<後天的付加価値>
<他者との交流の積み重ねによって生じる蓄積。力・オーラ・固有性の発生。>
1・同時重層的表現 |
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2・循環的表現 |
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3・後天的付加価値的表現 |
二重性の表現を上記3種に分類した。ここではそのうち3番の「後天的付加価値的表現」について考察する。
先述のように、「二重性」の文化では、「異界」との「交流」に立脚し続け、交流めぐって、媒体的な造形表現が定期的に繰り返され、そのつど役割を果たして、そのつど破棄されるものが多い(そこでは破棄されることが重要な意味を背負う)。
一方、破棄されない場合では、毎回繰り返し時間と経験が積層され、複雑に重層され続け、その蓄積の中で何ものかが宿っていく様相を見せるものがある。その蓄積は終わりがなく、元の形や元の意味をしだいに変容させていくことも珍しくない。例えば奉納され祭られる神像や仏像のありようは、展示ケースに収蔵される美術品とはことなり、時間とともにある種の「オーラ」が付与され変容していくように思われる。このような後天的な蓄積・変質は、実際的には強力に人々の印象を左右し、大変大きな力を持つが、通常そのような後天的な変質は、あまり意識されることなく、また「表現」として受け取られることはない。しかし、先述してきたようにけっして偶然に生じる特殊でとるにたりない自然現象というものではなく、交流回路において構造的かつ必然的に生み出されるてくる普遍的なあらわれであり、「力」であると考えられる(あるいは別項目で後述されるサブカルチャーにおける、「二次創作」ではなおさらである)。近代的芸術観からは把握されえないが、この「二重性の文化」の視点では浮上してこざるを得ない極めて重要なこの「力」を、あえて新たな創造性として紡ぎだし考察していきたいと考える。
それは自分の身近かな寺や神社、町並み、自分の家などほとんどの物が、「中央世界」の写し、コピーにすぎないにも関わらず、同時に「いま・ここ」でしかないものになっているという実感からきている。神社の建築様式から、熊野や成田や八幡などという神の種類、自宅の外装、サッシ、ドア、さく、タイル、郵便ポスト、植木にいたるまであらゆるものがコピーなのである。しかし、これらコピーが長い年月、この風土の中で揉まれていくうちに各々の固有なものになっていく。
普遍・中央・型 / 固有・土着・オリジナルの二重性は、例えば、「名取熊野神社」とか「亀岡八幡神社」といった、複合的な名称に象徴されている。そこでは、普遍性と土着性が融合していて、「型」はゆえにそれ自体として価値がある。
異界、自然、神話、伝統、遠い記憶、、、等の「外部」との交わりからしだいにオリジナルに由来するはずの「型」を超え、固有のオーラを生み出していくのである。
このような後天的な文化、「創作」は実際には大変多いにもかかわらず、まともに論じられることがなく、「何もない所」としてしか思われない。それは「美術」や「建築」のように創造主をだぶらせた特権的な「作家」のもとの「ポイエ−シス」ではない。「オリジナル」や「意味」や「価値」は、はじめに完成され確定されているものではなく、後から生成してくるものなのである。
ところでそれは次のように、日本人にとっての「自然」観およびそこに通ずる神や仏の在り方と同質のものでもあるという。「nature」の翻訳語としての「自然」という語は、もともと「おのずからに、おのずからな」という副詞、形容詞からとったものであり、相良亨は次のように述べている。「『おのずから』としての自然を以て山川草木の総称とすることを、許容する思想的土壌は、山川草木をこのように「おのずから」のものと見るものであり、まずこれを何らかの人格的超越者の創造とみるみかたと根本的に異質である」。「『おのずから』としての自然という思惟をふまえつつ、成れる現象を重視したと同じように、成れる神あるいは仏を重視したといえよう」(『<おのずから>としての自然』、日本の美学、10)。
いわば日本人は、作家的創造のアナロジーでもある人格的創造主を要請するようなある種の完全性、秩序、道理としてではなく、「おのずからなる」という生成の意味を中核とした性質自体に、自然やそこに通じるや神、仏の本質をみてきたというのである。
であるから、後天的にしだいに「成ってくる」−価値が生まれてくる在り方は、マイナスであるどころか、日本人にとって「自然」なことなのであり、だからこそ「神聖」なものでもあるのだ。
後天的に固有性を強め、オーラを増殖していくような物質的変質は、具体的には、日々の交わり、供物、「オセンタク」(塗り替え、貼せ替え、着せ替え、掃除、様々な手入れそのものが信仰と結びつく)、修復、修正などによるものである。
問題はこの物質的変質が何故オーラを発するようになるのかであるが、これを説明するのは大変難しい。ひとついえるのは、「型」と人間のかかわり合いの中で、その「かかわり合い」がしだいに物質的に蓄積されていくのである。そうしてその蓄積の内に、先きにふれたところの「おのずから成る」自然の本性が生じてくるのではないだろうか。いわば「型」と長い間交わり続けることによって生じてくる、新/旧の物質的な変質が、生成としての「おのずから成る」自然−「外部」をそこに宿していくのである。それは山川草木とは違って、人間文化の内側に「成る」もうひとつの自然であるとも言える。ただの「型」だったものが我々の言葉では捉えられない「何ものか」に変質していくのである。
そこでは、交われば交わるほど交わるにたるものとなっていく。
人力を尽くせば尽くすほど人力を超えたものになっていくのだ。
