神社・社殿の構造 2012年
はじめに
日本の神社は、本来その周囲の環境(森や山や木や自然)と切り離して考えるわけにはいかず、空間全体で捉えなければならないとは、何度も繰り返して述べてきたところではある。しかしここでは、あえて、日本の神社の、とりわけその「社殿」の形態に関して考察していきたい。
日本の神社・社殿建築は、基本的に地味で小規模で素朴な構造を示し、最近(明治期ぐらい)まで建築物としてあまり評価されてこなかったという経緯がある。たしかに西欧建築や、大陸経由の仏教伽藍に比すと貧弱な感があるのも事実ではある(もちろん現在でもそう考える人々は多い)。しかしそこには西欧的「建築概念」とは異質な驚くほど豊かで興味深い特質が内蔵されており、無意識的にしろ意識的にしろあらゆる局面で、日本列島の文化一般に影響を与えてきていると考えられる。ここではその固有な特質を抽出していきたい。
1・起源
神社社殿建築の由来は、一説に、仏教建築が輸入された時、啓発、対抗して、大陸様式とは異なる、日本古来の土着的建築様式があえて意識的に採用されたとも言われている。そうしてその「日本古来の土着的建築様式」を最も今に伝えている神社建築様式が、伊勢神宮の神明造であり、出雲大社などの大社造であり、住吉大社などの住吉造であるという。その中でももっとも古い特徴を示しているのが、妻入り、独立棟持ち柱の在り様などからして、出雲大社などの大社造であるという。それ以前の神社がどのような構築物を配していたのかは不明である。自然神を祭るなんらかの聖地として何がしかのものごとがあったことは確かだろう(飛鳥時代でさえも土着神道の物部氏などが、仏教輸入の新派蘇我氏と国を二分して勢力を競っていたわけであるし)。もしかすると非統一的ではあっても古代の高床式建造物的社が既に神社としてつくられていた可能性も否定できないだろう。
とりあえずその特徴―日本古来の伝統をかいつまんで以下列挙してみると、、。
掘立
切妻
反りの無い屋根
棟持ち柱
心御柱
茅葺き、桧皮葺き
床張り
仮設性
式年遷宮
白木造り
千木、鰹木
*(仏教建築が礎石、入母屋、寄棟、屋根の反り、瓦屋根、基壇土間、塗り壁、永久性、朱塗り装飾、、、なのと其々対置されている)
このような特質は現在に伝わる古い神社建築から抽出されている。それを煮詰め逆算し想定された土着建築物の、もっともスタンダードな原型としてイメージされたものが「天地根元造」である。現在の伊勢神宮社殿をより簡素にし、妻入りにし、千木をのばし、高床式を排したようなものである。
一方考古学的調査によれば、新石器時代の住居跡は、ほとんど竪穴式住居で、円形に堀込んだつくりになっていて、先述の「天地根元造」や神社建築の方形といちじるしく異なっていることが判明している。しかし群落の住居跡に混じって、太い柱を立てていた構築物跡も見つかっており、それらが高床式の倉庫か物見櫓か、あるいは貴人(権力者)の住まいか依然として不明であるが、むしろ後代の神社建築のルーツは、スタンダードな住居ではなく、その高床式構築物にあるのではないかと言われている。
そもそも伊勢神宮内宮に代表される神社建築的特徴―高床式倉庫型の切妻屋根木造建築物は、南方の国々では今なお普通に観られる形態であり、その繋がりが類推される。自分も学生時代にタイ北部チェンマイなどに行ったときに目にしてきた建造物が、高床式、切妻形のもので、日本の神社と雰囲気がそっくりで驚いたのを思い出す。
新石器時代、弥生、古墳期などで出土する銅鐸や土器に描かれる建築物の姿は、やはり、高床式、妻入りなのだが、屋根の形が舟形であったり、奇妙な文様があったりと、想定されていた伊勢神宮的外観―日本的イメージとは趣を異にしているのが興味深い。しかしその様な特徴的な屋根もまた、南洋の高床式建築ではけっして珍しくは無いのである。
ある説には中国長江流域あたりに発するその様な温暖湿潤に適合した南方型建築形態が、かつて周辺(雲南省、インドシナ半島、インドネシア、ミクロネシア等の島々まで)に広がっており、その後中国黄河流域に発する漢民族文化がそれらを押しつぶすかたちで席巻してしまったことにより、結果的にその周辺でのみ残存することになった古い形態ではないのかという。そう考えてみると、いにしえの神社形式といえども日本列島のオリジナルではないということにもなり、かつ時代から取り残された古い残存形態を、大切に有難がり今日まで継承し続けてきたものであるという(それももっとも「コア」な部分として)、これもまたある意味日本らしい不思議な性質を再認識することとなる(適当な例とはいえないかもしれないが、例えばGHQののこした憲法第9条を、日本独自の優れた法としていつまでも有難がのを想起してもよい)。
