰りはさらにさらに大渋滞。カーラジオからは悲痛な叫び。南三陸町壊滅。陸前高田市壊滅。大船渡市壊滅。岩手県山田町壊滅、、、。なんといっても宮古市の安否が気にかかる。西道路を出て西公園前にまで来たのは良いがぴったり止まってしまう。八木山橋が壊れて天守台は通行止め。さらに向山の旅館が崩れて御霊屋も通行止め、、という情報がラジオから入る。八木山へ帰るには西多賀からまわるしかない。がしかしまったく動かない。ガソリンも無くなりかけてくる。雪も降る。いちかばちか天守台・八木山橋から行ってみることにする。通行止めならしょうがない。いけるとこまで行って車は放棄して歩けばよい。渋滞ながら少しずつ進み、青葉城祉をのぼる。大きな灯篭が崩れ、城壁が各所で崩れている。車はぎりぎり一台通れるだけ。あらためて被害の深刻さに驚く。八木山橋は大きな段差ができて土嚢を積んで、一台ずつ警察に誘導されて通される。4時間ほどかけてようやく八木山へ帰宅。家族の無事を確認したのであった。



 普段からぎりぎりの生活をしてきていて、特にこの1週間は夫婦お互いそれぞれに極限生活をおくってきていたので、震災後さらにそれが続くというのは、かなりしんどいものだった(現在進行中)。震災当日の夜、電気水道ガス無しで食べられる買い置きはゼロで、どうしようか?と途方にくれていたところ、「そういえば今日昼ご飯に持っていこうとして忘れたお弁当がある」と、家内が崩れた台所から弁当箱を取り出してきて、家族の夕飯とする。
 もしもこの弁当を家内が忘れなければ、昼食は別々にとっていただろうから、菓子パンを買っていた自分はそのまま仙台市若林区荒浜へ向かっていた可能性が高い。もしも荒浜に行っていれば、時間的に調度浜辺を歩いている時分で、大きな地震があっても、浜辺なので崩れるものがなく、平気でそのまま収集作業を継続していただろうと確信できる。そもそも「津波」という認識は通常仙台で育った人間にはあまりなく、地震で逃げるということは、誰かに強く即されない限り有難いのであった。またもしも注意をうながされたとしても、広い砂浜から車まで逃げ、さらに荒浜地区の道筋をにげるにあたり、津波から逃げおおせたとは考えられないのである。後日この荒浜へ被災状況を確認しに出向いたのだが、はるか内陸部のエリアまでが壊滅的状態になっていたので、とても助からなかっただろう。しかもおそらく自分が荒浜にいて死んだことすら誰にも気づいてもらえなかったに違いない。

 それにしてもあとから考えると「もしも」こうなっていたらという、いくつもの微妙な因果関係に背筋が凍りつく。家内の弁当しかり。最後の10円で携帯につながったことしかり。特に翌日の3/12に佐々木くんのお祝会が予定されていなければ、まちがいなく、11日金曜日は1日がかりで全ての仕事を完了させて作並へ帰ろうとしていただろうから、かならず荒浜で津波に巻き込まれていただろう(震災時佐々木君自身も津波に襲われ危ないところだったという。勤務していたM高校の屋上に逃げ助かった。煙草を吸いに学校の外へ向かっていたら危なかったそうだ)。また、S高校におもむき、午後美術室が使用できなかったのだが、もしも事前にそれが知らされていれば、やはり最初から迷うことなく午後・荒浜へ向かう段取りにしていただろう。それは、芸術年鑑の写真データ―が集まらずに、ぎりぎりまで待つことになったおかげで、11日午後の予定がぎりぎりまではっきりできなかったことも効を奏した。
 ところで今回この文面において、具体的な知人の名前を少なからずそのまま記載させていただいているのだが、はじめはS高校と同様、Sくんという具合にイニシャルで記述していたのであった。しかし不思議なことに、出てくる人物がことごとく全て頭文字が「S」であるのに気付き、さらに戦慄を覚えることになった。結局みんな「S]では誰が誰なのか区別がつかなくなるので、感謝をこめて実名で記載させていただくことにした。荒浜へ行こうという自分の行動を、ことあるごとに「S]なる人物が押しとどめようとしてくれていたことがあらためて鮮明になった。お祝い会の佐々木くん、佐立さん。会合をしようとしたさいとうさん。写真データ―が遅れた斉藤くん。美術館で出合った菅原さん、佐藤時啓さん、斎さん。アートみやぎ出品の志賀さんの写真(数日後具体的にこの黙示録的な情景を目にすることに)、椎名くんの火山の噴火。またこの日ようやくインタラクティブできた鹿野さん(かのさんと読むのだが)の泡につつまれた人間の映像、、。全て予兆を発し、かつシンクロしていたのがよくわかった。S高校で出迎えてくれたS先生、SARP個展開催中の杉崎さん。そしてうちの家内(旧姓は佐藤)。すべて「S」の頭文字の人たちに導かれて災難をかわすことができたような気がしている。地震前の数日の自分の言い知れぬ不安感と緊張感は確かに正確なものだった。様々な縁が交錯しながら「予定」が組みあがり、できあがった「プログラム」のおかげで、待ちかまえていた最悪の「シナリオ」から身をかわことができたような気がする。
 不思議なことに地震当日、自分の腕時計が大きく狂い止まった。数年間異常はなかったのだが。



