<繰りかえし・二次的>
「繰りかえす」とはどのような意義があるだろう?
定期的に行なわれる「交流」儀式をはじめとして、日々のメンテナンス作業に至るまで、我々の生は一見すると際限のない「繰り返し」に終始しているようにも見える。以下「二次的な表現」との兼ね合いにおいて考察していく。
「ズレ」は「繰り返し」から生じる。
「繰り返し」によってかならず、一次的なものと、二次的なものの間にある種の「ズレ」がうまれてくる。
もしも「ズレ」がなく完全に同位であれば、「繰り返し」自体を確認することが不可能になる。だから「繰り返し」は、そもそも「ズレ」をともなうものであると考えることができる。
「繰り返し」とは、だから本来的に矛盾した両犠牲を孕んでいることになる。つまり一次的なるものと二次的なものの間の同一性と異質性を、ともに同時に発生させていくからである。常に「ズレ」は同一性と異質性の両面を同時に含んでいるのだ。
ところで、ものごとが二重に繰り返されると、ものごとの意義が強められる場合と、全く逆に弱められ無化される場合があるように思える。例えば繰り替えされる同一の言葉は、「強調」を意味し、人々の記憶により深く刻まれるとされる。一方同じことが繰り替えされると、時として当初の意義やニュアンスが失われ無意味化する場合もある。繰り返すことで誘発されるこの一見相反するような二面性はどういうことなのだろうか?なかなか良い解答が見つからないのだが、一つには以下のように考えることができるのではないかと思える。
一般的に「繰り返し」−「リピート」は強調をあらわし注意をうながすものである。それはまず大切だから、重要だから、必要だから繰り返されるのだという暗黙の了解がある。繰り返される内容がそいういった期待に答えるものであれば、その「強調」はスムーズに発動していく。しかし期待にそぐわない場合、あるいは期待される根拠が不明な場合、その繰り返しは、別なレベルへ向かうことになる。 例えばその繰り返される内容が、それほど重要ではなく、必要性もない場合、繰り返される行為は、余剰分として宙に浮いてしまう。内容の希薄なただの繰り返しとして、日常的な因果律から逸脱してしまうとも言える。
その場合、結果的に「繰り返し」によって浮上してくる「ズレ」そのものへ注意が向けられることになる。「ズレ」は、繰り返されるものの背後に別な空間をつくり出していく。そこでしだいに、「繰り返されるもの」(共通の部分)−表層と、「繰り返されなかったもの」(異質な部分)−深層という対比を生み出していく。「深層」は、「表層」が一面的で限定されたもの(まさに「表層」に過ぎないこと)であることを示し、もっと別な可能性へ人々をいざなう。「深層」はそうやって、繰り返されるものを表層化、無化していくのと同時に、別なレベルを開示し、奥行きや広がりを与え、「深層」を付与することで「強化」していくと考えられる。 別な言い方をすれば、繰り返されることで、当初示されていた意味(日常的な意味、文脈、必要性等)が「無化」され、いままで秘められていた(と感じられるところの)別な意味(非日常的な−例えばより原初的な、霊的な、異界の、より高次の)が発生してくるのではないだろうか。つまり「無化」と「強化」(深化)は時として同時に連関しておこるのである。
*(例えば「ありがとう」というお礼が繰り返されたとする。二度繰り返されることにより感謝の気持ちが強化されるケース。二度繰り返されて逆に言葉そのものの意味を減じ、むしろその背後の慣習化された社会儀礼的文脈が本人の気持ち以上に強く暗示されるケース。あるいは必要以上の繰り返しにおいて、何か別な意味があるのではないかと思えたり、なんらかの秘められた「たくらみ」を連想してしまうケース。あるいは何らかの宗教的呪術的儀礼的なもの、反復ととして解するケースを想定してみても良い)。
だから「繰り返す」ことで生じる「強化」は、まず二種類想定されることになる。一つは普通の意味での単純な強調であり、もう一つは普通の意味の無化をともなった上での異次元化・深化である。「繰り返し」の真の重要さは、後者の「深化」に具現されており、それは「メタ化」、「異化」に繋がりうる可能性を持っている。 繰り返されるもの−「前提」が「大きな物語」に繋がっている場合(あるいは必然性のある繰り返し)、繰り返されるものに、表層/深層の分裂は生まれにくく、そのまま素直に「強調」されていくと考えられる。
一方「大きな物語」を失った、つながりを欠いている「前提」(あるいはいわゆる必然性のない繰り返しになっている場合)、例えば先述のサブカルチャー作品の虚構世界での「繰り返し」などでは、結果的に「ズレ」に力点が移動集中することになり、表層/深層の分化がすすめられ、虚構世界が動揺し、表層化と深層化、分岐をくりかえし、多層的、多面的に増幅されていくと考えられる。後述していきたい。
ところで、アニメやマンガや映像という媒体の形式自体がそもそも同一の絵柄の繰り返しとズレに依拠している。そういった形式的次元での繰り返し(それ自体は音楽がそうであるように表現の本質的構造でもある)と、現実世界(物語に反映されているところの)における繰り返し(例えば繰り替えされる一日という単位、一年春夏秋冬という単位、生まれ成長し死ぬという一生の単位など)と、メタ物語としての繰り返しが各々重ねられることもある。今日多く見られる、そこに派生し、夢やタイムスリップや転生などを材料にした「ループ」構造の繰り返しは、言ってみればマンガアニメの形式的次元の繰り返しと、現実世界の繰り返しを上手につなげるところからきているようだ。
そうして、このような繰り返される−二次的、多次的、ループ的構造は、「ゲーム的」な構造と深くリンクしていることも見逃せない。リセットすると何度もやり直しができ、プレイの仕方や設定如何で様々な筋書きがあり得るその構造は、そのまま今日の二次創作および、その反映でもあるデータベース型の創作につながっている。単に虚構を受容するだけではなく、そこに自ら参加し(あくまでもバーチャルなレベルでなのだが)、虚構(物語)を進行させ、つくりかえて行くことができるゲーム的欲望。そこではいわゆるプレイヤー的立場で、作品がつくられもし、受容されもするリアリティーが反映されていく。
以上『二次的制作』2007から抜粋 『二次的制作』・参照