しかしそうは言っても、神社建築にはやはり列島固有の古くて根源的な構造が、様々なレベルに息づいているのもまた事実である。元来の自分たちの体質と、外来の様々な影響が幾重にも折り重なり固有な「かたち」を形成しているのであり、だからこそ現在まで大切に受け継がれ生き続けられたと言うべきだろう。いわば漢文化、仏教建築以前の古い「南方アジア・国際様式」のなかに、半ば自覚的に温存され続けてきた、「建築」以前の「原構築」としての民族的エイトスを垣間見るといっても過言ではない。だからうわべのスタイルばかり見て、単純にどこそこから輸入された云々で片付けられるしろものでもない。
以下、自分が神社建築を考察して興味深く感じる特質を順を追って述べてみたい。
2・本殿/拝殿の分離形態
まず日本の神社・社殿に接して、戸惑うというか、奇異に感じるのは、その側面から見たまとまりの悪さである。
拝殿と本殿がわかれていたり、弊殿かなにかで仲介されていたり、またその仲介されているさまが、いかにも便宜的に間をつなげただけの様なつくりになっていて、ひとつのまとまり感、凝縮した建造物としてのオーラが崩れていくのである。それは参道正面から対峙するときの緊張感みなぎる崇高さとはいちじるしくかけはなれているのである。
まあ御神体のいる本殿を奥に隠すというのは解かる。一般参拝者に対して拝殿までしか開かれえないというのも解かる。しかし拝殿と本殿をどこまでも分離して、微妙な「間」を設け、あるいは(見苦しく)「つなぐ」という精神はとても不思議で、自分が神社に対して長年興味をそそられてきたポイントがまさにこの点である。
言うまでも無いことだが大陸経由で輸入された仏教的伽藍において、例えば金堂と五重塔、講堂などが分離しているというのとはまったく違う問題である。仏教伽藍では其々が其々に機能的にも形態的にも際だって特化し、それぞれ対比的に自立しており、その配置もいちいち整然としている。一方神社の拝殿、弊殿、本殿の其々は互いに近似した形態であり、その並び方もごたごたとしてただ並び、ただつながり、時には無理につながっているように見受けられる。
しかし、この様な神社建築の分離された二重的なあいまいな在り様こそが、しかし、もっともある意味で神社の特質を際立たせていると自分は感じる。高床式とか屋根の形がどうだとか、棟持ち柱があるかどうかというよりも、この点が最初に着眼しなければならない特徴であるように思える。
西洋の大聖堂のような建築物としての統一された成熟、洗練をあえて拒んできたかのような、神社建築における、この分離、二重的な、その上での統合の形こそ、この「表現のみちおく」の標榜している「二重性の文化」の反映であることはまず間違いないだろう。
このような非統一的、分裂的あり様は、建築の未成熟、非徹底というものではなくて、深い意義を持つ、優れた造形表現(「建築」表現としてはたしかに疑問は残る)であると考える。
この拝殿と本殿の分離、独立、連関は、何を目的としていたのだろう。
以下2つのポイントで考えてみたい。
成立過程から
そもそも拝殿と本殿はまったく異なるものであり、拝殿のみがある場合、本殿しかない場合(通常の神社ではこれがもとの形態と考えられる)、中間の弊殿がない場合など一貫されてはいない。其々の神社の地政学的な在り様、本尊の形態にも左右されている。例えば本尊が自然物自体、イワクラや聖山そのものであったりすれば、それを覆う社殿は不必要になることが多い。というかそもそものはじまりは、自然のある特異点―聖視される何らかの場所、ものがまずあり、そこに簡易な仮設的な構築物が置かれたという成立過程が想定されえる。その場合、拝殿的機能を持った構築物のみになったり、あるいは簡単な覆い―社のみ―いわゆる簡易な本殿のみであったりということがおこる。であるので、神社にとって、社殿―本殿、拝殿は本質的なものではないのである。「御神体」―神がよりつくイワクラやヒモロギ、依りしろがあればいいのである。
おそらく神社建築ではこのような起源のイマジネーションをどこまでも大切にしているのではないだろうか。
本殿があるとすれば、それはあくまでも御神体をとどめ置く一種の器であり倉なのであり、それ以上のものとはなりえないし、あえて「しない」のである。倉は倉としてとどめ置きつつ、その前面に参拝用の構築物をもうひとつ別に建てるというのは、そのへんの感性から来ている様に考えられる。けっして拝殿と本殿を融合させて一つの建築物をつくろうとはしないのであり、神はあくまでも「倉」の中にとどめ置き、人間の目からは隠蔽しようとするのである。