*2011・3・11 宮城県名取川河口部津波映像(NHK)―(仙台市若林区荒浜に隣接している地域)



*追記・八木山被災生活

 震災翌日夕方。「そう言えば」。と思い出し、食料の買い出しもかねて八木山動物園前のセブンイレブンへ行ってみる。この震災さえなければ3/12土曜日、仙台市若林区荒浜で漂流物収集後、夕方6時にここで佐々木君に車で拾ってもらうことになっていたのだった。セブンイレブンは「当分の間閉店します」と張り紙が貼られやはり閉められていた。普段なら明るい光が店外に漏れ出ているはずなのに、薄暗く閑散としている。暗いのはセブンイレブンだけではない。周囲の全ての家々も真っ暗に沈黙している。静かな静寂に包まれながら、上空ではヘリコプターが激しく行き来し、はるかに太平洋を見降ろす遠方では、無数のサイレン音がこだましている。八木山地区は、この時期の宮城県の多くの町と同様、全てのライフラインを絶たれながら、不気味な孤立感を強くしていた。
青葉城の石垣が崩れ封鎖されている八木山橋ルートのバリケードを見ながら、 「来るわけないか」と思いつつもしばらくそこで立ちつくす。そうして「ずいぶん遠くに来てしまったんだなあ」と悲しみが込み上げてくる。本当ならこれからお祝い会でサムゲタンを食べに行くはずだったのに。あまりの違いにまるでパラレルワールドへ迷い込んでしまった様な気がする。もう二度と同じ世界には帰れないのかもしれない。という哀惜の感慨が込み上げてくる。(ちょうどこのころ佐々木君は津波に合い依然逃避難の最中であった)。

 震災後の自分は、ガソリンも無く、家族のいる仙台市太白区八木山で暮らすことになっていた。制作も何もできず、終日子供の相手をするほかない。食料も水も無く、5日ぐらいは余震もはげしく、電気もこなかったので、アパートの3階よりはということで、歩いて3分ほどの実家に身を寄せていた。実家には、食料の蓄えが少々あり、蝋燭やラジオ、石油ストーブがあったからでもある。
 八木山の破損レベルはおおよそ30余年前の宮城県沖地震とほぼ同じ程度であり、塀が崩れたり、地割れが起きていたりする個所が多く見られた。自分の住むアパートのとなり、朝鮮会館ビルは破損がひどくて退去命令がでて、その前の家の住人達も家を離れ避難した。瞬間的な揺れ自体は小学生のころ体験した宮城県沖地震の方が激しかったような気がする。当時は友人の玄関先で地震にみまわれ、金魚鉢が落ち、友人のお母さんが絶叫し、目の前で隣の家の屋根が潰れた。ガス、水道、電気が止まり、家族で蝋燭を囲み缶詰を食べた。小さかった自分は、学校が休校になり缶詰も美味くてなかなか愉快な日々であった。
 30余年がたちまわりまわって今回は自分が親の身になって同様な事態に至った。ただ前回と今回の違いは、この被災生活が長期化し、原発が放射能を散ばしている点であろう。さらに我が家に限って言えば、、これが最も深刻だったのだが、、自分の父親の病状(アルツハイマー)が思いのほか進んでいて、ほとんど正気を失っていた点であった。
 毎晩「なんで電気をつけないんだ?」と怒りだし、毎朝「なんでガソリンがないんだ?」と不思議がる。しまいには「なんでおまえらがいるんだ?うるさいからさっさと自分の家に帰れ!」と追い出されそうになる。被災した弟夫婦(同じ八木山ではあるが地割れがひどく家が傾いてしまい退去勧告がなされた)が身を寄せに来た時も同様で、毎晩のように涙する母を横目に怒鳴り合い、なじり合うまさに地獄絵図。小さな子供の身の安全を最優先にこらえにこらえざるを得ず、殺伐とした日々を過ごすことになった。30余年前の地震時のあの温かい雰囲気は既に消え去り、頼もしかった父の姿は豹変し、家族の絆を確認する機会となるどころか、大切なものが既に大きく壊れてしまっていたことを、この震災があらためて教えてくれたのであった。



 ところで今回津波で被災した地域の多くは、自分にとても親しい土地であった。


 東松島市、女川町にある母の実家、従兄の家、伯父の家、伯父の実家全て被災してしまった。宮城県が誇る仙石線沿線の町々の多くが水没した。大好きだった祖父の家への道のり。ものごころついたときから暗記し口ずさんできた仙石線の各駅。

