<代用>
先述の「後天的変質・後天的付加価値」における「修復」に関する考察で、あらたに「代用」という概念が浮上してくる。
修復作業に伴い「もと」とは異なる材料や文脈のもので、その欠落部を補い補完しようとするケースを念頭に置いている。いわば本来のものが失われて既に手に入りにくい、あるいは高価で手間がかかりすぎるなどの事情により、とりあえず、身近なものを流用・代用して傷口をふさいでおこうとするものでもある。
このような「事情」が幾通りも積層することにより、文脈の異なる代用物が複雑に編み込まれ、一筋縄ではいかない複雑怪奇な「この世」というものができているとみることができよう。完全なるパーフェクトは有難く、常に予定外のノイズなり他者なる闖入者との同居を余儀なくされているのが我々の実態であろう。
このような「代用」についてあらためて考えてみるといろいろと興味深いことに気づかされる。そもそも造形物や文化なるもの自体が、我々の脳味噌の理想とするものの代用品じゃないのか?、、、、とりあえず一口に「代用」といっても以下の要素が考えられるだろう。
1・造形物本来の性質 |
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2・依りしろ・供物など交流媒体としての性質 |
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3・後天的変質・修復・代用における性質 |
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4・代用でしかありえないもの・戦利品など |
1・造形物本来の性質としての代用
そもそも造形物や文化なるもの自体が、我々の脳味噌の理想とするものの代用品じゃないのか?
という事実の例証は古今東西ことかくことはなく、あらためてここで取り出す必要もないほどである。プラトンのイデア論しかり、数々の神像彫刻しかり、キリスト像しかり、、、それは近代のコンセプチャルアートにまでおよぶ。
ただ問題は、これらの造形はつねに「単なる」代用品ではないということである。かならず「それ」がただの「もの」じゃなく何がしかの意義ある存在と見られるのであれば、イデアなり神性なり美なりを分有している事になる。逆にいえば徹底的に単なる代用品であることを隠蔽しようとする性質が強い。とくに自然主義的再現描写への過剰な傾倒は、ある意味再現芸術の宿命でもあるだろう。
また先述のようにこういった造形物が特定の場所で生き続けるとすれば、いわゆる「後天的付加価値」が積層し、やはり単なるオリジナルに対する代用品ではなく、それ自体ある種のそれでしかないもの・固有な存在になりかわっていくだろう。
いずれにせよここで重要なのは、それが「単なる」偽物ではなく、さりとて実物でもない―いわば「両義的」存在として成立しうるいう点であろう。そもそもこの「両義性」は代用品の本質的で固有な意義ではないだろうか?
*写真は鮭の皮でつくられたアイヌの靴。
2・依りしろ・供物など交流媒体としての性質
こういった代用品としてのの両義性を、もっとも明瞭に示し、かつその両義的効用を自覚的に機能させているのが、先述してきた依りしろや供物の媒体的造形であろう。
交流するべき異界を、我々と同じ席に着かせる、あるいは同じ言葉で翻訳する、あるいは人的にコントロールを企てるために、わざわざ「モノ」であり「人工物」である依りしろや供物が活用されることに関しては上述してきたとおりでありここで繰り返さない。
代用―仮の―モノにうつすのであり、具体的な形象としての輪郭をつくけることによって、対峙する我々と空間を仕切り、ナマで直接的な衝突を避けるところのものともなっている。
よりしろや供物という媒体造形は交流時には、ほぼ本物の神々と同位となり、交流終了後では、「もの」として扱われ、川に流されたり、焼かれたり、食べられたりして処理されることが多い。
代用は、ここでは隠蔽されるべきものではなく、本来両義的であらなければ生きられない人間存在を、まさに象徴し、かつ代行した品なのである。
3・後天的変質・修復・代用における性質
冒頭で述べたように、交流媒体としてのいわゆる象徴的代用と並行して、実際的日常世界の次元でも、通常のメンテナンス・修復作業をとおして、物理的視覚的に様々な代用補完がなされている。これは先述のように心的・象徴的次元とつね重ねられている。
このような代用・補完は、完全はあり得ない、終わりのない、常に外的侵食にさらされた、つねに待った無しの人間世界を反映している。
そして、こういった代用は、修復後づけに限ってのことではなく、言ってみれば、我々の現実そのものが、代用品の集積となっており、逆にいえば、「本物」はどこにどれだけあるのかという問題に波及するだろう。とりあえずの家に、とりあえずの部屋、とりあえずの配偶者、とりあえずの車、とりあえずの金、とりあえずの人生、とりあえずの容姿、とりあえずの健康、、、。パーフェクトは有難い。
現実は「修復・修正」無しでは有難く、ゆえに「代用」なしには有難いのであり、同時に現実は「代用」無しで有難く、ゆえに「修復・修正」無しでは有難いのである。
今日にいきる我々は、あらためてそのような実際を遠ざけ美意識・創造をめざすのではなく、実際世界で生じる複雑さ、雑多性の中に新たな健全な意義と美意識を、、多層的、他者共存型の生き方を探っていかなければならないのではないだろうか?
あえて代用品を取り入れることにより、その代用品を手に入れたプロセス、代用品の背景をなす領域、文脈 との関係性をことさら象徴的に主張しようとする、一種の「表現」ともいえる営みがある。
例えば自然界からとってきた―収奪してきた獣の毛皮をまとうことにより、自然や野生動物との結合・一体感、あるいは戦い勝利した証とすることが出来る。
そもそも依りしろなどは、山から切ってきた木をそのまま、あえて用いる点など、山の神とつながろうとの意義を感じる。
また人間同士の戦いで、戦利品を代用することにより、戦争で勝利したこと、敵側を自分の配下に加えたこと、支配していることなどを象徴的にしらしめることもできる。敵側の大事にしている力のシンボル―例えば、旗や銅像や神像、宝物、首を手に入れることによって、新たな力を得ることが出来、また魔よけ的な効力も生まれるとの観念は一般的である。
写真はベネチアの中心部・サンマルコ寺院の正面部分にとりつけられた戦利品の柱。それぞれ材質や様式が異なるのがわかる。このように他者をあえてもとの他者のまま保存して、同化してみせることにより同時多重的な広がりがうみだされている。このサンマルコ寺院は他にも多数の異国からもたらされた品々、収奪品、戦利品で埋め尽くされており、異様なオーラを放っている。そもそもご神体の「聖・マルコ」の遺骸からして他国からどのようにかしてもたらされたものである。そうしてみると今日ルーヴルや大英博物館に伝えられる世界中からもたらされたコレクションの在り様とつながってくる。美術館そのもの、コレクションそのものが、スペインが南米の黄金製品を溶かして金塊に変えたのとは違い、来歴をあえてのこしたま陳列されなければいけないことにより、一種の戦利品としての象徴性をもつものであるようだ。
「転用について」参照
「転生について」参照
「秘められた来歴・発動」参照
「戦利品」参照