神社の成立過程からしても(一般論ではなく個々の神社の具体的事例からしても)、はじめから神社全体がトータルで構築されたのではなく、御神体―本殿―拝殿―弊殿、、其々別々に後付けー順々に間をおいて増築されたケースも多くみられる様に感じる。その成立過程―変容の様がそのまま残っているとも言えようか。
プロセスの強調・表現として
本殿を奥に配し、前面の拝殿にて参拝する、あるいは中間の弊殿で儀式を取り結ぶ時、そのつど奥の入れ物―本殿から神を呼びださなければならない。見ることができない奥まったハコから、「何ものか」を呼び出そうとするそのプロセスこそがここでは何よりも重要なのである。社殿全体を横から見ると、そのプロセスが段階ごとに綺麗に間接的にではあるが視覚化されており興味深い。本殿から拝殿へわたる仲介の「つなぎ」部分こそ、神の立ち現れ―「気配」そのものを造形化した、ユニークな工夫というか、結果した―「自ずから」形成されたかたちというものではないだろうか。建築デザイン的にもう少しスムーズな、亀裂の目立たないような処理がありうるようにも思うのだが(後代の、しかも「高級な」大社殿ではそのような周到な配慮が見られるものも多い)、おそらくあえて、その「つなぎ」を「つなぎ」として(あるいはその分断を分断として、「間」として)のこそうとされたのではないかと想像できる。この「つなぎ」こそ見えない領域と見える領域を橋渡しするものなのであり、神の流動、垂迹、示現、、、いわゆる若々しい「生成」−「なる」ことを表現しているに違いない。
「外部の異界」と「この世」を、「神」と「人」、「流動する広がり」と「具体的な事物」、、これらを安易にまぜこぜにせず、あるいは一方で覆いつくしてしまうこともせず、適度な「間」を保ちながら切り別れつつ交流し続けるという、これまで指摘してきた「二重性の文化」の特徴を非常によく示した造形形態であると言える。
あらゆるものを犠牲にしても、その二重性を保存しようとしてきた我々祖先たちの奥ゆかしい鋭敏な感覚を称賛したくなる。
このような、西洋や大陸的な整合性からすればまことに不可思議とも言える造形感覚は、例えば有名な「能」の舞台建築様式にも当てはまるかもしれない。
西洋の演劇舞台の様に、正面に配された観客席と舞台の間を幕で遮断したりしはせず、そのかわりと言ってよいのかはわからないが、向かって左後方に「橋掛かり」という廊下が伸びている。かつては舞台正面奥にのびていたということだが、正面奥―背景は老松の描かれた「鏡板」でふさがれ、左後方へずらされて、現在の様に様式が固定化したという。あきらかにわざわざあえて、この廊下を見えるように、正面舞台との「つなぎ」を視覚化するために、正面性や左右対称を犠牲にして、「斜め」視点を取り込んで、独自に洗練させたというものであろう。ここでは「シテ」が舞台に立ち現れるプロセスが重要視されているのは明らかである。
3・奥行き(行く/来る。あがる/おりる)
ということで、本殿と拝殿の間―「つなぎ」の表現は、神が本殿から拝殿に渡って来る―神がこちらに来ることを表現していると言えるだろう。それは参道から拝殿へいたる参拝者の動線と反対のベクトルである。
それゆえ神社空間とは、正面からは参拝者を奥に奥にとひきこみ続ける「行く、あがる」吸引力と、側面からは神がこちらにやって来る「来る、降りる」動勢を持つ。そうして双方の視点が「出会いの場としての」神社空間を立体的に際立たせていると考えられる。
この人と神との交流道程は、結界としての鳥居からはじまり一般的に長い参道をへて(時に第2、第3、、無数の鳥居があり、場合によっては楼閣もある)、接点の拝殿から神の領域である「つなぎ」部分―本殿、さらにはその奥(周囲)の鎮守の森や山へ向かう、長大なスパンを持っていることになる。
この長い長いスパンそのものが神社空間―神社表現の中枢であり本体である。社殿建築はあくまでもその1部にすぎない。であるので、神社の場合、一見小規模な建築物、たんなる密閉された倉庫的な無味乾燥なハコであっても、全体としては、奥深いスケール感のともなった表現である場合が多い。西洋の教会がその高さや内部空間の大きさを誇るのに比し、神社空間はその長いスパンの奥深さを誇るものだと言えよう(「ドームと塔」も参照)。
西洋の教会の場合ファッサードとしての「正面性」が強調されてもいる。様々な聖書的モチーフが集約されたファッサードをくぐりぬけ、奥深い内部空間に入り、奥のメインとしてのもうひとつの集約された祭壇(祭壇画や彫像や壁画が混然一体となっていたりもする)としての「正面性」に辿り着く。「正面性」と「奥行き」が対置的に繰り返される。
一方で日本の神社の場合どうなのか?