 気仙沼は現在もっとも多くの東北・北海道のコンテンポラリーアートを収蔵してくれている貴重なリアスアーク美術館のある町。何度も通いお世話になってきた。高台にあった美術館は地震により相当な被害を受けてしまったらしい(町は津波で壊滅的ダメージを受けた)。現在のところ再開のめどが立っていない。さらに常設されていた自分の作品3つのうち2つまでが地震で倒れ破損・粉砕してしまったとの連絡をいただく。現場には立ち入りできず依然そのままの状態が続いている。壊れた作品のタイトルにはどちらも「ゆりあげ」と付されていた。名取市ゆりあげ浜で収集したものを復元するという作品だったからである。

 名取市ゆりあげは少年時代の釣りの思い出と、はじめて教壇に立った思い出の交錯するところ(ゆりあげ中学校で初任者研修の非常勤講師を1年務めた)。威勢の良い浜っ子たちや濃密な地域共同体のプレッシャーにいつも四苦八苦していた。そのゆりあげ地区もほぼ壊滅してしまったという。震災時のNHKライブ映像では、報道の最初の段階で既に土煙りの覆われているのだが、アナウンサーはそれが一つの人口の密集する町であったことに気付いていない。

 この名取市ゆりあげをはじめとした、仙台若林区荒浜、亘理町荒浜・鳥の海周辺は、自分の制作上の主たるフィールドワークを行なってきたエリアでもあった(頻繁にこれらの地域を訪れ、様々な物品を収集し作品にしてきていた)。自分の作品のタイトルの多くにその土地名がつけられてきている。これらの全てが今回津波で水没した。いわゆる仙台平野が半分壊滅したのであった。この地域はどこまでも平らで逃げても逃げても津波が追いかけてくるような地形で、もしも自分が震災当時ここに来ていれば間違いなく助からなかっただろう。この地域の地震直後の報道映像を見ていると、逃げ惑う小さな自動車が、まるで自分自身の車であるかの様な錯覚にとらわれて戦慄する。



 震災後やむにやまれぬ気持から、またガソリン不足の観点から、もっとも近場であった仙台市若林区荒浜方面へ震災後の状況を確認しに行く。
 上述のようにもしかしたら自分の死に場所になったかもしれない地域であった。
 東部道路を超えると景色は一変。津波の被災そのままが、広域にわたって依然として投げ出されたままになっていた。視界にうつる車という車、家という家はすべてつぶれひしゃげていた。こんな景色は、いままで映画でさえも見たことがない。通常ひとつの交通事故があってもたちどころに救急車やレッカー車がきて何事もなかったように片付けてしまうのが日本社会である。以前我が家の裏の川へ身投げした人がいたがすぐにかたずけられ、身投げ地点の花も2〜3日で消え、新聞にも記載されず、そういうことがあったことすら消されてしまったのに恐怖したことがあった。しかし今回の震災はケタが違った。ある水準を超えてしまうと、ほとんど手の着けようがなくなる。剥き出しにその破たんが露出し続ける。破たんの規模がすごすぎて、逆に個々の破たんがかき消される。日本の社会システムのはかなさ、個々の存在の小ささが白日のもとに知らしめられる。宮崎駿の「崖の上のポニョ」は、被災のない津波・洪水を描きたいということだったと記憶するが、実際の津波はあまりにも過酷だ。洪水の水が引いてしまうと、のこされるのは瓦礫と死体、、、被災しかないのであった。
 そういうことで、変貌した自分のフィールドを歩き、写真を撮り、ささやかな収集物を拾い歩いた。

 とある集落の道筋に差しかかった時のことである。遠目には集落に見えても、実際に近づいて観れば、集落の外観をのこした瓦礫の集積となっている。集落の住人だろうか、自分が歩いている道筋の先には、幾人かの人々が片付けを行なっていたり、うろうろしていた。なんとなく気づまりな嫌な予感がしたのだが、自分はさらに進み、かつ無神経に何ものかに憑かれたように写真を撮り続けた。そのうちある一家族の集団とすれ違い、ただならぬ視線を感じた。「何で写真を撮ってるんですか?」と、その家族の母親と思しき中年の女性に詰問された。息子や娘やその他数人に取り囲まれる。「いや、あのー、、津波がこの高さまで来たというのを記録しようと思いまして」。と少々ずれたことをしゃべる自分の口。そもそも自分もここのところずうと被災生活を続けていてまともに他人と話をしていないので声が上ずる。「この辺の方なんですか?」とさらに詰問。自分としても自分のやっていることにプライドがあるから絶対あやまらない。15年以上も人生を犠牲にしてフィールドワークをやってきたのであるから、この土地で写真ぐらい撮る資格があると思っている。ただそれを説明するすべがない。どうみても自分は怪しい出で立ちでどうしようもない。いわば火事場泥棒のように見えるとすれば見える。「いえ、このへんに住んでいるわけではないのですが、このあたりで仕事をしてきているので、どうなったかと思いまして、、、」と、また口がかってにしゃべる。相手は一応追求をあきらめ囲いを解く。自分はのろのろと重たい気持ちで帰路についた。眼前の景色は一変。どろどろと重たい情念のからみついた悲壮なハラワタに変貌していた。


  
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