転用について

 

 インド・デリーのクトゥブ・ミナ―ルへ「錆びない鉄柱」を観に行ったことがある。

興味深く思ったのは約1500年間もそのままの状態を維持している当の鉄柱ではなく、古いヒンズー寺院を壊した部品を転用してつくりなおしたという、クワットゥル・イスラーム・モスクの奇怪な姿だった。パーツパーツにイスラムには似つかわしくない怪物的な模様が残り、石材の種類や色や状態がまちまちのまま、切れながら不思議なつながり方をしていた。パズルを別な配列にくみなおしたような、モザイクを再構成したような奇妙な景観だ。

 石材の建造物ではこういった転用・代用はそれほど珍しくない様に思える。有名なインスタンブールのサン・ソフィア寺院もかつてはキリスト教の寺院だったし、古代ローマの遺跡も後世の住居に転用されていたりする。異なる思想、異なる様式が重層しながら、もともとの組織をそのまま部分的に残しつつ取り込んでいく。あるいは修正して、後付けしながら転用する。あるいはこのクワットゥル・イスラーム・モスクの様に、一度バラバラにした部品を再構成して組み替えてしまう。おそらくカルタゴの礎石や草木まで根絶やしにしたという古代ローマの様な徹底的な破壊こそ稀で、手間もかかり異常なことなのだろう。

 

 ひるがえって考えてみると、一般的なモノづくりにおいても、この「転用、代用」に見られるような性質が、常にその原初性において秘められている事に気付かされる。

 

 例えば山から木を一本切り出してくる。その木で例えば土を耕す「鍬」の類いを創作する。頭の中にある概念としての「鍬」に適した材質として、もっとも最短で経済的な「木」を山から切り出して文字通り「材料」とする。それを普通の「創作」と呼ぶか「代用、転用」と呼ぶかはまた別な話であり、実体としては同じことである。別に山の木でなくともよいし、木でなくともよい。今日の様に工業が発展してくると規格化された「木材」や「金属」製の鍬がつくられうる。とにかく手っ取り早く山の木を材料として用いる―「代用、流用、転用」することをしばしば人は行なってきた。家や柵、桶、斧、服、履物、、、、、同様に他の何かを「材料」に見立てて用いる―つまり「転用」することからできあがってきたと見ることができる。はじめから家や服の材料として「それ」が流通されてきたわけではない。ものづくり一般には本来そうしたニュアンスがかなりの程度含まれている様に思える。

 

 もっとも冒頭のインドのモスクの例の様に、「人工物」を別の「人工物」のための材料にするという所業とは同列にしにくいものがあるかもしれない。「代用・転用」という言葉のニュアンスにはあくまでも本来の通常とは異なる「代用物」、「かりそめ」のという響きがある。

 しかし結局それはどのような先入観、慣習が成立しているかの相対的なものにすぎない。本式の「材料」とかりそめの「代用物」の差、基準は、文化や時代で大きく異なるものだ。「素材」がつねに今日の様に細かく加工された単位で手に入るわけではなく、もとの状態を残し、ひきずった(ある意味抽象度の低い、不純な)未加工な場合も想定しなければならない。今日の日本的な語彙において「代用・転用」と呼ばれうるものでもそれが常態である世界もあるし、未来を考えれば何が常態であるかは決められず(つまり何で「鍬」をつくっても悪くはないので)、あくまでも相対的な判断にすぎない。かつて人類は全ての必要物を自然から得てきたのであるが、今日的水準からみればその多くが「代用・転用」品に見えるだろう。旧石器時代の刃物や釣り針は自然石や動物の骨を「転用」したものととらえられるだろうし、狩猟で殺した動物の毛皮を剥いで衣服にするのもまた「転用」と言える。そういうことから言えば人類の文化トはある意味で、自然を「代用・転用」すること、人間に都合よく配列を組み替えることによって生み出され、営まれてきたと言えるだろう。「ものづくり」はその「変換」―代用・転用・配列組み替えのべつなもの言いにすぎないことになる。

 それでは他の人工物を材料に「転用」した人工物に奇怪で陰惨な印象を受けてしまうのに比べ、自然物を使ったモノづくりの方にはとりたてて異常な感じがしないのはなぜだろうか?おそらくそれは、自然という存在が現在の我々にとって、単なる『材料』にすぎないものになり下がっているせいなのかもしれない。自然や生命に対する畏敬の念が薄まり、本来地球上のすべての恵みがしょせん一時的な『借用物』にすぎなかったというニュアンスを忘却してしまったからに違いない。自然を収奪した「獲物」、労働の成果としての「収穫物」、人間中心の世界創造のための「素材」としてしか見れなくなってしまったのだろう。だからインドのクワットゥル・イスラーム。モスクの奇怪な姿は、我々自身の文化の源に、つねに「転用」という怪しげな本性がセットされているという事実を我々に思い出させてくれているようにも感じる。

 