そこでは鳥居という構造が最も象徴的なように、まったく別な「正面性」と「奥行き」を表現し得ていると言える。
鳥居は言ってみれば単なる外枠としてある。世界を一つの特殊な枠で切り取ってしまう。切り取った空間は、周りの空間から切り離され、強化され聖別されさえする。そこでは自然物の木や山までもをも借景として取り込んでしまうことが可能だ。あるいみ簡易で万能なファクターとも言える。
神社の参道に立つと、幾重もの鳥居と拝殿、その奥に控える本殿の屋根、その奥(周囲の)鎮守の森や山が一つの視界に重層して立ち現れることになる。そうして幾重もの枠で聖別されながら集約・誘導させられる参拝者の視点を、社殿の切妻屋根が受け止める。誤解を恐れずに言えば、ここには既に、バックボーンとしての鎮守の森―御神体としての本殿の甍―示現としての拝殿が、三位一体となって重層し統合されひとつの視界を形成しているのである。
このような長いスパンに重層する神社の「正面性」は、参道の動線上でこそ大きく機能する。だがそこからはずれ側面に立つやいなやいっきに解消してばらけてしまう。しかし、先述したように、その側面からの体験は、正面側の体験とセットとして機能しているとも考えられ、視界を構成していた融合体の其々が、別々に一定の「間」を持って切り別れていること、その上でのその結びつき、交流のプロセスがあえて露わにされているとみることも可能だ。
それゆえ西洋教会的「正面性」が言わば「壁面」としての物理的固定化された「正面性」であるとすれば、神社の「正面性」とは、視界―長いスパンを内蔵する空間の圧縮された視界としての、、経験され生成する「正面性」なのである。このように神社空間の特質は動的な契機に満ちているのである。
4・倉―ハコ形態―隠すということ/あらわすこと
流動する不可視の神を、一定の形を持った器に閉じこめること。空洞の器の内部に呼び込むこと。そうすることで、神を固定し、定期的に交流することができるようになり、ある程度コントロールすることが可能となる。神社の社殿とはそもそもそういうものとしてあったはずである。
それはまず空洞の器―ハコじゃなければならないのであり、そこにシンボルの切妻屋根がのせられることで、神社社殿建築の骨格が形成される。それはまずは「箱」なので、それ以上の建築的な意味での過剰な発展が阻止されることになった。上述のように、「参拝」者とかかわる機能と場所が必要になっても、「ハコ」−本殿の内部を分節したり拡張したりすることなく、ハコの外にもう一つ別なハコをつくって済ませようとする。
御神体はハコの中に隔離し続け隠蔽する。けっして同じハコの中に共有スペースを持ち込まないようにする。人間のスペースと神のスペースはあくまでも辺離し、どこまでも内部を隠そうとする。西洋の教会建築などでは、全てが一つの建築空間内部に構造化されているのとまったく異なっている。
一説には、「倉」は、見ることができな内部空間―暗い―クラ―イワクラ―倉―社殿と繋がってくるのだという。通常「倉」は大切なもの―食物や種や富を高床で持ち上げ隔離し保存、管理するという機能的意味合いをもつ。さらにはそれが富と地位の象徴―聖化されてくるのだとも言う。そのような性質が混ざり合えばまさに「神社」にはうってつけの形式となるだろう。そういうことからしても、神社建築にこの高床式倉庫形態が採用されたのはただの偶然ではなかったのだろう。
それにしても何かを「隠す」という目的が起源となり、後々までその意味合いが強く残され続けているという点が、日本の神社建築の特質でもある。「ハコ」−「器」とはそもそも両義的な造形である。内部を囲い、一定の形に封じ込め、隠蔽する。反面、流動する不可視な存在を、固定し、型におしこめ、視覚化し、存在を間接的に知らしめる。場合によっては中身よりも厳重に手間をかけ重視され造形されようとする(神社の中が空洞的で、本尊が鏡だったり、自然石だったりする)。考えてみれば、高価な蒔絵漆塗りのハコや箪笥の様に、入れ物に贅と手間を費やす例は多い。隠すべきものが転じて知らしめるもの、誇って見せつけるもの、「側」が主役となり、「パッケージ」を過剰にし、「中身」を偽り、誇大宣伝し、凝った造形物に転じる事例にことかかない。にもかかわらず、我が国の神社社殿建築はつねにその過剰化に歯止めをかけ、簡明率直な古式を伝えてきたのは世界でも希有なものであろう。そういう点からしても毎回壊して、原点に戻って行く式年遷宮の存在は大きかったと思われる。