このように後天的に「成ってくる」オーラは、例えば先きにふれた伊勢神宮の「循環」とちょうど正反対であると言える。20年ごとの破壊と再生は、そのつど「ゼロ」に戻る完全な循環で、いわば同じ円をずれることなく永遠に回っているようなものである。ゆえにそれは垂直に積みあがる蓄積というものの存在しない、永遠に生まれたばかりの若々しさを持ち続ける「常若」なのである。
一方この後天的価値は、循環の軌道線がズレ続け、そのズレが蓄積されながら、線としてのもともとの円周がいびつでベタな面的塊として物質化していくといったニュアンスと言えよう。
このような後天的な価値の生成は、我々の自然観につながりながら、神棚やパソコン、あるいは後述するように様々な「二次創作」など、意識的に「型」をオリジナル化してパワーアップする欲望にも関連し、我々の「現実」と深く結ばれている。そしていかにこのような実際世界の終わることのない蓄積と変転の中で、その固有な力を、ひとつの創造原理として抽出し得るのか、私自身興味を持っているところである。
<後天的変容・多層化による他者間同時共存>
「輪廻転生」のところなどで触れているが、蓄積される後天的変質には、蓄積・オーラの増大、変質・固有化のほかに、「多層構造化」が指摘できる。
いわば輪廻転生的世界観では前生の自分と今生の自分が同時に重層しズレながら共存するのである。
くりかえされる「交流」の蓄積において、当初の「型」、意味、文脈に後付けが加えられ続け、変質の結果、別物・固有なものになるだけでなく、多くの場合、もとの性質、後づけられた性質、文脈などが重ねられていく。それぞれの形跡を残存させつつ多層的構造の共存状態を形成することになる。
例えば法隆寺の現在は、創建当初の木材、技術、様式に、奈良、平安、室町、江戸、現在等様々な時代の材質とセンスが重層され共存していると言われる。積層され続ける事物ではその中身の組成も複雑になる。自己の内部にそれぞれ異なる(場合によっては矛盾し相反しあう)「他者」を幾重にも抱え込んでいることになる。
一般的な近代芸術概念ではそのような事態は、雑駁な混乱と過渡的な不完全さのあらわれでしかない。
しかし「二重性の文化」としての視点においては、至極必然的な組織の在り方を示していると指摘できる。むしろそれは完全に混ざり合うことのない、実際的で根源的な組成を示してさえいるだろう。いわゆる「作品」とは違った、現実世界の在り様。とどまることのない後づけ、改変、重層の複雑怪奇な実際世界の組成につながっていくものでもあるだろう。
自身の内側に他者・異界を抱え込み共存するありかた。
そのような創造のあり方に新しい意義と美意識を見出すことこそ、今日大きな意義を持っていると考えられる。
後天的付加価値には、今述べたように、「交わり」がしだいに物質的にも精神的にも蓄積していくといった以外にも別なタイプが考えられる。それをここではいちおう「蓄積」に対する「解体」という言葉で呼んでみたい。
柳の言う「間接の美」とは、作者の個性、人工性が隠れていって、「自然さに戻ってくる」ことを指している。たんなる人工物、型、コピーが「かかわる」(柳は用の美を主張し「使う」ことにこだわるが、ここではもっと広く「かかわる」として考えたい)ことによって、中身が充実し、オーラを発していく性質は、柳も述べるように「工芸」にかぎらず「古画」や絵馬、仏像、神像などあらゆるものにおいてみられることである。
このような変質を、あえて今までの本論の文脈から考察してみたいと思う。
まずそれは隠れ流動するものとしての日本的な霊がここに「成る」−おのずから成ってくるところのものとして、多分に自然信仰的な体質に当てはまってくるものであると言うことができよう。仏教の不動明王は輸入されたイコンとして基本的には西洋流の「同一性」の造形的表現であり、自然が「外部」として保管される「二重性」の表現ではない。木材もここでは加工のための材料であって、「聖」としての表象形式に内部化されるものにすぎない。そして同一性の造形の場合、実際には外部と内部が結合され(つまり人工でありながら聖性を持つ)えることは稀で、ほとんどの場合、形骸化しており、そのような形式を模倣しただけの人工物の矮小なものにとどまっている。
それゆえそれはただの自然の材料としての「内部化」であり、聖性−「外部」の広がりは持ちにくい。
しかしそれにもかかわらず風化によって、外部と内部の同一性としての(あるいはその模倣としての)表象形式が「解体」し、材料でしかなかった自然−木材があらわになることによって、結果として同一性としての(あるいはその模倣としての)造形から二重性の同時重層的造形に移行していると言えるのである。
いわば人工的な伝統的表象形式に託されんとした「畏怖すべき超越的な力・広がり」が、むき出しになった実際的な自然の物質の方に移管されることになったのであり、かえって「外部」性は具体的な自然物質としての像の身体孕み、荘厳な印象を人々へ与える幸福な状態に至っている。おそらく最後はしだいに自然に飲み込まれながら、その二重性の関係をも解体し無化してしまうに違いない。
これらの説明は大変困難で、それを承知で多少こじつけがましく考察をおこなったまでである。
この「解体」としてに後天的価値は日常様々なところに見うけられるのであるが、データベース、シュミラークルとしての現代社会の欲望は、これを忌み嫌うことが多い。なぜなら現代社会の「外部」は擬似的にデータベースに投影しているので、「外部」としての自然を本能的に遠ざけ排除しようとするからである。逆に言えば「外部」としての自然が、現代社会の真っただ中に突如立ちあらわれるとき、データベースとしての擬似的「外部」をいっきに相対化し、色褪せたものにしてしまうだろう。
(『二重性の表現』2001年より抜粋・修正)