 さて上記のことを踏まえて「転用」を大まかに以下の様に大捌することが可能だろう。

  1・自然物から人工物へ 
  2・人工物から人工物へ
  3・人工物から自然物へ 

 1の「自然物から人工物」では、先述のとおり、人類の原初的なモノづくり、文化一般と重なってくる。そこではもともとの自然物、生物の其々の特質を最大限に生かしかつ殺し、人間的なイメージに置き換える(転用)ための加工を加えたりする。

 2の「人工物から人工物」では、既に人の手が加わり意味づけされた人工物を、一種の素材として「転用」していく。その時自らそれを破棄して材料としてしまうのか(戦利品等)、既に破棄されたものを「再利用」するのか(廃棄リサイクル等)で趣をかえる。

 

 3の「人工物から自然物」という方向性は一見有難いようだが、一種の呪術的次元では広範に見られるいとなみである。自然の花に見立てて模造される呪術的な人工の花では、木を削ったり、白い餅を木に刺したりしながら人工物で自然の花を「転用」する。また供物としての実際の馬や食物、場合によっては人身御供のかわりに、絵馬や人形などの人工物を「転用」する場合も一般的だ。あるいはなかなか見ることも接することもできない様な野獣や聖獣や神々を、人工の模造品で「転用・代用」しようとする(その中では聖なる光を黄金や鏡や炎を使って「転用」したりしょうともする)。その様なことを考えると「1」番以上に美術のルーツに直接関わってくるところもある。

 

 以上の3つのパターンをおさえつつ、とりあえず「あえて」おこなわれる「転用・代用」の所作を以下の文脈でさらに分けてみよう。

  1・限られた状況のため。(始原性、未開性、経済性、貧困、節約、怠慢、、、) 
  2・意義を踏まえて。(もとの状態そのものの尊重。勝利の象徴、自然神との交流など)

 
 「転用」というニュアンスは上述した通りあくまでも相対的なものである。観点が違ければニュアンスも異なり、当事者自身も「転用」だと思っていないことも多い。いずれにせよ「代用・転用」といったニュアンスに該当しえる文脈として上記の2系統が考えられ、そこには原初的次元でのいわゆる「ものづくり」が相当程度かぶさってくることは先述したとおりである。

 この2系統の文脈―動機はしばしば連動して混ざり合っている場合も多い。そういうれんどうしたじょうたいともかんけいして、この「転用」を特に重要なものとして特徴づけている点は、「もと」の状態が消されることなく「転用」後も持ち込まれ残り続けるところにある(それは「意義」を踏まえても踏まえなくても同様である)。そこでは「転用」後の顔とそれ以前の顔の二つの顔が同時に同居することになり、複雑な重層関係をつくり出していくことになる。そのことこそが「転用」のもっとも重要な本質である。

 そこに奇怪さを感じたり、猥雑で貧しげな印象を抱くのもその重層関係の「二重性」ゆえである。一方でその同じ奇怪な二重性に、征服した事実の永遠化を託し、時にその征服した敵の力を自らのものに「転用」するような魔術的効果を期待したりする。あるいは「それ」(例えば自然や精霊など)との深い絆をしるし、「それ」との交流を可能とするのも、そうした転用的特性を洗練させた一種の技術故と言える。そうして「それ」を破壊し殺した罪に引き裂かれながら、自身の身を謙虚に省み、借りたものを「お返し」しながら環境とバランスをつくろうとした先人たちの知恵もそこにつながっていよう。

 

 このような「代用・転用」的真相は、今日のものづくりの常道から締め出され、忘却され、封印されてしまったように感じる。先述したように本来あらゆるものものづくりは、地球から「それ」をかりそめに「材料」として「借用」してきたのであり、所詮「代用・転用」にすぎないものなのであるという感覚に乏しい。それは端的にいって、自然への畏敬の念を失い、人間文化の本質に横たわり続ける『黒歴史』に無自覚なためである。特に純粋性、一貫性、作家性、自立性を標榜する近代美術概念ではそうだろう。近年の例えば「引用」、「流用」的手法でも一度制度化されてしまったシステム上での『手法』として、本来の「代用・転用」が持っていた原初的ダイナミズムが抜け落ちざるを得ない。それは原初の深刻な対立―「借用」というニュアンスに秘められた、拮抗した関係(劣勢か対等な力関係)での深刻度が忘却されているからであり、創造―材料という一方的な関係(人間優位な関係)に甘んじてしまっているからである。いずれにせよ何もかもが人間の素材になり変ってしまった現在の地球上で、この「転用」の位相はずいぶん軽く不節操になってしまったのであり、それに比例し人類のものづくりも空虚に独善的になってしまたようである。

 今日の「ものづくり」を新たな地平に蘇生させるには、「代用・転用」的本性を、「ものづくり」の暗部から再び救いあげていかなければならない。

 

2007年


*代用(参照)

*戦利品(参照)