器―ハコは、カミの依りしろ・イワクラとして、つねに内部に空虚を持ち、外に広がる無限の空間と連動されていなければならないのだ。それはハコの外側が主役となり、一個の造形物に凝固してしまってはもともこもないのである。そういう神社―社殿の本質からすれば、建築的・工芸的な充実は命取りとなりかねないのである。
5・高床
そもそも高床式倉庫の「高床」は、湿気やネズミから中身の穀物等を守るための保存機能として採用されたとされるのだが、「神社」建築においては別な意味合いが発展したといえるだろう。
先述のように、神社は住居というよりもまずは「入れ物」−「ハコ」なのであり、高床式の足で、地上から切り離されることによって、そのハコガタの存在はより際立たされるようになったと考えられる。その足は言ってみればある種の「台」なのである。見ようによっては、台の上にオブジェ―中身の空洞なオブジェとしてのハコがのせられている―飾られているというふうに観ることもできる。いずれにせよ柱で持ち上げられるもとにより、そのハコは360度見られ(神社では中身は徹底的に隠されるのだが)、より純粋な造形躯体として意識されるだろう。
さらに考えられるのは、この高床が上昇し、地上から天上により持ちあげられることにより、神を依りつきやすくしたとも言える。地上の民からみれば一種の「棚上げ」でありシンボル化でもあるのだが、、、。
あるいは倉―ハコではなくて、神殿―住居としてみたとしても、この高床は、貴人としての神格化を増大させる働きにもなっただろう(その点でも出雲大社の高さは興味深い)。高床式は、神社の「ハコ」化を強めると同時に「切妻」―「神殿のシンボリズム」をも強めた。
このように「ハコ」と「高床」(柱)と「切妻」のそれぞれの特性が重ねられセットになって融合している点が、日本の神社の特質をものがたるのに大変重要であろう。
ハコ+高床+切妻=神社社殿
6・柱の自律性
柱というものの深層。建築物であるまえにまず柱であること。まず柱を切り出すこと。柱を立てること。の意義に関して別に述べているので繰り返さない(「柱考」)。
神社社殿建築では、そもそもその高床式形式であることからしてもそうなのだが、古い形式のものほどこの「柱」的本質をよく保存していると考えられている。
掘立柱
例えば出雲大社に代表される大社造では、かつては基本的に柱は掘立でたてられた。伊勢神宮では現在も掘立である。掘立ということは式年遷宮をしていたということをも物語るだろう(腐るので)。穴をあけて柱を立てるので、柱を地面に立てるという行為が重要であり、大地と柱が直接結びつくという感覚も重要だ。であるので、大地の上に何かを構築するという原・構築の象徴性が、この「掘立」にはよく保存されうると考えられる。
場合によっては一本の柱のみで自立して立ち続けることも可能だ。一方、仏教寺院などの礎石を下敷きに柱を建てる工法では、もちろん構築物躯体の1パーツとしてのみ垂直にあり続けられるわけで、あらかじめ建築物を前提とした部材としての柱でなければならない。
心御柱
特に伊勢神宮内宮の床下には短い柱―棒が立っているという。この棒はもちろん社殿建造物の構造とは無関係で、独立してただある。もともとは式年遷宮時に新たに新設されるはずの隣の敷地に立てられた「心御柱」であるようだ。だからこれは一種の依りしろであり、実は社殿はこの「御神体」の覆いにすぎないのではとさえ感じる。
出雲大社にもこの「心御柱」があり、この場合は巨大な柱ではあるが、やはり構造的には屋根を支えてはいないと言われる。
建築物の中に、建築に参加していない別な意味合いの柱が混じりこんでいる、、、と、いうよりはまず原点として立てられた柱―依りしろを囲むように構築物が建築されたという経緯がしめされていることになる。
