<二つの衝動>

 

美術とは、単に美術史、様式論、図像学、図像解釈学などにおいて説明されえるものではありえない。そこにはつねにつくり手側の内実、メカニズムへの考察が抜けている。

 本来人間(創造者)には、二つの根源的動機がある。

  1・交流すること(異界、未知なる領域への接触)―人間否定による一体化―自己放棄 
  2・完全性の実現 (尊いものの所有、確定、具現化)―人間化による一体化―自己拡大 


 本来この二つの衝動が重ねられることにより大きな創造活動が可能となった。

1は、自分や人間を超えた領域、存在への畏敬の念、好奇心、探究心、自身の根源への回帰願望などがないまぜになった衝動と想定している。この種の衝動だけでは、大規模な創造・造形に結実しえないとみられる。その究極は人力や人知の放棄であり、天然自然に抱かれ身を投じる業に通じていく。

2は、1とは逆に、現世的な衝動で、所有欲や征服欲に通じていく。自身の理想世界を現実空間において具体的に実現していこうとする。征服者における大規模な土木作業や建築が想定される。ただこの1の衝動のみが拡張され2の衝動が欠落していると、大変独りよがりで、世俗的な造形に陥り、聖性の大義名分・広がりは得られない。
 通常この二つの衝動は水と油であり、互いに矛盾しあいなじみにくい。人力を超えうる畏怖すべき未知なる領域から発する神話性・聖性。未知なる領域を遮断、もしくは対峙する既知なる人力の成果。この二つは相容れぬ正反対のものである。未知なる領域が猛威を振るえば、人力は怯えなりをひそめるほかなく、人力が我がもの顔にのさばる時、周囲の脅威は忘れ去られるのである。
 しかしなんらかのきっかけにおいて、交わり連動していく時、突如として、聖性を持ちつつしかも人力が最大限発揮された大建築が生みだされうる。

その二つの衝動の重ね方のタイプによりその造形の構造が異なる。

 1・分離・関係―「二重性の表現」

  2・同一化―「同一的表現」

 これは先述してきた循環と直線。二重性と同一性の構造的差異とつながる。

 さらに、例えば心理学者の岸田秀が述べる「自己放棄」的衝動と「自己拡大」的衝動の構造と連結していく。
今日の日本人はこの二つの衝動に分裂しているという彼の指摘は、ほぼこの考察に合致していくものである。

 

                      以上精細は『つくることを可能にするもの』2000 参照のこと。