このことからも、日本の古式な神社社殿は、一見すると通常の倉庫や住居のような建築物の様な外観なのだが、実は似て非なるものであることが察せられる。この「心御柱」は、まるで人類の「ヘソ」のように、機能とは別に、そのルーツとのつながりをしっかりと示してくれている、本来の素顔であると言えるかもしれない。
独立棟持ち柱
弥生時代の遺構などからもこの棟持ち柱の存在が多く確認されている。というかもともと、建築的に未発達な時代において、妻側の棟を支える柱が構造的に必要だったための残存形態とも言えるのである。しだいにそれが構造的必要性とは別に、神社社殿の古式な形式として意識的に残され強調されてきたという経緯があるらしい。伊勢神宮内宮の独立棟持ち柱では、妻側壁面から完全に独立して建っているが、ほとんど構造的必要性は無いらしい。
出雲大社などの大社造では、この棟持ち柱が壁とくっついていて(つまり社殿の一部と化し)、棟をささえ十分に機能している。地面から垂直に棟を持ちあげている様は、まさに圧巻である。特に大社造では一本の大木が社殿をつらぬき切妻屋根を支えるという、古代の柱の垂直性が良く受け継がれている(「出雲大社」参考)。
まるで柱が主役で、社殿があとから上方に補足的に取り付けられたかのような雰囲気さえある。
大社造ではこの棟持ち柱が邪魔をして、妻入り中央部分に入り口をつくることができない。一方伊勢神宮では棟持ち柱のある妻側は避け、平入りとなっている。そうすることで中心に入口を設け左右シンメトリーの構造を生み出すことができている。一説にはそこに大陸・仏教建築の影響をみとめ、神明造が、大社造よりも新しい改良型の形式ではないかとされる所以でもある。
白木
神社の社殿は基本的に木製である。それは狛犬や地蔵などがだいたい石でできているのと対置されている(小さな祠などは、その祠そのものが聖化された石と同化しているともみなされるかもしれない)。
自然―命ある山や森から切り出されてくる木―「神木」は、基本的にはその源である大自然を背負っているわけである。それを切り出し、地表に立ち上げ、ハコガタの躯体物を「つくる」のは、ゆえに反自然的な人為的行為の最たるものである。命を殺し収奪する行為である。
神社建築では、この始原的なあい矛盾する「つくる」ことの暴力性をしっかりと保持している様に思われる。
部材としての加工は最小限にとどめられ、白木、丸木のまま用いられる。ある程度時代が下るまで、柱に梁を組むための「貫き」などの穴をあける加工もなされなかった。柱の上に梁がのせられ、釘なども一切使用されない。仏教建築の様な朱塗りなどの表面塗装もなされない。木としての柱を最後まで保存しようとしてきたようなところがある。
そういうことからしても、保存上の問題があり、立て替えられる必要があるのだろう。いや、本質は逆で、そもそも立て替えられるのが前提で、このような木の無垢なままの使用が企てられていたのだろう。
おそらくできたての社殿は、自然の木々の香りが立ち上がる若々しくもなナマナマしい、、ある意味赤膚肌なまでになまめかしいものであることだろう。
そのような自然木の無垢な使用は、例えば数寄屋造り等に受け継がれ、時に「ひねこび」てしまい、あるいは今日の伊勢神宮の様に、あまりにも清潔に完璧に(節のまったくない良材のみが厳選される)工芸化してしまう可能性も見ておかなくてはならない。
7・仮設性(持ち運び、つくりかえ、自然崩壊と再生)
自然界の神々はもともと神出鬼没、不可知のとらえどころのない存在であるから、恒久的人工的な造形概念とは本質的にあい矛盾するのであることは別なところで述べてきた(「依りしろと供物」参考)。
であるので、当初の神社、そのルーツも、大変仮設的、一時的、流動的なものであったと想定できる。今日の民間信仰でもそれは垣間見ることができる。依りしろを仮設的に設置するとか、聖視する場所やもの(岩や木や)に何かのしるしを施す(注連縄や御幣や祠など)。交流儀式が終了すれば、解体放棄してしまうかりそめの造形物だったはずである。「ヒモロギ」の様に持ち運び―移動可能な形式は現在の神社でも痕跡をとどめ、井型に組んだ木材に柱を立てる形式がのこされている(流造、春日造など)。現在祭りなどで使われる神輿などを連想させもする。
そのようなバックボーンを顧慮したうえで「式年遷宮」というものを考える必要がある。定期的につくり、こわし、またつくる。このような式年遷宮の形態は多かれ少なかれ、古代の神社では等しく行なわれてきたようである。それは例えば天皇が新たに立つたびに年号を一新したり、遷都したりするのと連動しているとも言える。
全て破棄して、全てつくりなおすということがなくとも、定期的に茅葺き屋根の張り替えや、修復メンテナンスを繰り返すのは現在でも同じである。
このような定期的な刷新を造形的にセットしている文化はどのくらい普遍的なものなのかちょっとわからないが、伊勢神宮が「世界遺産」の基準を満たすことができないのは残念なことである。これはある意味で日本の文化精神のコアな部分であるから、もっとまじめにその意義するところを抽出し主張していかなければならない様に思う。ブルーノタウトが再三にわたって伊勢と比べたところの、世界遺産のマークにもなる象徴としてのパルテノン神殿と、完全に対極をなす貴重なメタ・建築の「建築」様式であると言えるだろう。
石材の構築によりなるべく壊れにくくつくり希求された永遠性と、定期的に刷新し、その継続を保持することによって受け継がれる永遠性。前者はもはやそれをつくりだした共同体と精神を失い風化し変質しながら、、。後者はそれを育む共同体・精神とともにあり続け、常に若々しく、、。
もしも伊勢神宮の式年遷宮を、ちょっと変更し、いちいち社殿を壊さないで、そのままにして、そのつど別な場所にずらして新しいのをつくればどうだっただろうか?もちろん朽ちてしまうものも多いだろうけども、それなりに、、61回分の社殿、および社殿跡が立ち並びさぞかし壮観だっただろう。
ところで出雲大社はかつては今の倍(48m)の高さがあり、伝説上ではさらにその倍(96m)あったということであるが、そのあり得ない無理な構造がたたってか、自然現象で頻繁に崩れ、そのたびに何度も同形のつくりなおしを行なってきたという記録が残っている。この世界史上稀にみる無茶な構造物をどう考えるのか大変興味があるわけだが(「出雲大社」参考)、ある意味で積極的なとらえ方をしてみた時、この神社の「仮設性」という本質に合致してくる、高度に無自覚的思想的性質を感じてくる。
つまりこの頻繁に自然に壊れてしまう建物は、おそらくその自然な破壊がもともと想定されており、織り込み済みなのであって、自ずから「なる」と人間力が拮抗しながらぶつかり合う―交流をはたしていくような一つのシステムとして解釈できるのではないかということである。そうでも考えないと、この記録上の壊れる頻度と再生の繰り返しは、まるでシューシュポスの神話の様に救いがた。
つまり伊勢型「式年遷宮」の別なタイプとしてそれは想定できうるのではないか。
もともとこの世では有難い構築―ある一定期間の内にかならず自然に壊れてしまうという構造をひとつの建築様式として固定化してしまった神聖な建築様式として。
永遠性、実用性という建築の通常のことわりをはずしてみたとき、そのような神殿のありようは、とりわけあり得ないわけでもないように感じられてくるのだが、、、。
構造上あり得ない建築とその自然な崩壊が織り込み済みなひとつの建築様式が本当にあったとすれば、伊勢神宮とならび、まさに世界に誇りえる造形精神と言えるだろう。
8・オリジナルとコピーの無化
世界遺産の最重要な審査基準として−真正性―というのがあるらしい。
そのものがまぎれもない真実の本物だということが照明されていなければならない。
もちろん式年遷宮の伊勢神宮社殿は、千年以上の形態を保存しつつも、それが最近つくられたばかりのものであるということで、起源の本物―実物ではなく、価値がうすいものとされてしまう。
本物/偽物ということで言えば、それでは伊勢神宮社殿は偽物―本物のイミテーションと言えるのかどうか?
というかそれでは「本物」ってなんだ?ということになって来るだろう。
おそらく伊勢神宮的に言えば千年前の社殿も本物、最近立てた今の社殿も本物。どちらも本物だけど別物。別物だけど同等で本物。ということになるだろう。そうして伊勢神宮的にいえば、本物はけっして一つであるとは限らない。そうして本物とはつねに今・ここにも生きているものであるから、つねに若々しくなければならず、本物はその時に目の前にしているそのものでしかありえない。と考えているように想像できるのだが。
このように自然信仰―神道やアニミズムでは、単純にオリジナルとコピーの区別ができないことは先に触れてきた(「民俗と複製技術」)。この感性が背景にあってこその、「式年遷宮」なのであり、神社建築一般の本質に流れる「仮設性」なのである。
同じように、別な場所に分霊して同系統の神社社殿を建てることが多いわけだが、その場合にも本質的には差はなく、後から建てた方が偽物というものではない。ただしやはりもともとの方が格が上の様な気がし、ちゃんと差があるように思えるのも確かである。
9・復古形式の採用―時間・場所の変換
最初に述べたが、神社形式―切妻・高床式倉庫?形態は、おそらくわざわざ大陸型仏教伽藍に対抗して採用された土着の古い様式ではないかといわれている。
なぜ高床式が選ばれたのか?竪穴式住居ではダメだったのか?(おそらく当時の庶民はあいかわらず竪穴式住居だっただろう)または他に別な何かがなかったのか?そのへんはよくわからないが、何かのデザインが突如無から新しく発明されるという様な事はあり得ない。大概は別なところから、別な機能のものから、別な時代のものから、あるいは何かと何かを合体させて、、という選択しかない。もちろんその選択が全てうまくいって根付いていくとは限らない(根付いたとしても、そこからしだいに変化して独特のものになりかわっていくこともあるだろう)。
おそらく神社建築そのものは、成功したのだろう。それは先にふれたように、単に支配者側から偶然採用されたとばかりは言えない。古代の家型埴輪や様々な土器や銅鐸に描かれた絵を見る時、この高床式切妻屋根の建築物がかなり古くからある種の象徴性をおびていたことが偲ばれることも事実としてある。
いずれにせよ、機能的にも構造的にもわざわざ古い時代の素朴な(ある意味未発達な)建築構造を採用し、基本的には「進化」を止め置いた状態で、大切に保存してきたことは事実である。それは機能的な意味や建築効率的な意味からははかれない何ものかがあるわけである。
だいたいの場合、歴史的に観て、時代が下るにつれ、上等な形式は下等に貶められ、民衆化し一般化していくことが多い。それは言語や衣装、意匠、住居、、、の推移でもあきらかなことである。
が、一方で、一般化しなかったり、取り残され半分忘れ去られた様式が、突如文脈を異にして再生されるとき、まったく新しい象徴性を喚起することがある。
例えば明治維新の時の「錦の御旗」や「王政復古の大号令」や「太政官制の復活」などなどの時代がかった仕掛けの数々、、それは軍国主義の時代猛威をふるった。あるいは現在伝えられている神像の多くが、それがつくられた時代の少し前の貴人の衣装姿である点など。その時代よりも古く、そして相対的に上位の文化様式があえて復古的に用いられる時、そこに聖性が作動してくるといえる。ナポレオン時代の新古典様式は、ヒットラーにしてもスターリンにしても繰り返しあらわれ、成り上がり者を権威づけるのに機能してきた。秀吉の太閤関白の官位へのこだわりしかりである。
そういうことからすれば、当時の切妻高床式建造物採用も同じような構造にあったと想像できるのではないだろうか。そう考えると、日本の神社建築様式は、人類史を貫く、普遍的な象徴機能をてこに用いられ根付き継承されてきていると言えるだろう。
そのような構造は意識的にしろ無自覚的にしろ近現代の造形芸術にも垣間見えることは、別なところで触れている(「美術と前近代文化の類似」参照)。様々水準で要素「変換」を行なうことで、象徴性が起動してくるというものであった。「素材」を変換したり、「スケール」を変換したり、「場所・文脈」を変換したりするわけである。「神社」の場合は、「時間」(スタイル)の変換、あるいはそれと同時に「場所・文脈」の変換であったと言えそうだ。
既に忘却しかかった古い時代の建築物、おそらく集落の中心にあったはずの聖化された高倉式倉庫、あるいは古代豪族、貴人の住居が、突如として現代の深い森の中に出現するということ。
そういうことからすると、実は我々のDNAに刻まれているかのような古式ゆかしい神社イメージは、多分に文化的な―人為操作として形成されてきたものであったのかもしれない。
先述してきている神社固有の特質・意義というものは、実はこのような「切妻高床式建造物スタイル」とは本来無縁なものであり、この政治的になされたスタイルの誘導に、「神社建築」以前の特質が、結果として覆い尽くされることはなく(それがどうして可能だったのか?そもそも採用された切妻高床式スタイルが原始的な形態のものだったからなのか、日本の神道精神が頑なまでに「古式」を固持し続けることができたからなのか)、その本質を保存することができたのだと認識することもできようか。いわば大陸輸入の仏教「建築」に対して意識された神社建築は、「建築」の模倣―「モドキ」であり、所謂「建築」をはみ出す部分にその本質がある。その建築ならざる本質は、「建築」以前の「原・建築」的性質を具現しているのである。だから日本の神社建築は、その社殿建築に限ってみれば、スタイルとしての建築「モドキ」と、本質としての建築「ならざるもの」が溶け合うことなく、其々バラバラに同居し、絶えずキシミ続けている大変奇妙な構築物であると言えるかもしれない。